純子の温かいスープができあがり、荒尾はとても喜んでパンを見た。たくさんあるパンたちは、荒尾が厳選して選んだだけのことはあり、テーブルにあるだけでとてもしっかりとした存在感である。同時に、純子の作ったスープはパンにぴったりだ。口の中でバターが広がっても、それをサラッと解決してくれるコンソメの風味。パンの柔らかさと甘さを堪能したあとは、ちょっと塩味の効いたスープが口の中を締めていく。
まずはクロワッサンからいただく。バターの層がきらめき、指で触れただけでサクッと音がしそうだ。ひと口かじると、外はカリッと、中はふわりとした食感。香ばしさと甘さが口いっぱいに広がる。たっぷり使われた上質なバターが、荒尾の口の中を幸せに導く。
次に口に入れたのは、バターロール。しっとりとやわらかく、噛むたびに優しい甘さがじんわり染み出す。食事用のパンであるはずなのに、これが主役だと言ってもおかしくはないくらいの美味しさ。
ここでスープをいただく。口の中がサッパリとリセットされ、程よい塩味が感じられる。こうすることで、次のパンも美味しくいただけるのだ。
次のレーズンパンはほどよい酸味と甘みがバランス良く、パンの上にかかったシュガーがいい感じにザクザクと感じられた。甘さと酸味、食感。その三拍子がそろっている。
次のカレーパンは軽く温めたせいで、衣がサクッと音を立て、スパイスの香りがふわりと鼻を抜ける。中身のカレーも手作りと聞いたので、より美味しさが増したような気がしてきた。
「うん、美味いな」
「本当、ここのパンって美味しいですよね。それだけで食べても美味しいけれど、これをサンドイッチにしたり、他の食事と合わせても美味しいと思います」
「そうだな!いつかパンのビュッフェスタイルなんか、いいんじゃないか?」
「楽しそう!いいですね!子ども用スペースとかあれば、子ども達も気兼ねなく楽しめますよね!」
「子どもたちのパン屋さんってのもいいんじゃないか?」
「それ、いいかも!すごくかわいい!」
純子と荒尾は笑い合い、かわいいパン屋さんの姿を思い描いた。ペンションの一角やカフェを、そういう意味合いで使っていくのも面白いだろう。2人の中で夢が広がっていく。
「いろいろ企画して、長期的なお休みの時は盛りだくさんにしたいですね。宿泊客じゃなくても参加できるとか」
「日帰りなら、需要はもっとありそうだよな。会社員だと限られた時間しかないから、有効に使いたいし」
「食事とイベントのセットプランとか、赤坂さんに頼んで田植え体験と食事をセットにするとか、そういうのも楽しいかも」
「赤坂さんが張り切りそうだなぁ!」
2人の脳裏には、豪快に笑う赤坂の笑顔が見えた。田畑の一部を体験用に貸し出しているのは、よくある話なのだが、実際にそれをしようとするのは、なかなか大変な話である。純子も荒尾も、農業のことは分からない。それなら、分かる人を捕まえて、協力してもらおうと思った。
季節限定のイベントも面白いが、一年を通して体験できるものは、子ども達に受けそうだ。子どもの成長と一緒に、畑や田んぼの成長を見守って、最終的には収穫、調理までを体験できる一貫したイベント。準備やレクチャー、細かい説明などは、すべてこちらでするようにして、親の負担を減らす。そういった細かいアイデアが浮かぶのは、荒尾の営業職ならでは、というところだった。
「そうだ、こんなに楽しいイベントの企画があるなら、あの子に手伝ってもらえば……」
「あの子?」
「実は、パン屋の娘さんに千香ちゃんって大学生がいるんです。夏とか長期の休みに、忙しい時だけバイトを頼んでいて」
「へぇ、そんな子が」
「今年の冬は予約が少なかったし、千香ちゃんも大学で忙しかったのでバイトはお願いしませんでした。でも、そろそろ春だから一時的にでも、こっちに顔を出すんじゃないかな……?」
