純子は、コーヒーが入るまでの間、テーブルにあるパンの耳を眺めた。ただのパンの耳、捨てられてもおかしくないような部分なのに、ちょっとした工夫と手間をかけることで、十分に美味しいものができるのだ。それは、料理の腕がいいからとか、そういうことが理由ではない。今の荒尾のように、何かをしたいという、夢や希望に満ち溢れた、人の心があればできること。でも、多くの人がそれを叶えられずに、負けてしまうことが多いのに、荒尾は前を向いていた。
本当ならば、彼は営業職を続けた方が、金銭面でもこれからの人生にとってもいいだろう。営業部のエース、慕われる人柄と、真面目な性格があるからだ。しかし、彼はそれを捨てて、自分のやりたい世界に飛び込もうとしている。
かつて、純子が管理栄養士になりたい、と思って受験をしたあの頃。あの頃と似ているな、と純子は思った。
テーブルの端に静かに置かれている、パンの耳。その一片が、荒尾にとっての「最初の一歩」になりつつあることを、純子は気づいている。
「コーヒー、入ったぞ」
「ありがとうございます」
荒尾から温かいコーヒーを受け取った純子は、夏になったらアイスコーヒーも飲みたいな、と自然に思ってしまう。その時、彼がこのペンションにいてくれることを願う自分がいることに、違和感などなかった。暑い日差しの中、汗を流して外から戻って、涼しいカフェの席に座る―――荒尾が淹れてくれたアイスコーヒーを、いろいろなお客様が楽しんでくれるのだ。
そんな未来が、楽しみだと純子は思えた。それをどうやって言葉にすべきか、荒尾にどう伝えるべきか、迷ってしまうけれど―――
「このコーヒーを飲んだら、パンの耳を揚げよう」
「そうですね」
「シンプルな味付けで、砂糖だけにして……」
「コンソメとか、カレー粉も美味しいんじゃないですか?」
あ、と荒尾の表情が固まった。しかし、その時の彼の頭の中は、急速に回転している。パンの耳は、パンと同じ味だ。それなら、コンソメでもカレー粉でも美味しいはず。甘くないおやつだって、美味い。それは事実だ。
「それは、美味いやつ……!」
「ですよね!いろいろな味付けができるのって、最高!」
「ポテトチップスは腹にたまらないが、パンの耳なら!」
「荒尾さん、それは食べすぎですよ!」
食べすぎと言われても、食べたくなる。いろいろな味を試していたら、きっと右も左も欲しくなる。それでいいじゃないか、と荒尾が思った時、カフェのドアが勢いよく開いた。
「こんにちはー!!!」
カランカラン――と扉のベルが勢いよく鳴り、ペンション全体に響くような大きな声が飛び込んできた。この声は、と純子が見ればそこには若い女性が立っている。年の頃は20代の前半か。
「おひさしぶりですー! 春休み入ったから来ちゃいましたー!!って、あれ、お客さんいたんだ?」
荒尾が思わず身を起こす。玄関から入ってきたのは、長い黒髪をひとつ結びにし、明るいオレンジ色のトートバッグを肩にかけた、快活そうな女子だった。慣れているのか、純子とその目の前にいる荒尾を交互に見ていた。
「
「お久しぶりです、純子さん!急に来ちゃって、すみません!友だちが近くまで送ってくれたんですけど、途中で降ろされちゃって!」
「え、大丈夫だったの?」
「はい!友だちバイト忘れてたみたいで、急いで帰りました!」
友だちの心配をしているんじゃない、と荒尾は思ったが、千香と呼ばれた女性はニコニコしている。そして、彼女が先ほど純子の話に出てきた千香だと気づいた。
「ちょっとちょっと、千香ちゃん、連絡くらいしてよ!」
「えへへ~!ごめんなさい、でも純子さんが『いつでもおいで』って言ったじゃん! だから、文字通り今!来ました!」
千香は大げさに肩をすくめながら、トートバッグをごそごそと漁った。元から活発なタイプなのか、シンプルな格好なのにそれが様になっている。元気の良さを擬人化したら、こんな感じだろうと容易に分かった。荒尾はすっかり千香に押されてしまい、純子と千香が楽しそうに話しているのを眺めることしかできなかった。
