荒尾は少し―――いや、それ以上の恥ずかしさや不安を感じていた。同じくらいの希望や、夢への大きな期待もあるのだが、純子が未経験の荒尾に対して、どんなことを言うのか、彼には想像ができない。ひどい反応をされるとは思わないが、管理栄養士を持っている彼女にしてみれば、プロが子どもの夢を聞くような、それくらいかもしれない、と荒尾は思った。
「俺……最近ちょっと思ってたんだ。料理で、誰かの役に立てたらいいなってな。まだ自己満足の世界だけど」
歩きながら、荒尾はポケットの中で自分の指をぎゅっと握った。ほんの少し前まで、お腹が空いていて、パンを食べようと思っていたのに、自分の夢を語り出した途端に、その空腹は消えていった。人間とは変なものだな、と思う。ちょっとしたことを気にして、体が変化してしまうのだ。ストレスで病気になる理由も、よくわかる。
「でも、俺、営業の仕事しか知らないしな。なんというか、どういうことがいいのかも、はっきりはしていないんだ。ただ料理があれば、みんな楽しくて幸せになれるかなって、そんな子どもみたいな話しかまだできなくて。申し訳ない」
純子は、少しだけ驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。荒尾はその顔を見て、やっと安心できたように思う。その笑顔は、いつもの純子なのだが、そこにあるのは落ち着きと受け入れ。荒尾の小さな夢を、純子は受け入れてくれたのだと、感じられた。
「例えばなんだが、食事を提供する仕事っていうのは、どんなものがあるんだ?想像できるのは、まあ、病院とか、レストランとかかな」
「そうですね、病院の食事は患者さんの回復を助けるものだし、介護施設では咀嚼力が弱い人でも食べやすいメニューが求められる。レストランも一般向けのものから、最近は赤ちゃんづれのお母さんが入れるお店も人気みたいです。あと、子ども食堂。最近は一人でご飯を食べる子も多いから、栄養だけじゃなく誰かと食べることがすごく大事なんです」
荒尾は、そのひとつひとつの言葉を噛みしめるように聞いていた。病院や介護施設は、想像が簡単にできる。自分でも、体調が悪い時や、高齢になって食べるに課題が出た時は、サポートが欲しくなる。赤ちゃん連れのお母さんのことは、今回の子どもの世話でよくわかった。あんな風に食べると汚れるが一緒になっていたり、ちゃんと見ていないと危険、一緒に食べる時間が取れない、などを考えると、それを受け入れてくれる場所は必要だ。そして。
「子ども食堂か。ニュースで少し聞いたことはあるけどな」
「でも、どの地域でも開催する回数や、場所、ボランティア、資金、課題がたくさんあって、なかなかたくさんはできないみたいなんです」
「そうだろうな。お金をたくさんもらって、提供するものでもないんだろ?どれくらいの数を準備するとか、場所を準備できるとか、難しそうだ」
ニュースでは、子ども食堂のことを特集していることもあった。その映像に映っていたのは、とてもシンプルな食事だけ。豪華なものではなく、食べやすくて栄養を考えられたものだ。楽しそうに食べている子どもたちは、とても可愛らしかったが、手伝っているのはほとんどが高齢者。若い世代は、なかなかボランティアをする時間を捻出できないのだ。
純子が、話を続ける。他の食事や料理に関する仕事の話だった。
「あと、レシピの開発って仕事もありますね。食品会社とかレストランのメニュー開発とか。それに、お弁当の配達も需要あるし、ボランティアで料理教室を開いたりもできる」
「すごいな……そういうのって、やっぱり資格とか必要なんだろう?」
「うーん、たしかに管理栄養士じゃないとできない仕事もあるけど、全部がそうではないですよ。気持ちと経験があれば、できることもたくさんあって、現場で経験を積むことで受験できるようになる資格もあります」
「資格が要らないこともあるのか……」
「あればいいけれど、必須ではない場合も。あとは、法律なんかで決まっている時は、それに従わなきゃいけないんですけど」
「そうか。じゃあ、いろいろ調べたり、確認しなきゃいけないな」
袋いっぱいのパンを抱えて荒尾はそんなことを言った。純子は、彼が本気であることを感じ取ったが、どう進めばいいのか迷っているのだろうな、と思う。かつての自分もそうであったように、自分の将来を考えるのは、なかなかに大変な作業なのだ。やってみたい、と思っていても、そうそう上手くいくことばかりではない。
「……中野瀬、これはただの提案なんだが」
「はい」
「このペンションで、料理を通じて何かできたら、って思ったんだ。子ども食堂まではいかなくても、地元の人にごはんを届けるとか、宿泊者にちょっと健康を意識した料理を出すとか……今の俺ではそれくらいしか考えつかないが」
純子は黙って荒尾の横顔を見ていた。彼の耳がほんのり赤くなっていく。次第に、事の重大さを理解した純子は、荒尾が言いたいことの意味がじんわりと分かってくる。まるで猫が驚いた時のように、純子の目もゆっくりと丸くなっていった。
「つまり……その……俺、ここに残った方がいいんじゃないかなって、思うんだ。営業の仕事も、続けたいが、料理の経験も中途半端かもしれないけど……なんか、やってみたくてな」
その言葉を言い終わるよりも早く、荒尾の顔は真っ赤になった。自分でも何を言ってるのか分からなくなるほど、心臓がバクバクと音を立てている。いい年をした大人なのに、営業の仕事しか知らないのに、ここにはそもそも休暇で来たのに。今となっては、このままここに居座りたいと言ってしまったのだ。
純子との関係は、まだ知り合いで、良くて友人だ。まあ、友人と言ってもおかしくはないくらいに、仲はいいだろう。喧嘩をすることはないが、男女の仲でもなく、でも一緒に料理をしたり、買い出しに出たりのことくらいはできる。だが、そんな曖昧な関係なのに、ここに居座りたいなんて、なんて図々しいヤツだろう、と荒尾は自分のことを思ったのだ。
「……ああ、ごめん、なんか変なこと言ったかも。忘れてくれていいよ、今の……」
「いえ、そんな」
「すまない、図々しいよな。休暇で来た客が、帰りたくないなんて。しかもペンションの何かを手伝うとか」
「いえ、それは、すごく嬉しくて……」
「そ、そうか……?」
「でも、今のうちの状況じゃ、荒尾さんにお支払いできるお給料がなくて」
少し違う方向に進んでいないか、と荒尾は思う。彼女は、頭の中で荒尾和弘という【トップエリート営業マン】をこの【ペンション・リガーレで雇わねばならない】と思ったのだ。彼を雇うとなれば、いくらかかるのか。それがどう考えても、今の経営状況では無理だ。いや、今後も無理に決まっている。夏に学生バイトを雇った時でさえ、ギリギリのギリ。なんとか赤字は免れたくらいであって、余裕はない。
「きゅ、給料はバイト代くらいでいい。ただ、空いている時間は別の仕事をさせてくれれば、食ってはいけると思うんだ」
「え、でも、それならやっぱり営業のお仕事のままがいいんじゃないでしょうか?」
「そうだな、給料だけを考えるならそうかもしれない。でもな、中野瀬」
純子は、いつも荒尾が食事を目の前にした時、少年のように目を輝かせることを知っていた。その目が、まるで星を散りばめたようにきれいで、夢にあふれていて、温かいこと。
今、彼はそんな目をしている。
少し目を細めるようにして、笑った。
「夢は、叶えるものだろ。いつまでも寝ていたら、叶わない」
そうか。
この場所は、もう自分だけの場所じゃなくなったんだ―――純子はそう思うのだった。