テーブルに並んだのは、さまざまなパンたち。パン屋から連れてこられた、このパンたちは、千香という運び手から、今ではペンションのテーブルに並べられている。本来なら店頭に並ぶはずだったものが、なぜここへ?パンの運命とは、作り手によって変わるものである。
「千香ちゃん、すごい。こんなにたくさん作ったの?」
「うん。ちょっと試作も兼ねてね。たまにはこういうおしゃれなのも作らないと、お父さんったらアンパンとかカレーパンばっかり作っちゃうから!アニメの世界じゃんないっての!」
千香のいうおしゃれなパンは、目の前にキラキラと輝くようにして存在していた。どれも、これも、都会のパン屋で売っていそうな代物ばかりである。若い女性が好みそうな、甘い香りとバターの香りが混ざって、純子は何度も息を吸いたくなる。
「バターのいい香り……!」
「こっちは、焦がしバターのクロワッサン。バターを一段階焦がしてから折り込んでるから、香りが立つの。焼き加減が難しくって、失敗しないようにするまでが大変なんだよねー」
「でも、サクサク!このまま食べても美味しそうだけど、クロワッサンサンドにしたい!」
「自分で挟むってタイプにしたら、サクサクを損なわずに、食べられると思うんですけど!」
「お皿に、ハムやチーズ、野菜を盛り合わせて!そこにサクサクのクロワッサンが登場する!」
「さ、最高すぎる~!」
自分で好きなだけ挟むことができる、半分手作りという雰囲気のサンドイッチは、楽しみが詰まっている。作り手としても、挟む手間が省けるので助かる事ばかりだ。純子が手に取ったクロワッサンは、表面が艶やかに光っていて、何層にも重なる生地が見える。サクッという音のあと、ふわりと焦がしバターの香ばしさが弾けた。
「……これ、カフェで出てきたら1個500円はするやつだね」
「味見してみて、純子さん!」
「いただきます!ん……うまっ……バターが濃いのに、全然重くない……」
「でしょ? 焦がすことで乳脂肪が分離して、コクだけが残るんだよ。あ、こっちはカマンベールとくるみのチャバタ。くるみは軽くローストして、チーズがとろけないギリギリで焼き上げてるの」
続いて出されたのは、ごつごつとした形の小ぶりなパン。中にはたっぷりのカマンベールチーズが入っていて、ちぎるととろりと伸びた。ナッツの香りが鼻に抜ける。まだ温かいパンに触れて、それだけでも純子はとても幸せだった。焼きたてパンの温かさを味わえるなんて、そんなにないのである。
「まだまだ他にもありますよ~!」
千香は次々にパンを出してくる。純子は目の前に広がった幸せな空間に、声を上げて喜びを感じていた。岩塩と香りのいいブラックペッパーがアクセントになったベーコンエピは、ベーコンの美味しい脂がパン生地にジワリと染み込んでいる。脂の染み込んだあたりは、格別な美味しさだ。
その次は、オレンジピールが爽やかに香る、ホワイトチョコと柑橘のブリオッシュ。甘いパンは若い人向けに作っているが、チョコと柑橘の絶妙なバランスは、年配の女性にも人気が出そうだ。オレンジピールは手作りだろう、と純子は思い、作り方を知りたいな、とそればかりを考えた。
「これは、予算オーバーでお母さんから怒られちゃったんですけど、フランス産チョコを練り込んだ、めっちゃ美味しいやつ!」
「うわ、カカオの香りがすごい!」
「練り込んだ分もあるから、見た目もスッキリして、いいでしょ?でも予算がねぇ」
「予約で作るとか、バレンタインデー限定商品にしてみたら?」
純子がフランス産チョコを練り込んだ、カカオ72%のパン・オ・ショコラを見ながら言った。確かにそれはアリだ!と千香が飛び上がって喜ぶ。せっかく美味しいパンができたのに、予算オーバーで定番メニューからは外されてしまったのである。しかし、シーズン限定のやや高めな価格設定にしておけば、このままお蔵入りを防げそうだ。
「シーズン限定商品ってのはアリですよね!バレンタインデーってことにすれば、女の子も自分のご褒美ように買いやすいし!」
「私なら買っちゃう!」
「私も予約して買っちゃいますよ~!」