パン屋の娘である千香は、パン屋を継ぐつもりはないらしい。しかし、地元へ戻ってきて、地域に根付いた活動や地域おこしをやりたいという気持ちは強く持っている。同時に、人をつないだり、地域をつないだり、さまざまなことをしたい、と大学でも学んでいる最中だという。
「助けてくれそうな人がいるなら、頼んでみてもいいんじゃないか?」
「そうですね!」
「それなら、俺もコーヒーの淹れ方とかを本格的に学んで……」
「あ、このコーヒー美味しいですもんね!」
純子は荒尾が淹れてくれたコーヒーを、とても気に入っていた。自分で淹れるとちょっとイマイチだな、と思っていた彼女にとって、今では荒尾のコーヒーがとても大事なものになっている。世の中にコーヒーと名の付くものはありふれていたが、こんなに自分の中でしっくりくるものは、初めてだと思えるくらいに美味しかった。
また、荒尾のコーヒーはパンにもよく合っている。深入りの豆を丁寧にハンドドリップで抽出した香り高い一杯。ほどよい苦味とコクが、甘いパンとも相性抜群だった。まさにパンが好きな人間が、パンと合うコーヒーを選び抜いた、と言っても過言ではないようなコーヒーなのだ。
「私はコーヒーを淹れるのが苦手で」
「うーん、中野瀬のは苦手と言うか」
「苦手と言うか?」
「少し、力み過ぎのような、そんな味がしていたな」
「な、なんですか、それ!?」
「まあ、緊張しすぎていたんじゃないか?そんな雰囲気の味を感じたっていうか。料理はそんなことないんだけどな?」
言いながらも、荒尾は照れたようにマグカップの取っ手をいじっていた。料理とコーヒーを一緒にすることはできないが、純子と荒尾は担当を別にした方がよさそうな雰囲気である。適材適所、得意なところを任せていく、という話だ。
実のところ、純子も両親が残してくれたカフェを切り盛りするのがやっとで、コーヒーや紅茶のいい淹れ方までは辿り着けていなかった。見よう見まねで、それなりの状況まで持って行くくらいのものである。今までは、それでもいいと感じていた。それに文句を言うようなお客様はいなかったし、自分も悪くないと思っていたからである。しかし、荒尾のコーヒーを口にするようになって、今までの考えが甘かったことに気づかされる。
彼は、そもそも努力家だと思った。営業という忙しい仕事の中、時間を見つけてコーヒーの淹れ方を考えていたらしい。趣味の範囲で、とは言いながらも、立派なものである。
2人はパンと一緒にコーヒーをしっかり飲み終わった。飲み終わったカップを純子が眺めていたので、荒尾は気を利かせて席を立つ。
「じゃあ……コーヒーもう1杯、淹れてくる」
「え、いいんですか?」
「俺ももう1杯飲みたかったところだから、気にしなくていい」
荒尾の表情は落ち着いていて、優しかった。彼にとって、この時間はとても穏やかな気持ちに慣れたのだろう。純子はそれを感じ取れて、自分自身も穏やかな気持ちになれるのだった。
コーヒーがドリップされる間の時間、荒尾はスマートフォンを開いた。検索窓に「料理 人のためになる仕事」と打ち込んでみる。すると、様々な情報が出てきた。子ども食堂の運営、高齢者向けのお弁当配達サービス、食育の講師、地域イベントでの炊き出し、訪問調理サポート。1つひとつ、スクロールしながら読み進めるうちに、荒尾の表情が少しずつ真剣になっていく。
病気の人に向けた栄養食を調理する仕事。高齢者の噛む力や栄養吸収を考えた献立。食事が難しい子どもたちにとって、温かくて安全な食事がどれだけ支えになるか。管理栄養士の重要さ、調理場で調理してくれる人、配膳するスタッフ、さまざまな存在が、すべてを支えているように感じられた。読めば読むほど、「料理」が誰かの人生と深く関わっている現実に、荒尾の胸がじんわりと熱くなる。
「……やっぱり、管理栄養士って、すごい仕事だな」
スマートフォンを静かに置いた荒尾は、落ちてくる黒い雫を眺め、ぽつりとつぶやいた。
その声は小さくても、どこか真っ直ぐだった。