純子は、これから先のことがとても楽しく感じられていた。
荒尾はまだここにいてくれるというし、期間限定であっても、千香が来てくれた。2人がいてくれれば、もっとできることが増える。それが嬉しかった。合間を見て、悦子のお見舞いにも行けるだろうし、赤坂の手伝いにもいこうか。その間に、しっかりとイベントの企画を立てる。少人数で集まって、実際にどんな感じになるのか、練習してもいいかもしれない、と思った。
そんなとき、玄関の呼び鈴がなった。
嫌な予感がする、と時計を見て純子は思う。もう夜で、こんな時間に予約は入っていない。むしろ、入っているならもっと丁寧に待っている。誰だろうか、と不安に感じながら、純子は窓辺の椅子に座る荒尾をチラリと見た。もしも何かあったなら、彼がいるから安心だ。そう思うことにしたのである。
玄関に近づくと、嫌な予感は更に強くなった。気持ちが悪い、と思ってしまうのは、悪いことだろうか。でも、もしも普通のお客さんだったり、困った人だったなら。純子は自分にそう言い聞かせて、ゆっくりとドアを開いた。
「あ……」
「こんばんは、中野瀬様。本条不動産でございます」
まるで夜の闇のようなスーツを着た男。そんな男が、そこに立っていた。
この前追い返したはずなのに、この男はまたやってきたのだ。この様子からすると、何かしらの策を練ってきたのではないか。こんな時間に、ただで足を運ぶような不動産屋はいない。
「……どういったご用件でしょうか?」
純子の声が、警戒を含ませる。きっと悪い知らせしか、この男は言わないのだ。それがわかり切っているから、純子は嫌になる。普通のお客さんだったなら。コーヒーを1杯飲んだら、美味しかったと言って帰ってくれるなら。しかし、それはただの夢でしかないだろう。そんな雰囲気を、この男からは感じている。
荒尾が玄関ホールへと向かうと、そこには、濃紺のスーツに身を包んだ中年の男が立っていた。ネクタイをきっちり締め、腕には黒革の資料ケース。靴は土埃ひとつなく磨かれている。荒尾から見れば、それは営業職として当たり前の格好だが、夜中に現れるとこんなにまで威圧感を持っているのか、と驚くほどだった。
営業は、会社の顔だと荒尾は思う。他の部署が会社内部で頑張ってくれている間、自分たちのように外へ出ていく部署は、会社の信用や信頼を背負い、しっかりとした顔で働かねばならないと思っていた。暑い日は汗を流し、寒い日は木枯らしに凍えて、それでも毎日顧客のもとへ足を運ぶ。必要な資料を毎日見ながら、改善点を探し、顧客の喜ぶことをしっかり考えるのだ。
しかし、目の前の男は違う―――このペンションへ【いいこと】を運んできたのではない。
むしろ、【いやなこと】をするために来たとしか、思えなかった。
「はじめまして。本条不動産の桐島と申します。先日はご挨拶もそこそこに引き上げまして、失礼いたしました」
男は名刺を差し出し、にっこりと微笑んだが、その笑顔には温度がなかった。むしろ、前回はわざと偵察のためだけに来たのではないだろうか。純子がどんな女性で、ペンションが今はどうなっているのか。ペンションには誰がいるのか。そんなことを見るためだけにやってきただけ。つまり、本番はこれから―――
「本日は、先日よりお話しております、【土地売買に関するご提案】について、直接お話を……と思いまして」
桐島は妙な笑顔だが、純子の表情はわずかに曇る。純子がこんな顔をするのは、とても珍しいことであり、彼女にとってはとても嫌なことなのだ。あんなにいつも笑顔なのに、純子は辛そうな顔をしている。桐島は目だけを荒尾に向けて、無表情のまま軽く会釈する。
「……お連れ様は、ご家族の方ですか?」
「いえ、宿泊のお客様です……」
「なるほど。では、お話は差し支えのない程度でいたします。急ぎの話でして」
