陽がすっかり落ち、ペンション・リガーレには、柔らかい照明と、ほかほかと湯気を立てる夕食の香りが満ちていた。千香は、以前から食材を持ってきたら、そのまま自動的に食事を食べていく、というスタイルをとっている。それが好きで、山に入ったり畑から収穫してきたりなど、さまざまなことをして、食材を手に入れている節もあった。
純子はそれを知ってか、知らずしてか、とにかく千香の持ってきたものは調理してくれる。以前送りつけられたメロンソーダも、上手くカフェのメニューとして活躍させることができた。千香の人の良さは理解しているが、ちょっとばかりやることが飛び抜けているように感じるのは、純子だけだろうか。
「お待たせしました~。今夜は春野菜中心です」
エプロン姿の純子がテーブルに料理を並べていく。荒尾と千香は並んで座り、その光景をどこか嬉しそうに眺めていた。今まで、ペンションで開催する料理企画を熱心に考えていた2人が、お腹を空かせていないわけがない。特に荒尾は、見た目よりもたくさん食べる男だ。きっと千香も驚くだろう、と純子は思う。
テーブルに広がった料理を眺め、荒尾は「美味しいため息」をついた。最近、美味しいものばかりと出会うから、ついにため息さえも美味しいものに反応して、出てしまうのだ。
本日のメニューは、素朴だけれど季節を感じられて、とても美味しいものばかり。
たけのこと鶏肉の炊き込みご飯は、ふっくら炊かれたご飯に、香ばしく炒めたたけのこと鶏肉がたっぷり。木の芽の爽やかな香りがふわりと立ち上る。これをおにぎりにしたいなぁ、と荒尾が思っている横で、千香も同じことを考えていた。
菜の花のからし和えは、ほんのり苦味のある菜の花に、ピリッと効いたからしと白だしのやさしい味わい。ほうれん草のおひたしが大好きな荒尾にとって、からし和えは、やや刺激が強い。しかし、この刺激が料理と料理のいい箸休めに感じられる。
「からし和え、辛すぎませんか?味見はちゃんとしているんですけど」
「いや、いい感じの辛さだ。ただ辛いだけじゃなく、菜の花の苦みとちょうどいいというか」
「菜の花って意外に美味しいんですよね。天ぷらも好きですよ」
「天ぷらかぁ、色合いもきれいだろうな」
荒尾は、そんな美味しそうなイメージを思い浮かべた。白い衣の間から見える、きれいな緑は、春の訪れを伝えてくれている。今度はぜひ天ぷらをリクエストしよう、と荒尾は思った。
そんな彼の横で、千香はせっせとふきを食べていた。透き通った見た目になったふきは、とても美しく、 出汁をしっかり含んでいるので、口の中でほろりと崩れる。一緒に炊き込まれた厚揚げも、じんわりと味が染み込んでいて美味しかった。
「春キャベツも出てたので、しらすと炒めてみました。ちょっと変わった組み合わせなんですけど、ご飯が進むんですよ」
「へぇ、これならお弁当のおかずや、卵でとじても美味しそうだな」
「卵!いいですね!朝ごはんでもいいかも!」
千香は、パン屋の娘だが、ご飯も好きだ。自分で手に入れた食材だけでなく、純子が準備してくれたあれこれも、思う存分楽しんでいる。春キャベツとしらすの炒め物を頬張って、それはそれは幸せそうな顔をしていた。
「お味噌汁は普通に作りました。でも、明日は残った春キャベツを入れても美味しいかもしれませんね」
「キャベツの味噌汁って、腹にたまるし、いいよな」
大食いの荒尾にとって、腹にたまるものは嬉しいものだ。細々食べていくのも嫌いではないが、汁物と一緒に食べられて、お腹が温まるようなものは、重宝する。どんなに大食いと言っても、延々固形物ばかりでは、少し腹が心配なこともあるからだ。
千香は、どの料理にも「うまっ!」「これ学生でも作れるやつ?」「レシピメモしたいー!」と口々に感想を言いながら、どんどん箸を動かしていく。
「いやあ、こんなに食べてくれると気持ちがいいわ」
純子が笑いながらお茶を注いだ。そのあとに、ゆっくりと彼女も自分の食事を開始する。このペンションで誰かと食事ができることは、純子にとって、とても嬉しいことだった。