女子トークはとても楽しそうに弾んでいく。2人は、つい最近の嫌なことを忘れて、パンの話題で盛り上がった。そこへ、美味しいコーヒーを淹れた荒尾がやってくる。温かいコーヒーは湯気を立て、パンの香りに負けないくらいいい香りを広げていく。
「コーヒー淹れたぞ」
「ありがとうございます、荒尾さん!」
「今日のパンは豪華だなぁ。やっぱり、パン屋のパンっていうのはさ、いいバターとか使っているから、コンビニのパンみたいにベタって感じがないよな。まあ、疲れた体にはあのベタってした感じもいい時があるんだけど」
疲れたサラリーマンの意見に、千香は首を傾げていた。それを見て、荒尾はしまった、と思う。自分が「オジサン発言」してしまったことに気づいたからだ。一方純子は、苦笑してコンビニのパンを食べる荒尾を想像した。コンビニのパンも、気づけばすぐに新商品が出て、その開発力は目を見張ると思う。企業努力だろう、と思うと、純子は馬鹿にできないと思うのだ。同じことをやってみろ、と言われたら、管理栄養士である自分でもそれをすることはできないだろう。
「じゃあ、私はパンに合いそうなスープと簡単なサラダを持ってきますね」
「頼んだ!」
「すぐにできますから、私の分のパンまで食べないでくださいよ、荒尾さん!」
笑いながら純子はそう言って、荒尾は困ったような顔をする。いつも大食いしてしまう荒尾だから、純子の分まで食べると思われたのかもしれなかった。
「荒尾さん、なんだか機嫌よさそうですね」
「お、分かるか、千香ちゃん」
「はい。こう見えても、人のことよく見てるんですよー、私!」
自慢げな笑顔で、千香は言う。すると荒尾は、落ち着いた笑顔で、休暇が伸びたんだ、と話した。さすがに社長に直談判した、とは言えなかったが、いろいろあってと事情を濁すと千香は分かってくれたようである。むしろ、彼女にとってそんなことは、あまり関係ないのかもしれなかった。
今度は千香が、先ほど純子に話した不動産のことを、荒尾に相談する。
「まさか、パン屋にまで……」
「でも、リゾートの計画はこのペンション付近が一番濃厚みたいで。きっと、うちみたいな田舎の弱小パン屋は、リゾートホテルに一定期間入れても、すぐに追い出されちゃいますよ。それも計画のうちで考えてるんじゃないかな……」
「リゾートホテルの規模にもよるだろうけど、外国人が大量に来るなら、あのパン屋の規模では手が足らないと思う。業者や工場から直接卸さないと、ホテルの運営にも問題が出ると思うよ。そういうことを相談せず、いいことばっかり言っているんだろう」
「そんなの大学生でもわかるっての!でも、うちのお父さんみたいな天然な人とか、畑しかしたことがない高齢の人だと、分からないかもしれないよね……」
この地域には、高齢者が多く、仕事も農家や酪農といったものが多い。自営業なので、それなりに知識は持っているが、今回のような「やり手の不動産屋」が来た時の対処は、高齢者だけでは難しいだろう。赤坂や悦子くらいの年代が、この近辺では若い方なのである。最近になって、純子や三輪が長く生活するようになったので顔が知れてきたが、それでもまだまだ高齢者の方が多かった。
「私、大学で聞いたんですけど」
「何を聞いたんだい?」
「今のリゾート開発って、昔とは違って、観光業って感じじゃないらしいですよ」
「それって……俺も聞いたことあるかもしれない。要は、リゾートって名目で、土地の視察に来てるんだろ?海外の金持ちが」
「そうです!今度はここを買い占めるかー!って気持ちでゾロゾロ来るって聞きました!」
嘘か本当か分からない話ではあったが、そんな噂もあるのだ。土地のさらなる転売―――純子がこのペンションを手放し、土地を売り払ったとしても、彼女が本来手にするべき金額よりも低くなってしまう。不動産会社が儲かるために、視察に来た海外の顧客には、とても高い金額を提示するのだ。提示された金額でも、海外の富裕層は「また売ればいいから」と思って買う。
この土地が、次から次へと人の手に渡ってしまうかもしれない―――荒尾は、大きなため息をついた。