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第72食:荒尾と社長

荒尾は憂鬱な気分をどうにかしたい、と思った。夜中、知り合いにとにかく連絡を取って、とにかく事情を説明し、アドバイスをもらっている。今のところ、どうにかなりそうな雰囲気を感じ取ったが、まだはっきりとは分からない。

朝、目が覚めると腹が減っていた。お腹が空いた、と思ってふと考えると、結局会社にはきちんと連絡できていないことを思い出す。しまった、と頭を抱えるのと同時に、荒尾はスマホを開いた。実はこんな時、頼れる人物とつながっている。それは、滅多なことでは連絡をしない相手だ。


「……朝早くにすみません、社長」


それは、この会社の社長である。社長と荒尾の関係は、数年前の大きなプロジェクトの失敗に遡る。当時、荒尾の上司にとても優秀で、部下からも慕われる人がいた。その人が社長から任されたプロジェクトがあったのだが、予想に反して失敗してしまったのだ。その失敗を気にして、上司は退職。しかし、事がおかしいと気づいた社長は、当時一緒にプロジェクトを担当していた荒尾に、直接相談に来たというのがきっかけである。

結論として、そのプロジェクトの失敗は、仕組まれたものだった。退職した上司が戻ることはなかったが、社長と荒尾の信頼関係はとても大きなものになってる。


「なんだ、荒尾くんか。休暇中じゃなかったのかい?」

「そうなんですが……実は、休暇を伸ばしていただきたくて。もちろん、その間の給料はいりません。でも、できる仕事はします!」

「ずいぶん切羽詰まっているようだな。言っていることが矛盾しているよ」

「いや、その、申し訳なくて……」


荒尾は電話口で頭を下げた。会社には恩がある。仕事は楽しい。しかし、このペンションと純子を守りたい気持ちは、強いのだ。まだここを離れるわけにはいかない、と荒尾は思う。純子を1人にはできないし、ペンションの経営も止めることはできない。止まってしまえば、本条不動産の思うつぼだろう。


「昨晩、坂本先生から連絡があってね」

「え!?坂本先生、もう社長に……」

「ああ。あの先生はさっさと隠居したかと思えば、面白そうなことにばかり首を突っ込む、嫌な老人になったものだよ」


社長は坂本先生と昔からの付き合いらしい。そのため、ときどき言葉がきついことを、荒尾は知っていた。荒尾からすれば、それだけ信頼していて、仲のいい関係である2人がとてもうらやましくなってくる。


「それから、さっきは秋山くんからも」

「え!秋山さんまで?」

「今から現地視察に行こうか、というから、私には何の話だか。まったく、どうしていつも一番最後が私なんだい?」


少しだけ笑いを含んだ声で、社長は言った。それはもちろん社長だからです、という一言を、荒尾は言えない。それだけ立場が違うとわかっているのだが、今回はとても大きなトラブルだとわかっていた。

ちなみに、秋山も会社とつながりがあり、社長とも懇意にしている。社長、坂本先生、秋山が集まると、悪いことが始まると言われるほどの、面白いこと好きらしい。


「社長、あの」

「君には、今までの勝手な行動の処分を受けてもらう」

「う、は、はい……」

「まずは、勝手に坂本先生や秋山くんに連絡を取り、相談業務を行ったこと。それから、休暇中にも仕事をしていたね?」

「え、なんで、それを……」

「君の顧客から、何ら滞りなく日々を過ごせているという連絡が入った。つまり、荒尾くんのこの2週間は業務をしていた、という解釈になる」


つまり、と社長は言った。荒尾はきっと解雇だろう、と思い込む。こんな勝手なことばかりする社員は、いない方がいいのだ。しかしそれなら、その方がすっきるするかもしれない。このまま退職し、貯金と退職金で当面はしのいで、それからまた職を探すのだ。失業保険を申請すれば、数ヶ月はいいだろう。いっそのこと、ペンションで雇ってもらっている形態にしてはどうか、そんなことばかりを考える。


