一方、純子の部屋では――静かにベッドにうずくまったまま、枕に顔をうずめていた。両親とは離れて暮らしていたとはいえ、こんなに大事なことを1人娘に相談してくれなかったなんて、とショックを受けている。
「お父さん……お母さん……なんで、そんな話、私にしてくれなかったの……」
小さな声が、毛布に吸い込まれていく。もっと娘として話をしておくべきだったのか。こんなに大事な話なのに、気づいた時には両親はどちらもいない。隠されていた事実なのか。それとも―――
しかし、今の純子には両親の真実など考えることができなかった。両親の真意はどこにあるのか。どうして、こんな重要なことが、今頃出てきてしまったのか。
その問いが、夜の深さの中で、じわりと心を締めつけていた。
◇◇◇
蛍光灯の白い光が無機質に照らす会議室。壁にかけられた大型モニターには、衛星写真をベースにした開発予定地の全体図が表示されていた。細かい設計図まですでに完成しており、あとは土地の開発を開始するだけ、という雰囲気さえ感じられる。
「……このリガーレというペンションが、今回のリゾート開発において一番いい場所に建っております。古いペンションを、個人が改装しているようで、大したペンションではありません。解体に関し、時間も費用も予想範囲内に収まると思います」
画面の前に立っていたスーツの男が、レーザーポインターで赤く印をつけた。ペンションのある場所に、嫌な赤い印がついてしまう。だが、この場にいる人間にとって、このペンションは邪魔者でしかない。早くリゾート開発を進めるためには、こんな古くて人気のないペンションは潰してしまう方が早いのだ。
その時、部屋の奥で腕を組んでいた初老の男が、薄く口角を上げる。
「で、交渉はどうなっている?」
「中野瀬純子という名の経営者が現在の管理人です。20代後半で、未婚。両親が元々の所有者ですね。……このペンション事業を開始する時に、事前売却計画書に署名していることが判明しました。当時は土地の価格が低かったので、いざという時のためでしょう。手放す覚悟を持って、事業を開始する経営者はたまにいますから」
「ふむ……やはりな。人が情で土地を守ろうとするから厄介だ」
「特に、今回の売却計画に関して、中野瀬純子には説明がなかったようだと、桐島より報告が来ております」
「桐島が担当か。そのお嬢さんも運が尽きたな」
男は、書類の束を静かに閉じると、目だけで部下を見た。部下はその様子を見て、桐島がどんな仕事をするのか思い出す。あの蛇のような男は、上客にはとてもいい営業マンなのだが、買い叩くとき―――要は、下に見ている客のときは、どんな手でも使う嫌な男だ。それでいて、トラブルを起こすこともなく、訴えられることもないので、どんな手を使っているのか、同じ会社に所属する者たちでさえ、気になっている。
「お嬢さんに時間の猶予を与える必要はない。情に訴える者には、現実を見せろ。それが我々のやり方だ」
「はい。……実は、先行して地価評価を再調査しておきました。下げ幅を誇張すれば、焦りを誘えるはずです」
「桐島を出せ」
「すでに向かっています」
「そうか。あいつは気に入った仕事は早いものだ」
「ああ見えて、スピード感にこだわっている男ですから」
「まったく……あの男に目をつけられた土地は、すべて成功しているからな。ある意味、あの男の目に狂いはない」
初老の男は無言のまま、ウイスキーのグラスをゆっくり傾けた。満足そうに、昼間からウイスキーを嗜むこの男は、本条不動産会長である。本来の社長は息子に譲っているが、実権を握っているのはまだ会長本人であった。
本条不動産は、本条グループの中でも事業立ち上げの頃からある、とても古い事業であると言えた。かつて、若き日の会長自身も、とても力を注いでいたのが不動産事業だ。戦後まもなくの時代から、高度成長期を迎え、その時に汗水垂らして、とにかく不動産事業を伸ばしたのである。その結果、今の時代になって、不動産事業は本条グループの要とも呼べる、立派な事業へと成長していた。
息子はまだまだ優男で、会長のように非情になれない。そんな息子のカバーをするために、桐島などの優秀な社員を各部署に配置している。こうやって、本条不動産は「揺るぎない経営」を行うように、常日頃から会長の目が光っていた。
「――土地というのは、手放す理由がある人間から奪うのが一番、簡単だ」
部屋の空気は、冷えきっていた。
本条グループはこれからももっと大きくなる。それはただの事業ではなく、いずれ日本を制圧するような存在になるはずだ、と会長は思っていた。
「会長」
「なんだ」
「桐島から電話です」
「繋げ」
会長の指示が出ると、桐島の通話がスピーカーから流れてきた。桐島は、いつものきっちりとしたスーツを着込みながら、画面を操作して会長に周囲の景色を見せてくる。
「会長、ご覧ください。沖縄の◇◇リゾートは、来期より我が社が中心となることが決定いたしました。この地域には……」
「馬鹿にするなよ、桐島。沖縄の◇◇と言えば、俺が長年欲しくて、ずっと裏からいろいろ手出ししていた場所だ。お前の功績だけではないぞ」
「大変失礼いたしました。会長のご助力があっての、今回の決定でございます」
「それで、今のホテルをやっている〇〇はどうしている?昔からなかなか首を縦に振らないヤツでな」
「はい、〇〇社長は現在自己破産の手続きに移行しておられます」
他人を陥れるためにやっている―――そうとも言えることを、彼らは平気でやっていた。自分たちの会社を大きくし、もっと資産を増やすため、もっともっとと願った結果、今がある。桐島の答えに、会長はにやりと笑った。
「桐島、沖縄の件は別の者に任せて、お前は例のペンションへ向かえ」
「はい、承知いたしました」
桐島との通話が切れると、会長は自分のスマホから電話をかけ始めた。近くにいた中年の秘書が、簡単にメモを取っていく。電話はすぐにつながり、会長はとても深刻そうな顔を「わざと」して、話し出す。
「〇〇さんよ、元気にしているかい?」
電話は、先ほど桐島と話題にしていた沖縄の社長である。元気であるはずもないとわかっていながら、会長は言葉を続けた。
「いやな噂を聞いたもんでね。いやいや、俺とアンタの仲じゃないか。引継ぎはうちですると、連絡も来てね」
意気消沈している沖縄の社長に、会長は救いの手を差し出していた。借金の肩代わり、ホテルの売却、土地の権利を譲渡―――何もかもをこの社長から奪い取った会長は、生活の心配だけはないようにする、と約束した。
「口約束だから破られた、なんて言われたんじゃ、俺も気分が悪い。うちの秘書が今、電子契約書をアンタのところに送ったからな。確認したら、署名してくれ。そうすれば、アンタの働き口はうちの系列でもう決定だ。娘さん家族も心配は要らない。ああ、孫ちゃんはうちの孫と遊ばせないか?」
電子契約書を作成した秘書は、それを会長に見せた。許可が出たので、そのまま送信される。電話の向こうで「もう届いた…」とつぶやく沖縄の社長がいた。会長は、最後にはっきりと言う。
「ただし、今後一切あのホテルやうちの事業に口出しは無用だ。アンタはもう社長じゃない。まあ、安定した平社員だ。定年まで雇用してやるし、退職金も普通に働いた同年代より高く出してやる。いい条件だろう?」
自己破産するよりも、何倍もいい―――そんな条件を突きつけられて、沖縄の社長は頷くしかなかった。家族、特に娘や孫に大きな負債を背負わせるわけにはいかない。それを考えれば、定年まで仕事の心配はなく、退職金もあるというのなら、それでいいだろう。
本条不動産は、こうやって大きくなってきたのである――――