「だって、おいしいし、栄養バランスも完璧なんだもん!」
千香は口いっぱいに炊き込みご飯を頬張りながら、もぐもぐと答えた。さすがは、栄養士を目指しているだけあって、着眼点はしっかりしている。
「久しぶりに帰ってきたけど、やっぱりここっていいなぁ!純子さんのペンション!」
「まだまだ小さなペンションよ。隣町のリゾートホテルの豪華バイキングを見て、ガッカリしちゃったわ」
「あ、SNSですっごくバズってましたよね、あれ!」
この業界も、宣伝は大事なものだった。しかし、近年は若者などによるSNSでの拡散が早い。中には実況中継並みに、堂々と配信している輩もいるくらいだ。しかしそういうことがあれば、ホテルは大人気になる。
「私は、やっぱり荒尾さんが考えたような、身近なイベントとかが好きだけどな。ずっとフードロスにも興味があるし。パン屋って、売れ残りや切り落としのパンがけっこう出るんですよ。捨てるの、ほんとに心が痛くて。何か再活用できないかって、ずっと思ってました」
確かに、売ってあるパンの耳はビニール袋にみっちりと詰め込まれていた。それだけロスが出ているということだ。本来ならば、サンドイッチでも菓子パンでも、パンの耳まで食べればいいのだが、世の中はそうはいかない。好き嫌いだけでなく、子どもや高齢者では食べにくいという現実もあるのだ。
「春休み中は実家のパン屋の手伝いもしますけど、時間があればこっちにも来たいなって。パンの耳だけじゃなくて、使い切れない材料とか、パンくずとか……リメイクおやつ、もっと試したい!」
荒尾はその熱意に、静かに頷いた。フードロスを簡単に考えられないことは、このペンションで純子の料理を見て、荒尾も理解したことである。
「じゃあ……ペンションとパン屋、つなぐ企画もありかもな」
「え、マジですか!? めっちゃやりたいー!」
「無難にパン教室ってのもいいけど、ほら、中野瀬、食べ放題とかも考えていたよな?」
千香の目がきらきらと輝いた。自由に選べて、自由に食べられる。それを若者は魅力的だと感じたのであろう。
「いろいろなことができるなって思ってましたもんね」
「新作の試食会とかでもいいかもな。新作パンの感想を、いち早く聞けるって感じだ。そうやっていろいろ関りを作れば、フードロスにもつながっていくんじゃないかと俺は思う。知らないことが多すぎる世の中だからな」
「私は!たとえばパンの耳でラスク作って子ども食堂に届けたり、パンくずを使ったグラタンづくりとか……あと、固くなったパンでフレンチトースト教室とか!そういうのも楽しいかなって思うんです!」
さまざまなアイデアが飛び交う食卓。純子は、今までとまた違った展開に、とても楽しいと感じた。
「おお、アイデア止まらんな……」
荒尾は感心しながら、ふと頭の中でスライドの一ページを加えるイメージを思い浮かべた。
「千香ちゃんがいると、やっぱり若さと発想力がすごいわ」
純子も笑ってうなずく。
「じゃあ今日はもう泊まっていったら?
荒尾が冗談めかして聞くと、千香は残念そうに笑った。パン屋を継がないと決めた彼女だが、実家の手伝いをしないとは言っていないのだ。
「えー、したいけど今日は帰らないと! 明日早朝から仕込みあるんです~」
「パン屋の朝は早いからね」
「今度、純子さんも一緒にパンを仕込みましょうよ!」
「そうね、それも楽しそう!」
2人の笑顔を見て、荒尾も気持ちがとても穏やかになれた。
「また来まーす! 今度はもっとちゃんと連絡しますー!」
そう言って、ぱたぱたと玄関から飛び出していくその後ろ姿に、荒尾と純子は並んで、自然と笑っていた。まるで突然妹ができたかのように、2人にとって千香という存在は、大きくなっている。
「元気だね、あの子は」
「うん。でもね、しっかりもしてるのよ。きっと、将来はちゃんと“食”で人を幸せにする仕事、できる子になる」
その言葉に、荒尾も静かにうなずいた。