たくさんの白菜が、純子の目の前には並んでいた。すべてをそのまま使うことはできないので、一部は冷凍して保存をしたり、白菜漬けにするつもりだ。さっぱりとした味わいの白菜なら、サラダ感覚で漬物もいただける。
純子は、そんなことを考えながら、子どもも大人も楽しめるそんなメニューを考えた。疲れが吹き飛ぶような、温かくなれて、野菜もたっぷり食べられるようなもの。
荒尾がキッチンを少しだけ覗いた時、純子は楽しそうにキッチンに立っていた。彼女は、とても幸せそうな顔をしていて、誰かのために料理をすることを楽しんでいる。誰かのために―――その気持ちがあるからこそ、彼女はここでの生活を楽しめて、続けることができるのだろう。
会社を辞めて、安定的な生活を捨てることは、都会の人間では恐怖のはずだ。しかし、彼女はそれを捨てて、亡き両親の大切にしていたものを、守ろうとしている。それは、会社の仕事のどんなものよりも、大変で、苦労するだろう。特に、終わりの見えない世界だ。お客が来なければ成り立たないのは、会社の仕事と同じだが、決められたことをするわけではない。自分で考え、お客のことを思い、動かねばならないのだ。それを考えると、純子のしようとしていることは、営業マンである荒尾から見ても、大変なものばかりである。
しばらく彼女の様子を見ていたが、特に手伝うこともなさそうだったので、荒尾は自室に戻ることにした。
赤坂の長男夫婦は、子どもたちを見守りながら、ティータイムを過ごしている。急いで帰ってきたので、まともな休憩も取れなかったのだろう。ペンションのソファーは、そんな客にとって、癒しの場となっていた。
部屋に戻った荒尾は、残りの数日をどう過ごすべきか、悩んだ。悩むほどのことか、と言われるかもしれないが、こんなに充実して楽しい休日は、今までなかったのである。長期の休みすらまともにとっていなかったので、この時間は不思議なくらい自分を癒してくれた。
疲れた客を癒せるペンションなら、これから先も需要は高いはず―――このご時世、インターネットでの情報発信だけではなく、SNSの運用も必要だろう。それが純子1人でできるのか。できたとしても、すべてを見続けることもできないだろう。気軽に情報発信ができるようになった反面、それで炎上することも増えている。些細なやりとりの失敗や、すれ違いから、大きなトラブルに発展しかねないのだ。
そんなことを考えながら、荒尾は自分の残りの仕事を整える。もともと多くの仕事を持ってきていたわけではないので、整える程度、整理すればいい、という感覚だったのだ。しかし、パソコンの画面に並んだ顧客の情報を見ても、面白いと思えない。今までは、このお客には何を提案すればいいのか、まるで頭の中で湧き出るようにアイデアが出てきていたのである。
しかし今は、からっきしだった。何も浮かばないし、この名前を見て、誰なのかすぐに分からないことが増えた。別にそれは、失敗したとか、何か間違えが起きたからではない。彼にとって、自分の営業マンとしての仕事が、そんなに大きなことではなくなってきたのだろう。やればできるが、やる気が起きない。それはここの生活が、とても恋しいと思ってしまったからだろうか。
忙しい日々は、いい意味で寂しさを和らげてくれる。しかし同時に、楽しいことや夢や希望も、遠くへ追いやってしまうことが多かった。自分の世界はそんなものなのだろうか、と若い人が思ってしまうのも分かる。荒尾にとって、その世界観は自分の持っているものとも近いからだ。しかし、社会人としてそれではいけない、と自分を奮い立たせ、業績を伸ばしてきた。何度も倒れそうだと思っても、無理をして前を向く。そうして、気づけば長くまとまった休みがない。
パソコンを閉じて、荒尾は外を見た。もうすぐ春が来る。春が来れば、きっとすぐに夏が来る。
そうなると、ここの景色は様変わりするだろう。花が咲いて、枯れて、新緑が芽吹く。そして、またその木々が枯れ、冬が来る。冬が来れば、荒尾にとって見たことのある今と同じ季節が来るはずだ。しかし、その時の冬が今と同じではないことを、荒尾は大人なので理解できていた。
でも、心の中では四季折々のこの場所に、自分もいたいと思ってしまう。このペンションで長く過ごして、隣に純子がいてくれれば、と思った。そんなことを望めるような関係を作ってこなかったくせに、今になってこの休みが惜しいのだろうか。終わってしまう休みが嫌で、自分もここに残りたいと思っているのだろうか。
しかし、荒尾にとって休みなど、なくてもいいものだと思った。寝て起きれば体力は回復するし、何か口に入れれば、空腹も収まった。では、なんだろうか。そんなことを考えていると、窓の外に親子が見える。彼らは自然の中を楽しそうに歩き、親子の時間を楽しんでいた。幸せとはこういうものなのだ、と見せてくれる。
しばらくその様子を見た荒尾は、一度だけ息を吐いて、それから部屋を出た。部屋を出て、そのままキッチンへ向かう。
「中野瀬」
「荒尾さん?どうしました?」
「何か手伝う」
「いえいえ、私だけで十分ですよ。どうしたんですか?」
「いいんだ、俺が何か手伝いたくて。いや、手伝わせてくれないか?」
彼の真剣な目を見て、純子は思った。この人は、本当に何かをしたい、と思ってキッチンに来てくれているのだ。子どもたちの親は、戻った。そうなれば、彼の役目は何になるのか。ただの荒尾か、ただの客人か。でも、ただの客人で終わりたいなど、誰も思わない。
ペンションは夢が見られて、癒される場所―――両親はそんなことを言っていた。
だから、場所も時間も特別。ペンションのある場所は、特別な場所でなければならない。それが両親の想いだった。だからこそ、純子もこの【特別な場所】を残しておきたい、と思えたのである。
「そうですね。では、白菜を洗ってもらえますか?たくさんありますから」
「わかった。どうしたらいいか、説明してくれるか?」
「はい。ではまず……」
純子は、彼のこういう丁寧なところが、営業成績を伸ばす秘訣なのだろう、と思う。どんな状況であっても、彼は学ぶことを厭わない。特に、知らないことに対しては丁寧に尋ねてくれる。たとえ相手が女性でも、子どもでも。だからこそ、素直に伸びることができるのだろう。
「ここに包丁を入れてもらって」
「わかった」
「ここからは、葉を剥がしてください。多少ちぎれても、気にしなくていいです。これは全部カットしてしまうので」
「そうか。それなら俺でもできるな」
納得できた時の彼の顔は、とても穏やかだった。その顔ができるから、やはり優秀な人は違うのだろうな、と純子は思った。相手に伝わったと感じる時、その表情があると、とても安心できることを彼から知ったのだ。
「今日は何を作るつもりなんだ?そういえば、白菜ロールもするつもりだったんだろう?」
「そうですね。でもちょっと予定変更で」
「予定変更か。残念だが、ちょっと期待してしまう自分もいる。お恥ずかしながら」
荒尾は手を止めることなく、そんな話をしてきた。純子が面白そうに笑うと、荒尾も笑ってしまう。
「今日は、白菜をたくさん入れたお鍋にします」
「お、シンプルイズベストだな」
「でもたくさんいろいろなものを入れます。肉団子、鶏肉、豚肉、お野菜もたっぷり」
「シンプルじゃなかった。読みが外れたが、俺は嬉しい」
「肝心なのは、それを味わうためのタレだと思いませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、荒尾の手が止まった。
そして、その目が子どものようにキラキラ輝き出すのであった。