千香は、自宅に帰ってすぐに両親のもとへやってきた。今日は、すぐにペンションへ行ってしまったので、両親とゆっくり話をする暇もなかったのである。
ついつい、純子のところへ行ってしまう―――大学にいる間も、何をしているときも、やっぱりあのペンションが恋しくなる。泊まるわけではなく、従業員の立場なのに、それでもあの場所はとても居心地がいいのだ。
古びているけれど、清潔でぬくもりのあるパン屋の奥、千香の実家のダイニング。パン屋の店舗と一緒になっている自宅は、始終パンの香りがしていて、千香にとってはとても好きな家だ。
ただ、そのせいで兄がこの家で暮らせなかったことは、残念でならない。
香ばしいバターの香りがほのかに残るキッチンでは、父がバタールをカットしながら、母がミネストローネを煮込んでいた。そのバタール、売れ残ったのか、わざわざ売らずに残しておいたのか―――聞こうと思ったが、やめておく。父は、自分のお気に入りパンが焼けると、ひっそり家のキッチンに隠しておくのだ。お気に入りだけは、自分で食べたい。それくらいにパンが大好きな父。そして、それを知っている母。
「ねえ、お父さん。パン耳とか、売れ残りのパンとかでさ、何か面白いレシピってない?」
キッチンをのぞき込んで千香は、父に聞いた。すると父は、眉を上げながらにやりと笑う。この父は、カレーパンの中身を自作してしまうくらいの、料理好き。純子のようにいろいろなレシピはないが、パンに関することならいくらでも、と言ったところだ。
「お、急にどうした。新作でも考えてくれるのか?」
「まあ、そんな感じ!」
「どうせ、純子ちゃんのところで出すやつだろ!」
「えー、なんでわかったの?」
「お前のことだから、純子ちゃんのところで楽しいことするつもりだろうなって思ったんだよ」
「そのとおり!」
千香は子どものように笑って、父に話しかけていた。千香にとって、純子のペンションは本当に楽しい場所なのだ。さまざまなお客様との出会い、美味しい料理、のんびりとした時間―――みんながあの場所では、穏やかになれる。楽しいことをして、日常を忘れた。でも、日常に戻ると、あの場所でのあの時間が、とても恋しくなる。あの場所で食べた料理を自分で作ってみたり、あの場所で話したことを、誰かに伝えてみたり。
だから、すべてが切り離されているわけではないのだ。
母は鍋からよそったスープを千香の前に置きながら、少し首を傾げる。温かいスープの湯気を避けるようにして、千香は母の顔を見つめた。母も楽しいことが好きな人で、自分のパンを焼きたいから嫁に来たような人。
「そういえば前に、パン耳でおやきとかやったよね?」
「そうそう! あれ、好評だったよ。細かく刻んで、野菜と混ぜて、フライパンで焼くだけってやつ」
「パンって意外に和の食材とも合うのよね。インターネットで、納豆パンを食べてる人を見たわ」
ニコニコしながら、母はそんな話をした。確かに、最近は納豆やしらすなどを変りダネのトーストにしているのは、有名だった。千香も大学に行っている間は、そういった簡単に作れて、美味しいレシピは多用している。それを更にアレンジして、美味しくいただくことはできるだろうか。
「あとラスクもいいけど、しょっぱい系のおつまみパンチップスもいいんじゃない?」
「サクサクにして、サラダスティックと同じ感覚でお皿に載せてもいいね」
「クルトンをいろいろな味にして、盛り付け自由にしたら楽しいだろうなぁ」
父は、純子だけでなく、近くの飲食店にパンを卸している。中には、そのパンを更に調理して使っているところもあるらしい。クルトン、ラスク、サンドイッチなどは、よくある話だった。千香はそのすべてをメモに取りながら、満足げに笑う。
「さすがうちの両親、最高〜!」
父が小さく笑いながらグラスの水を飲むと、千香がふいに顔を上げた。実のところ、あのペンションのことで、とても気になっていることがあるのだ。
「そうだ、お父さん、お母さん。ペンションに来てた【荒尾さん】って、どんな人なの?」
「荒尾さん? ああ、真面目そうな、ちょっと不器用な人よ。いい人だったわ」
「純子ちゃんとパンを買いに来ているな、いつも。すっごくたくさん買ってくれるんだよ」
笑う父は、とても嬉しそうだった。父にとって、パンをたくさん買ってくれるお客は、とても大事なお客なのである。
「えっ、純子さんの恋人ってこと?」
千香は、父の言葉を聞いて、慌てて言った。まさか、あんなに楽しくイベントのことを話していたが、純子の恋人だったのなら、失礼だったかもしれない、と思ったのである。しかし母は吹き出しそうになりながらも、首を横に振った。
「いや、まだそこまでじゃないみたい。でも……うーん、そうなってもおかしくないかな?」
「なにそれー! 応援しなきゃじゃん! やばっ!」
「そうよねぇ、あの2人ならお似合いだってお母さんも思うのよ」
「わ、わ、わ!!気になる~!!!」
「2人の結婚式で、うちのパンを使って欲しいわ~」
さすが、千香の母。まだ結婚式の予定などないのに、そんな夢を見ている。千香はバンバンとテーブルを叩き、ニヤニヤと笑う。きっと、勝手に純子と荒尾の結婚式を想像して、楽しくなっているのだ。この様子では、余興を担当するつもりではなかろうか。
「また千香のお節介が始まったな……」
「はーい、お節介千香です! 今度行ったら様子見てくる!」
「やめなさい、お客さん減ったら、うちが困るだろ!」
「うまくやりまーす!!」
家族の笑い声が、夜のパン屋に優しく響いた。
一方、ペンションでは。
荒尾が窓辺の椅子に腰かけ、スマートフォンを手にしていた。会社のスケジュール管理アプリを開いては閉じ、ため息をつく。純子には、ここに残ると言ったものの、会社にはそれを伝えていないのだ。
「……休みの追加申請……いや、いっそ退職願か……」
言葉に出してみても、決意が固まるわけではなかった。営業の仕事が嫌いなわけではない。人と話すのも、提案するのも、むしろ好きな部類だ。書類を作ったり、資料の指示をまとめることも得意である。
後輩からも慕われていたし、仲間とも上手くやれていた。だからこそ、どう伝えれば理解してもらえるのだろうか、と思ってしまう。しかし、なかなか考えがまとまらないのだ。なぜなら、考えれば考えるほど、純子や千香とこのペンションで楽しくしている自分の姿しか、見えてこない。自分の気持ちは変わらないのだが、会社のことをどうすればいいのか、と悩んでしまう。
このペンションで感じた手触りのある【食で人と関わること】が、荒尾にとって、とても楽しい未来に感じるのだ。もちろん、そこには純子や千香、赤坂夫婦など、新しい仲間がいてくれる。しかし、会社の仲間にもたくさん世話になったのだ。
「やっぱり、ちゃんと会って説明を……」
引き留められるのは分かっていたが、それでもやはり。けじめをつけたい、と思ってしまうのは、荒尾が真面目な男性だからだろう。うんうん、とスマホとにらめっこをしながら、荒尾はなかなか連絡をすることができない。
そのとき、もう外は暗くなっているというのに、訪問者がやってきた。こんな時間に新しい宿泊客だろうか、と思って、荒尾は椅子から立つ。彼よりも早く、純子が玄関に向かっていた。いつものように、彼女は明るく優しくドアを開けると―――
「あ……」
「こんばんは、中野瀬様。本条不動産でございます」
まるで夜の闇のようなスーツを着た男。
そんな男が、そこに立っていた。