翌朝、千香は実家のパン屋を手伝うために目覚めた。しかし、ふと何か違和感を感じる。
まだ来客には早い時間なのだが、どこかの飲食店で早めに買い付けに来たとか、早朝に注文が入ったとか、今までの人生であったことを考えれば、そんなに気になることではない。田舎の小さなパン屋だし、両親は昔ながらのパン屋のやり方が好きだから、朝早くに仕込みを開始している。それを知っている、それこそ昔からお付き合いのある飲食店のオーナーは、朝早くからパンを買いに来たり、忙しくなる前に注文を入れてくれたりもするのだ。
パン屋の朝は早い。
でもそれは、パンの仕込みというものには、時間や温度など、管理すべきことが多いから。今ではコンビニでもスーパーでも、どこでもパンが手に入る。安価なパンには、体に良くない添加物も入っている。味付けも濃く、塩分も多く、本来のパンの美味しさが減ってしまうようなものばかり。
それでも、手軽なパンは人気が出てしまう。千香はそんな世の中も変えたい、と思っていた。
健康にいいパンなんて、早々にあるわけではないのだが、パンの中にはどんなものが入っていて、何を入れればいいのか、天然酵母の仕組みや、砂糖や塩のことも教えたい。そんなたくさんのしてみたい夢を持って、千香は管理栄養士を目指していた。
そんな彼女が、家の違和感に気づいた。何がおかしいのか、と言われると明確ではないのだが、とにかく忍び足で部屋を出てみる。すると、パン屋の裏手に人が来ていた。黒い服の男―――見知らぬ顔の男は、父に紙を広げて見せている。耳を澄ませば、土地の値段やリゾート開発の話などだ。
(え、お父さん、ここを売っちゃうの!?)
千香は、父がそんなことを望んでいないのを知っているが、気になってしまった。このパン屋に後継者はいない。千香が継がないと決めたから。でも、両親はまだ働くことができるし、まだまだ現役だ。兄は離れて暮らしているけれど、パン屋のことを恨んでいるわけでもない。
更に耳を澄ませると、新しくできたリゾートホテルにパン屋を出店してもいい、レストランで優先的に取引できる、とても好条件と思えるような、そんな甘い話が出てきている。千香は焦った。父はパン屋としては、とても優秀な技術者なのだが、経営者としてはイマイチのところがある。要はお人よし。ついつい困っているところを見ると、安く取引をしてしまったり、できたばかりのパンを無料で配ってしまうこともあった。
もちろん、そんな父が悪い人間だとは思っていない。日本は災害が多いから、そういった有事の際には、食べ物の確保は大切だ。そんな時には、なりふり構わず提供するのが当たり前だと思っているけれど、それが毎日では困ってしまう。
父は性根が優しいから、困っている人を見るとついついパンを与えてしまうところがある。正義のヒーローじゃないんだから、と母や千香はよく言っていた。すると父は、アンパンはあげていない、と言い出す。笑い話で終わってきたけれど、今回はかなり怪しい。
(お父さん、そんな変な話に乗っからないよね!?)
