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第61食:ジャガイモのガレットと進路相談

荒尾は意図せず割と格好いいセリフを吐いてしまった。そのことに気づいた時、彼は顔を赤くすると同時に、お腹がグウと鳴った。手提げ袋は大きくふくらみ、パンの香りがほのかに漂っている。


「……ちょっと、買いすぎじゃないですか?」

「いや、つい。ほら、どれも美味しそうだったし……」

「まあ、この時間ならブランチって感じで、昼食も兼用でいいかもですね」

「そうだな。美味しいコーヒーを淹れるよ」


温かいコーヒーに、今日は牛乳を入れて、カフェオレにしてもいいかもしれない。少し砂糖を入れて、甘くて美味しくアレンジしたって楽しめる。パンを最高に楽しむためにできることは、なんだってやろう。荒尾はそんな意気込みで、純子の横顔を見る。

機嫌のよさそうな彼女は、どことなく前を向ているような気がした。ペンションの経営のこと、自分の管理栄養士の資格のこと。悩むことはたくさんあるけれど、それを少しだけ前向きに捉えているかのような、そんな雰囲気だ。


「ふふ、パンって言ったら、荒尾さんのコーヒーですね」

「そうだろ。定番商品にできるな」

「もう定番商品ができましたね」


つまり、荒尾がここにずっといることを、純子も受け入れてくれたことになる。最初はそういう些細なことから始まって、いつかペンションで、純子の役に立って、周囲の人をたくさん呼んで、みんなが笑顔になることをしたい―――荒尾は、自分の夢が進み出したことを感じ取っていた。


「荒尾さん、どんなパンを買ったんですか?カレーパン好きでしたよね」

「そうだな、今日はバターロール、クロワッサン、レーズンパン、カレーパン、中野瀬がオススメしていた、サンドイッチにクリームパン……」

「まだあるんですか?」

「う、たくさん買ってしまって……」

「もー、荒尾さんったら。そのうち、パンがないと生きていけなくなっちゃいますよ!」


そんな人生も面白いかもしれない、と荒尾は思った。美味しいパンを求めて、どこか旅行に行ってみようか。有名なパン屋さんをめぐって、楽しい日々を過ごすのもいいかもしれない。そんなことを、荒尾は考えたのだ。その隣に、純子がいてくれたら。彼女と一緒に歩んでいけたら。そんなことを思った。


「私は、いちじくとくるみのパンを買いました。美味しいんですよ。バターでもクリームチーズでも合います」

「そういえば、中野瀬は飲まないのか?」

「お酒ですか?」

「ああ。ペンションではアルコールが出ないと思ってな。そのパンなら、ワインが合うんじゃないかって思ったんだよ」

「そうですね。アルコールに知識が明るくないので、そのうち……とは思ってますけど。私自身はあんまり飲みません」

「そうか。実のところ、俺もそんなにたくさん飲む方じゃなくってな。仕事のついで程度だよ」

「営業の仕事なのに、それで大丈夫だったんですか?」


純子が驚いたようにして尋ねると、荒尾は真面目な顔で言った。営業の仕事は、アルコールを飲む仕事じゃないんだぞ、と。昔は飲みの席で、さまざまな話をしたり、情報交換もあっただろう。しかし今の時代は、プライベートと仕事が切り離される時代だ。そんな席に出なければ仕事ができない、というのは、おかしな話だと荒尾は思う。事実、荒尾は接待に参加することもあれば、飲み会の一次会だけは参加するが、仕事はそれ以上の成果を出している。飲まなくても仕事はできるーーーそれが荒尾の信条でもあった。


