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第65食:パン屋の娘は何になる?

2人がとても楽しそうに話をしている姿を眺めていた荒尾は、急いでその話の内容をパソコンに落としていく。ついついそのまま聞いていて、楽しい雰囲気に飲まれてしまっていた。慌てて、パソコンを動かす荒尾は、必死である。

彼は2人がとても気に入っている高齢者の企画と、子どもの参加の企画には力を入れていいだろう、と判断した。どれくらいのニーズがあるのかは、これから考えるところだが、それでも悪くない内容だと思える。特に、この地域には高齢者が多く、赤坂夫妻のように手伝ってくれる存在はありがたい。探せばもっといるのではないか、と思えた。


「よし、ばあばの台所企画を考えてみたぞ!」


そう宣言して、荒尾はパソコンを純子と千香に向けた。そこには、丁寧な説明がまとめられている。高齢者向けのイベントは、体力的な問題や、高齢者の今までの生活の維持など、さまざまな点で課題が多い。その課題をクリアしながら、前に進まねばならないので、やりがいはしっかりとできるイベントだろう。

純子は荒尾のパソコンをのぞき込み、すぐにニコニコと微笑み出した。


【企画例①】

「ばあばの台所 〜季節の知恵と味を伝える会〜」

・対象:地域のお年寄り(講師)、20〜40代の参加者(受講)

・内容:実演+実食、記録用にレシピ配布、希望者には動画撮影あり

・目的:地域のお年寄りの役割創出、若年層への知識継承


「なんだか本格的ですね!動画撮影とかして、ネット配信したら遠くの人にも伝わりそう!」


千香は荒尾の企画案に、大賛成だった。若い彼女にとって、ネット配信は当たり前の世代なのだろう。高齢者だけでは叶えられないことでも、たくさんの人と世代が集まれば、叶うこともある。


「実は、別のも考えたんだが」

「別のも考えたんですか?」


純子が荒尾を見ると、彼は真剣な表情で次の企画案を持ってきた。内容としては子どもとその保護者向けだが、本格的な内容と考えられた計画が、荒尾の真剣さを表している。


【企画例②】

「子どもに季節の食材を食べてもらう会」

・対象:保育園児、幼稚園児〜小学生の親子

・内容:苦手な野菜を“別の形で”楽しむ調理体験(例:にんじんゼリー、菜の花ピザ)

・目的:味覚の幅を広げる、親子の食卓へのヒント提供

・注意点:アレルゲン不使用レシピの提示、アレルギー持ちの子でも参加可能に


【企画例③】

「アレルギーに悩む親子相談室」

・対象:アレルギーを持つ子どもの保護者

・内容:管理栄養士による食事相談、代替食材の紹介、共有レシピ交換

・目的:情報の偏り防止、安心できる「場」としての継続開催

・注意点:アレルゲン不使用レシピの提示、試食スペース(小麦・卵・乳不使用メニュー)

・地元の小児科医と連携できればベスト


「企画として悪くないと思ったんだが、それなりのリスクもあるから、あとの2つは他の企画が軌道に乗ってからでも、いいかなって思うんだ」


荒尾はそう説明する。すると、純子も大きく頷いた。


「この『アレルギー相談室』すごく良いと思うよ」

「最近、アレルギーの子ってすごく多いって聞いたからな」

「実際、お母さんたちって本当に悩んでるから。食べさせたいのに食べさせられない葛藤、すごく多いの。そういうときに、管理栄養士が直接話せる場所があると、救いになると思います」


アレルギーの子どもはとても増えているという。実際に症状の大小はあったとしても、いつ酷い症状が出るか分からない、というのがアレルギーでもあるのだ。今まで大丈夫だったもの、少量なら、と思って口にしても、気づいた時には重い症状が出てしまう子どももいる。


 「……なるほどな」


荒尾は深く頷いた。そういった場面に立ち会ったことのない荒尾だが、純子の真剣な顔から、ただ食事の企画を立てればいい、というものではない、と感じ取った。千香は荒尾が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ゆっくりと話に入ってくる。


