「こういう話は、ちゃんと確認を取ってからでないと前に進められません」
「……は?」
桐島は、明らかに荒尾に対して不快な態度をとっていた。荒尾もそれはよくわかる。対立する2人と、困り果てる純子。この場で、何が解決するのだろうか、誰にも分らない。
「中野瀬のご両親がどういう意図でこの書類を作ったのか、今となっては確認も難しいでしょう。それでも、今ここで話を急かすようなやり方は、明らかに不誠実です」
荒尾の声は低く、はっきりしていた。営業時代の経験が染み込むその話し方に、桐島は一瞬、返す言葉を失ったように黙る。この場に純子だけだったならば、言いくるめられたのかもしれないが、相手が荒尾ではそれも簡単にはできない。むしろ、最も敵に回してはならない男を敵に回してしまったのではないだろうか。
「わかりました。この話は、一旦保留にいたします。ですが、契約書一式は当社にて預かっておりますので、ご理解ください、中野瀬様」
桐島は目を細め、少しだけ口元に皮肉めいた笑みを浮かべると、ゆっくりと資料をまとめる。あくまでも、荒尾ではなくターゲットは純子だ。この男、誰をターゲットにすればいいのか、はっきり理解している。誰なら【落とせる】のか、その目はしっかりと純子だけを見ているのだった。
彼が去ったあと、ダイニングに残されたのは、深い沈黙。
こんなことがあって、ベラベラ話ができるような人間ではないのが、純子だ。同時に、荒尾も同じである。2人は黙ってしまい、何も話すことがなかった。純子は「今日はもう寝ましょう」と言って、部屋に戻っていく。
荒尾は、その寂しい背中をただ見ていることしかできなかった。急いで部屋に戻り、今度は自分の持っているパソコンやスマートフォンの電話帳や連絡先を、片っ端から開いていく。こんなケースの時、誰に相談すればよかったか。仕事でのトラブル解決、不動産関係。本条不動産を検索したり、今の不動産の状況をネット検索していく。
「くそ……っ」
汚い言葉も飛び出すほどに、荒尾はイライラしていた。あんな存在が、このペンションを脅かすなど、想像もしていなかったのだ。今から、自分の夢は出発していくのに。純子や千香も一緒に、そしてこの地域の高齢者、大人、子ども、さまざまな人が関わるたくさんのイベントごとを、自分がやっていくと決めたばかりなのに。
しかし、荒尾はこんなことで負けるような男ではなかった。開いていた連絡先の数々の中から、どうにかこの問題を解決できる糸口になる人物を探していく。今まで、いろいろな人に出会い、お世話になってきたし、同じくらい助けてきた。その中には、自分とは違う分野の人も多くいる。今こそ、そんな人たちに協力を仰いでもいいのではないか、と荒尾は思ったのだ。
1件目は、かつて担当していた不動産営業マン、中尾。大学の先輩でありながら、営業という仕事の仲間でもある。中尾は親が不動産会社をしていたこともあり、初期から不動産に関係する全般の営業マンだった。成績は優秀、荒尾にとって良き先輩であり、良き目標の人。
「中尾さん、夜分すみません。お久しぶりです。実は相談があって」
「久しぶりだな、荒尾。どうしたんだ?」
「不動産売買のことで、知り合いがトラブルに巻き込まれていて。契約者が亡くなったあと、契約はどれくらい効力があるんですか?」
「うーん、内容次第だな。契約書の原本は持っているのか?」
「いえ、それは不動産会社が握っていて……」
中尾は、荒尾の話をとてもよく聞いてくれた。そして、結論としては契約書の原本を早く確認することを、アドバイスされる。すでにトラブルになっているのであれば、契約書を改ざんすることはなくとも、大事な部分を簡単な説明のみで進めている可能性もある、ということであった。
純子が知らなかった契約―――それを考えると、確かにそのやり口は考えられる。もっとしっかり説明すべきところ、あとからご確認ください、というのはよくある話。わざと都合の悪い事実を隠すために、簡単な説明にしているのは、悪徳な会社では横行している事実だ。
2件目は、法律に詳しい元取引先の顧問弁護士、坂本先生。昨年引退して、今は地方に移り住み、夫婦でのんびりと田舎生活を満喫している先生だ。荒尾とは気が合うのか、時々連絡を取ったり、法律関係のことで分からないことがあれば、教えてもらうことが多かった。坂本先生は、とても真面目な人なので、田舎生活を満喫しながら、公民館や小学校で法律の無料講座を開くなどしている。
「坂本先生、ペンション経営での、土地売買トラブルって対応したことがありますか?」
「そうだねぇ、昔はときどきあったけど、最近はあまり悪徳な話は聞かないね」
「そうですか……」
「まあ、聞くとすれば外国人向けのリゾート開発とかのトラブルかな。田舎は特にね」
「リゾート開発……」
「外国人向けだから、日本人の生活なんてお構いなしなのさ。そういう話はとても増えてるね」
まさか、と荒尾は思う。あのペンションがある付近は、田舎ではあるものの、広大な場所だ。自然も豊かで、都会から適度に離れている。来ることが難しいような辺境の地でもなく、車で来ればちょうどいい範囲といったところ。リゾート開発など、まるで映画やドラマの話だと思っていたが、最近の外国人の数はとても多い。日本を訪れる外国人が本当のターゲットで、その犠牲になるのが―――この一帯であるならば。
3件目は、土地登記の管理を扱っていた行政書士の秋山。行政書士とは思えない、恰幅のいい男性だ。その見た目と同じように、器の大きな人であり、今は非行少年少女たちの支援も行っている。お嫁さん候補を探している真っ最中、と年中笑って話している人なので、誰からでも好かれるいい男性だ。荒尾も彼のことはとても好きで、ときどきだが一緒に飲み会に参加することもあった。
「お、荒尾くん?飲み会のお誘いかな?」
「いやいや、秋山さん。今日はちゃんと真面目な相談ですよ」
「真面目な相談って、君はいつも真面目過ぎるじゃないか!」
電話の向こうで笑う秋山の、大きな腹が揺れているのが、荒尾にはすぐ想像できた。飲んで食べて、そしてまた頑張ろう、といつも言ってくれる秋山は、性格の良さが体格に出ているような、そんな人なのだ。それなのに、知識も経験もしっかりとある。大学時代は、海外でバックパッカーをしてみたりするなど、面白い人生を歩んできた人だと、荒尾は話を聞いていた。
そんな秋山は、荒尾の話を聞きながら、いろいろ調べてみるよ、と気軽に返事をしてくれた。
「すみません、秋山さん。巻き込んでしまって」
「いいって、いいって。僕と荒尾くんの仲じゃないか。どうせ、坂本先生にも相談したんだろ?」
「あ、はい、実は」
「坂本先生も引退が早いんだもんなぁ、もう少し頑張ってくれないとなぁ」
秋山と坂本先生は、顔見知りの仲だ。その仲に荒尾も入れてもらったようなものである。こんなに自分のことを助けてくれる人が、たくさんいる。それは、このペンションを守る力が増えていくことと同じであった。
さらに、金融関係の知人、元同僚、地元の地価に詳しい不動産鑑定士。何か知恵を貸してくれるのではないか、経験や、アドバイスを聞かせて欲しい、と荒尾は頼み込む。
「お願い、協力してくれ。大切な場所なんだ」
荒尾は一人、電話の向こうの助けにすがるように、けれども本気で【誰かを守るための営業】を、夜の静けさの中で始めているのだった―――