「まあ、飲み会の席で楽しい気分になるのは、悪いことじゃないけどな」

「そうですけど」

「でも、飲まなきゃ仕事ができないってんなら、会社でも飲まなきゃいけなくなるだろ?そんなんじゃ、いつまで経っても仕事にはならん」


真面目な荒尾の顔を見て、純子は自分が恥ずかしくなった。考えてみれば分かることなのに、ついつい昔の考えで口が滑ったのである。


「それに、アルコールで腹を膨らませては、美味いものが食えないじゃないか」

「あ、そうですね」

「その方が大事だろ」

「確かに!」


その笑顔を見て、荒尾もようやく自然に笑みがこぼれた。

そうして2人は、ペンション・リガーレのカフェスペースに戻る。そして、木のテーブルにパンを並べていった。


「即席ですけど、スープ作りましょうか」

「できるのか?」

「簡単なコンソメスープなら」


純子はエプロンをつけて、キッチンに立つ。こんな時は、すぐにできるコンソメスープがいいだろう。少しのベーコンとタマネギを入れて、水とコンソメで煮込めばすぐにできる。冷蔵庫を開いて、タマネギを発見した時、純子はジャガイモが目に入った。母はジャガイモが好きで、ジャガイモ料理が上手だったな、とふと思い出す。和風も洋風も、どちらも美味しく作れる人。純子はあの味を口に入れて、育ってきた。

ジャガイモを手に取って、純子は母のことを思い出す。


それは高校三年の夏。受験に向けて周りの友達がどんどん進路を決めていく中、純子だけは何をしたいのか、分からなかった。


実家はすでにこの場所にあったが、予定ではもうすぐペンションとしてオープンする頃合いだった。だから両親は毎日忙しそうにしている。忙しい両親に相談することがなかなかできず、純子は迷っていた。料理は好き。食べることも。でも、それを職業にするのは、現実味がなかった。


ある夕方、思い切って両親に相談しようと、リビングに向かったが、両親は仕込みの真っ最中。テーブルの上には大量の野菜、鍋からはカレーの香り。スパイスたっぷりのいい香りはしたが、それは純子の小さな勇気をかき消してしまう。


 「また今度にしようかな……」


進路相談なんて、些細なこと。高校生の純子には、そうしか思えなかったのだ。自分の人生の相談なんて、両親の夢であるペンションに比べたら小さなことにしか、思えなかった。


 「純子、ちょっと待って!」


エプロン姿の母が、キッチンから何かを運んできた。大きめの白い皿に盛られていたのは、ジャガイモのガレット。カリカリに焼けたジャガイモと、表面にとろけたチーズが香ばしく香り、真ん中には半熟の目玉焼きがとろりとのっている。


 「これ、大好きでしょ? 焦げる前に、早く食べなさい!」


母のジャガイモのガレットは美味しい。塩味がちょうどいいくらいに効いているし、半熟の目玉焼きでお腹いっぱいになれる。朝食にもピッタリだし、おやつとして食べても満足できる。純子は、そのガレットの湯気に包まれながら、ぽつりと呟いた。


「お母さん、その……進路、まだ決まらなくて……」


すると母は、「ふーん」とだけ言って、近くに腰を下ろした。少し休憩する気になったのだろうか、と純子は思ったが、母は娘の顔をしっかりと見ている。


「料理、好きだったんじゃなかった? 食べる人の顔、見るのも好きだったでしょ。あんたの良いとこ、そこなんじゃない?」


あまりにあっさりした言い方に、純子は拍子抜けした。でも、それが逆によく、大げさにされると、きっと話せなかっただろう。高校生の進路なんて、と思っていた純子の気持ちを、母はたったそれだけで吹き飛ばしてくれた。話を聞いてくれるだけじゃなく、迷いや不安を吹き飛ばす―――母の大きさを感じ取ったのだ。


「好きなこと、仕事にするのが一番大変。でも、一番頑張れるのも、好きなことだと思うよ」

「お母さん……」

「だから、お母さんとお父さんも、ペンションやろうって決めたの!」


母のその言葉と、カリカリのガレットの味は、今でもはっきり覚えている。カリカリのジャガイモ、チーズのとろける美味しさ、半熟の目玉焼きでお腹いっぱいになって、部屋に戻ったらそのまま眠ってしまったのだ。次に目を覚ました時、夕食にはあのカレーが並んでいた。


料理と母の記憶が混じり合う。純子はそんなことを考えながら、コンソメスープ用にタマネギをスライスした。

小さな鍋の中で、透き通ったコンソメスープができあがる。


「お母さん、ペンションの住人が増えそうだよ」


純子は鍋に向かって、そんな報告をするのだった。


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