「うちは小さなパン屋だからですね、そんなホテルに卸せるほどは作れませんよ」
「それこそ希少価値が高いパンになるじゃないですか。外国人は日本の柔らかくて美味しいパンが好きですからね」
「外国人のお客さんはときどきしか相手にしないから、知らないよ」
「そうおっしゃらず。リゾートホテルができたら、レストランで食べたパンを買いたいと思う人は増えます」
「レストランのパンなんて、こうちっちゃく切ったパサッパサのパンだろ?あんなの美味しいかねぇ」
千香は父と黒い服の男の会話が、微妙にずれていてホッとした。父は、リゾートホテルのことなんて、みじんも頭にないのだ。話が噛み合わないせいか、黒い服の男は、また来ますとだけ言って、去っていく。男の姿が完全に見えなくなって、千香は部屋から飛び出した。
「お父さん!」
「千香、おはよう。ほら、食パン運んでくれ」
「いやいや、お父さん!今のってうちのピンチじゃない!?」
「なんだ、話を聞いてたのか?変な人だよなぁ、うちのパンを食べたこともないのに、売れるとか言って」
「そ、そうだけど……でも、今のって、ドラマとかで見る、脅迫に近いことがもうすぐ起きるんじゃない?お客さんに嫌な噂流されたり、材料卸してもらえなくなったりとか」
「え、今でもお客さん少ないぞ?それがどうなるってんだ?」
うわぁ、と千香は思った。父は本当に分かっていない。パンのことは大好きなのに、それ以外のことは駄目なタイプなのである。父は笑いながら、オーブンの中のパンを見つめていた。
「ホテルのパンなんて、ホテルの料理人が作るか、もっと大手のパン屋が卸した方がいいのになぁ」
「お父さん、あの人の狙いはパンじゃなくって、この店の土地でしょ!」
「土地?ここで何するってんだ?」
「だから、リゾートホテル!」
「ああ、でもそれは……純子ちゃんのペンション付近が中心みたいなんだよなぁ」
その言葉を聞いて、千香は飛び上がった。なんてことだ。もっとも重要なことを聞き逃していたなんて。
あの黒い服の男、もしかしたらこの近辺をずっと回っているのではないか、と思う。そして周囲がリゾートホテル建設に前向きになったら、あのペンションを―――
「千香、こういう時はパンを焼くんだよ」
「え!?」
「悩みごとも、嫌なことも、まずはパンを焼いて、食べてから考える。それが一番だ」
「お父さん……」
「焼きたてを純子ちゃんのところに持って行きな」
父の笑顔は、優しかった。千香はそんな父に従って、まずはパンを焼こう、と思うのだった。
千香は、着替えて調理台の前に立った。父から習って一通りのパンは焼けるようになっている。変な話だが、流れ作業のパン工場の人よりも、ずっと上手くパンを扱える、と思えるほどである。
「お父さん、お母さんは?」
「仕入れを頼んだよ。最近カレーパンがよく出るから、中身を改良しようかと思ってな」
「あ、お父さんカレーって美味しいもんね」
「米にも合うなら、パンにも合う!」
「うーん、それはよくわからないんだけど」
苦笑しながら、千香は父のカレーへのこだわりが強いことを再認識した。あのカレーは確かに美味しい。でもあのパンを出し始めたのは、幼い千香が無理を言ったことが始まりだったはず。
どうしてもカレーが食べたい、アニメで出てくるカレーパンのヒーローみたいに、カレーがたっぷり入ったものを食べたかったのだ。辛すぎず、甘すぎず。でも具がいろいろ入っている、そんなカレー。父は、それ以来カレーパンにはとても力を入れている。スパイスを効かせてみたり、パン生地との相性をよくしたり。チーズや茹で卵を入れてみるなど、変り種も多かった。
「純子さんは、ハード系が好きだから、それも持って行こ」
「見た目によらず、純子ちゃんも食べるもんなぁ」
「変なこと言わないでよ、お父さん!お母さんが作ったドライフルーツが美味しいんでしょ!」
「そういうことか!あっはっは!」
父が笑うと、家の中も、店の中も、とても明るくなる。千香はそんな家が大好きだ。器用な母は、店の新商品になるかもしれない、と言って、細々と手作りをしてくれることもある。今のところ定着したのは、季節のドライフルーツだ。作り上げるまでにやや手間と時間はかかるのだが、それが入ったパンは特別美味しい。
「アイツもな、ときどき送ってくれるんだよ。パンの新商品に使えないかって」
「アイツって……お兄ちゃん?」
「ああ。今は食品開発会社の開発部門を任せられてるみたいだ」
「大手だったよね。あそこって就職難関だって聞いたよ」
「頭よかったからなぁ。パン屋じゃ、あの頭は活かせなかった。神様はよくご存じだよ」
小麦アレルギーのある千香の兄は、今は実家を離れて暮らしている。長年このパン屋で暮らすことができず、離れているものの、家族への愛情は深い人なのだ。だから定期的に連絡をくれたり、物を送ってくれたりしていた。大学生になり、管理栄養士を目指す千香のことも、とても心配してくれている。
「今度さ、ちょっとパン屋を休んで、お兄ちゃんに会いに行こうよ」
千香の提案に、父はそうだな、と言った。2人はそんな話をしている最中も、手を止めることはない。パンは時間と温度、湿度、さまざまなものに左右される。だから、手を止めることはできないのだ。
「焼けたのから、持って行け。純子ちゃんと荒尾さんが好きなパンばっかりだぞ!」