桐島の視線は静かに、だがしつこく、純子の表情を探っていた。土地売買に急ぎの話など、荒尾は聞いていない。これから先、ここで多くのイベントをして、食と人をつなぐことをしていく、と決めたばかりだ。きっと、この話は純子の意に沿わないことだと、荒尾は思う。
どんなに両親が亡くなったことで、経営を任されたとはいえ、純子は手放す話などしていない。前向きで、少しずつでもどうにかしていきたい、そのために多くの人の助けを必要として、それを求めていた。それは、決して、土地を手放すことではない。
―――ペンション・リガーレを狙う者。
荒尾は、目の前の桐島と、彼が所属する本条不動産は、自分たちの敵ではないか、と感じ取った。ダイニングの明かりは柔らかく灯っていたが、その空気は張り詰めている。このままでは、桐島のいいように話が進められてしまうのではないか、と荒尾は不安を感じた。
本条不動産の桐島は、何食わぬ顔で鞄から資料を取り出す。開らかれた資料の束の中に、まるで時限爆弾のような書類があった。それを見て、純子は驚き、目を丸くさせる。
「こちらが、以前ご両親がご署名された【土地売却の事前計画書】になります」
「……そんな……うちの両親が……?」
書類の日付は10年以上前。土地自体を祖父母から譲り受けたばかりの頃ではないか、と純子は思ったが、定かではない。正直な話、あの頃の純子は子どもだったので、両親がどんな契約をしていたのか、どんな話で土地を譲り受けてペンションをすると決めたのか、詳しく知らなかった。
しかし、書類には確かに、父と母の署名がある。内容には【将来的に売却可能性あり】【地価評価によって再交渉】など、不確定な要素がたくさん書き込まれていた。
純子の手が小刻みに震え、唇が乾いて何も言葉が出てこない。両親はすでに他界しているので、両親の口から事実も、気持ちも、何も聞くことができないのだ。
「もちろん、まだ正式な売買契約ではありません。ただ、当社としては、現在の交渉は1人娘様でおられる中野瀬様とお話をするしかないと思っております。当社も、契約主様がこのような形でお亡くなりになられるとは、思ってもおりませんでしたので」
両親の死を、こんな形で突きつけられるなんて―――純子は、ついに両目いっぱいに涙を浮かべてしまう。ただでさえ、一度に両親を喪って、辛いのだ。親孝行と呼べることもできておらず、もっと話したいことも、相談したいことも、一緒にしたいこともたくさんあった。それなのに、大事な2人はもういない。長く生きれば、その日が必ずやってくることは分かっていたけれど、あまりにも早かったその日がやってきて、純子にはこのペンションしか残っていないのに―――
「やめてください」
凛とした声が桐島の言葉を断ち切った。荒尾が純子の前に立ち、桐島から彼女を守るように立ってくれている。純子はそんな荒尾の背中を見つめ、感謝はしているのだが、声が出ない。
一方荒尾は、書類を手に取ってから、桐島を睨む。
「書類がどれだけ正当なものなのか、はっきりわからない段階で、娘である中野瀬に話をするのはどうなんですか」
「あなたは、宿泊客ですよね?関係ないのではありませんか?」
桐島は、簡単に言うなら絵本に出てくる意地悪なキャラクターのように、荒尾をジロジロ見ていた。こんなに分かりやすい意地悪な奴がいるか?と、荒尾が思ってしまうくらいである。これで鼻が長かったり、目つきが悪かったりすれば、悪に染まった悪者のできあがりだ。ケイくんやまーちゃんが、びっくりして荒尾の背中に隠れてしまうような存在になりかねない。
「俺は宿泊客ですが、このペンションを大事に思っています。客の立場からしても、ここを売り払ってもらっては困ります!」
荒尾がはっきりと言うと、桐島は少しばかり嫌そうな視線を向けるのだった。