「荒尾和弘くんには、2週間の有休休暇を再度取得してもらう。その間に、会社に関する業務はしないこと。また、その有給休暇中の態度によって、休職扱いも検討するので、しっかりやること」

「社長……?」

「申請手続きはこちらで済ませておく。中野瀬くんによろしくな」


社長は、会議が始まるからと言って、電話を切った。

予期せぬ追加の休み。退職ではない。

最後のセリフを聞くに、社長はこのペンションの事情までしっかり把握しているのかもしれなかった。


「い、いいんだろうか……?」


荒尾の少し震えた声が、部屋に響いた。



一方純子は、朝早くからペンションに突撃してきた千香の相手をしている。

千香は焼きたてのパンをたくさん持ってきて、試食試食!と大騒ぎだ。


「これ、全部千香ちゃんが焼いたの!?」

「生地はお父さんが仕込んでたんですけど、手伝いと試作を兼ねて作りました」

「うわぁ、美味しそう!」

「純子さんが好きなハード系で、ドライフルーツ入りのもあります」


千香の荷物からは、次々と焼きたてパンが登場する。その種類の多さ、きれいな焼き加減に、純子は目を輝かせた。千香の腕には、大きな紙袋。中からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。


「朝ごはんにどうかなって思って。うちもいろいろ研究しなきゃ、潰れちゃいます!」

「わあ!いい香り!」


女子2人は、まだ温かいパンを抱きしめて、ニコニコしている。純子にしてみれば、試食と言っても嬉しい話なのである。

朝食の準備をしていると、千香は少し話しにくそうに口を開いた。


「あの、純子さん……今日、ちょっと変な人を見たんです」


千香が、パンをテーブルに並べながら呟いた。純子は、その言葉に、ビクリと体が跳ねるのを感じる。もしかして、と昨晩の出来事が思い起こされる。桐島の嫌な顔が、目の奥に焼き付いて離れないのだ。


「変な人?」

「その、うちに直接来てて。お父さんにリゾートホテルにパン屋を出さないか、とか。ホテルのレストランに優先的にパンを卸せるようにするからとかって」

「それって……本条不動産の人間じゃないの?」

「お父さん、天然だから、あんまり話が噛み合っていなくて。私も恐くて出ていけなかったんですよね」


千香の言葉に、純子の胸の奥がざわめいた。パン屋の場所は、ペンションから離れている。しかし、そんなところにも声をかけるとなれば、リゾート開発は本格化しているのだ。


「その……お父さんが言うには、このペンション付近がリゾート開発地の中心みたいだって」

「……そんな話まで」

「うん。お父さんは、うちの土地を売るつもりもないし、リゾートホテルにパン屋を出すつもりも一切ないみたい。でも、あの男の人、変な雰囲気で」

「千香ちゃん、それ、どこかで見かけたらすぐに教えてくれる?」

「わかりました。でも、純子さん、無理はしないでね?」


そんな言葉に、純子は曖昧に笑うだけだった。純子には荒尾がいるから大丈夫だろう、と千香は思うが、それでもあの男の雰囲気はおかしい。恐怖を感じてしまうような、任せることはできないような、そんな感じだったのだ。


「純子さん、荒尾さん起こしてきて、パン食べましょ!こんな時は、まずはお腹いっぱいになるのが大事!」

「ポタージュ作ろうかな。パンにつけて食べたら、美味しいよ」

「あ、それもいいなぁ!」

「じゃあまずは、荒尾さんを起こしに……」


純子がそう言った時、着替えを済ませた荒尾が食堂へやってくる姿が見えた。心なしか、荒尾の表情は軽い。何かいいことでもあったのか?と純子も千香も思った。


「おはよう、2人とも。千香ちゃん、もう来てたんだな」

「はい、パンたくさん持ってきました!」

「わ、それは美味そうだ!俺のコーヒーの出番だな!」


荒尾は意気揚々とコーヒーの準備に取り掛かるのだった。

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