「ほいっ! 手土産ー! 春の味覚・たけのこと菜の花! あと、うちの近くでとれたふきも入ってるよ!」
「わあ、すごい! ありがとう、嬉しい!」
「友だちと収穫に行ってたんですよねー!」
「そ、それは大変だったね。あはは、千香ちゃんは慣れてるだろうけど」
「そーなんです!友だち、1人転がって行っちゃって!」
バッグから現れたのは、ツヤのあるタケノコ、鮮やかな緑の菜の花、そして優しい香りを放つふきの束。土の香りがほんのりと漂い、まさに春の恵みがぎゅっと詰まっていた。ものは確かにいいものだが、千香の話を聞くと都会の大学生には、この田舎の山で収穫など、スポーツよりも大変だったのではないか。荒尾はそう思いながら、並べられたタケノコを見る。まだ皮が付いた状態で、八百屋でくらいしか見たことのない状態だった。
「今夜は春のおかずが増えそうだね。楽しみ!」
純子は顔をほころばせながら、受け取った野菜たちをすぐにキッチンへと運んでいく。千香も「そうでしょ~!」と笑顔だった。それから、彼女はやっと荒尾に向き直る。
「
「荒尾和弘です」
「荒尾さんって、お客さん……ですよね?」
「まあ、はい……あの、茂丘さんって」
「千香でいいです!」
「千香さんって、あのパン屋の娘さんの?」
はい、と千香は笑顔で返事をした。その顔を見て、荒尾はパン屋の店主によく似ているな、と気づく。あのパン屋の店主は、言葉数は少ないが時々見せてくれる笑顔があるのだ。あんなに美味しいパン屋なのに、彼女は継がないという。確かに、若い世代にとって、田舎の小さなパン屋を経営するのは荷が重いのだろう。
「うちのパン、美味しいでしょ!」
「あ、それはもちろん。もうファンで」
「よかったー!私がパン屋継がないって決めたから、両親がこれからどうしようかなって言ってて。全然人気のないパンなら、諦めつくんでしょうけど。そうでもないんだよなぁ、これが!」
褒めているのか、なんなのか。千香の様子から、荒尾はなんと返事をすべきか困ってしまった。その時、荒尾は千香ならイベントごとを手伝ってくれるかもしれない、と言っていた純子のことを思い出す。
「千香さん、あの、君ってイベントごととか手伝うの得意なのかな?俺、ここでいろいろやりたいと思ってて」
「得意?そーですね、今、いろいろ勉強してるんで!」
「勉強?」
「はい!いずれは企業とか、経営とかも!」
「パン屋じゃなくて?」
「うーん、パン屋以外で!」
慣れ親しんだ世界から飛び出したい、そんな夢を彼女も持っている。荒尾は、そんなところが自分と一緒かもしれない、と思えるのだった。
千香はふうっと一息つき、改めてカフェのテーブルに座る。
「荒尾さんはどんな企画とか考えてるんですか?てか、めっちゃ楽しみかも!」
「……いや、まだ思いつきっていうか、相談前なんだけどな……」
「でもでも、実はもう結構考えちゃってる感じなんでしょ!」
言葉のテンポが速く、次から次へと湧き出るように話す千香。荒尾はちょっと押され気味だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。――むしろ、こういう子がいてくれるなら、にぎやかで楽しい企画になるかもしれない。企画の段階から千香に関わってもらえるならば、当日のイベントで彼女も動きやすいだろう。楽しいことをそのままの様子でしてくれれば、彼女の本領は発揮されていると、荒尾は思う。
「よし。じゃあ……企画の説明、聞くみてくれるか?」
「やった! 超楽しそう! 」
元気な千香の声が、再びペンションに明るく響く。
カフェスペースには、企画と春の気配、そしてちょっとした未来の期待が、軽やかに混ざり合っていた。