「子どもの企画が成功したら、大人のアレルギー相談室もいいですよね!」

「そっか、大人になってもアレルギーの人はいるもんね。案外、大人の方が忘れられてるかも……。自分で食事の管理をしちゃうから、限られた食事しか食べていないっていう人もいるかもしれないね」

「実は、私のお兄ちゃんがそうなんですよね!もう成人してますけど、小麦アレルギーなんです」


まさか、と純子と荒尾は目を丸くした。パン屋の息子が小麦アレルギーなど、有り得るだろうか。しかし、千香はとても真剣な目をしている。

パン屋の長男として生まれた兄は、幼少期よりアレルギーを発症。そのため、祖父母が兄だけを育てたという。両親はすでにパン屋の経営を辞めるわけにはいかず、苦渋の決断だったという。


「私にはアレルギーなかったですし、パンは大好きなんですけど。でも、ちょっとパン屋を継ぐ気にはなれなかったかなって」


それが、千香の本音なのかもしれない。パンは好きで、実家のパン屋のことも好きだ。しかし、そのパン屋が家族と兄を引き離したと言っても、過言ではないのだろう。荒尾は、自分が大好きなパン屋にそんな話があるとは思わず、驚いていた。


「ていうか、私も手伝いたいです、その相談室。やっぱり、他人事に思えないから」

「千香ちゃん、無理しなくていいのよ?」


純子は優しくそう言ったが、むしろ千香の目はまっすぐだった。彼女にはやりたいことがあるのだろう。


「私だって、大学で管理栄養士目指してるんです」

「え、本当に……?」


荒尾は目を見開いた。あまりに明るく自由すぎる千香の様子からは、全く想像がつかなかった。本人がいろいろなことをしたい、と語っていたとはいえ、本業は管理栄養士だったというのか。


「でも、企業とかの夢も捨ててません!ただ献立を立てる管理栄養士じゃない、もっとアクティブなのを目指しているんです!」


千香が鼻を鳴らし、得意げにウィンクした。

荒尾は思わず笑ってしまいながら、ふと、胸の奥が熱くなるのを感じる。夢を語る若い子に対して、自分が何を返せるだろうか――。こんな風に、誰かの夢を聞かせてもらって、自分もやりたいことを語る。そんな対等で面白い場所は、滅多にない。だからこそ、荒尾はこの千香という存在に感謝を感じた。


こんな千香と純子がいてくれれば、何でもできるような気がしてきた。無理をして何かを返そうなんて、おかしな話だ。

そんなことよりも、荒尾は自分のできることで「関わる」ことの方が大事だと思えた。彼女たちの活動を支える立場で、営業職の経験を活かすこともできる。説明の資料を作ったり、講師になってくれそうな人を探したり、営業で培ったことを思う存分に使えるだろう。


「……千香ちゃん。手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくれ」


その言葉に、千香はぱっと笑顔を広げた。その笑顔は、パン屋のオーナーにそっくりだ。


「はいっ! じゃあさっそく、プロっぽい企画書の書き方、教えてください!」

「いいぞ!でも俺の企画書の作り方は、厳しいからな?後輩たちのお墨付きだ!」

「そ、そんなに厳しいんですか!?」

「もちろんだ!その変わり、ほぼ一発で企画を通せるレベルまでいけるぞ!

「す、すごすぎる!!」


大学生の千香にとって、荒尾は社会の荒波を生きてきた、強い大人に見えたのだろう。笑顔の中にも、荒尾に対する信頼が見え始めていた。

純子はそんな2人を見て、ふふっと笑いながら、またキッチンへ戻っていく。春の食材たちが、純子のことを待っているから。


明るい声と、次々と浮かぶアイディア。

ペンション・リガーレには、少しずつ「何かが始まりそうな空気」が満ち始めていた。











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