今年も夏がやって来た。学生の頃の夏の思い出はいいこと尽くめだ。海に花火に夏休み。夏ってだけで気分が高揚し、世界も明るく輝いて見えたような記憶がある。
「あ~、なんで夏とか存在するんですかね。もう一生冬ならいいのに」
昼休み、工場内の簡易的な休憩スペースで昼食を取りながら、左野が恨めしげにトタン屋根の隙間から見える青空を見上げてぶつぶつと文句を吐き出していた。
「最近どんどん最高気温更新してるし、神様が俺たち工員を殺しにかかってますよね」
「お前、そんなこと言いながらちゃんと飯食ってんじゃん」
左野の横でペットボトルのお茶をグビグビ飲んでいた右京が、呆れているような感心しているような複雑な感情のこもった目で左野を見ている。
「慎二もちゃんと食わないとぶっ倒れるぞ」
「いらない。何も欲しくない」
何も食べようとせずにひたすら水分だけを取り続ける右京に、宗馬も少し心配になって声をかけた。
「若いのに何言ってんだ。コンビニのそうめんとかでいいから食えよ」
「そう言う下地さんも日に日に弁当箱の大きさが小さくなってますけど」
「何も食わないよりマシだろ」
鉄工業を営む生鉄工業の現場の夏は暑い。暑いというか控えめに言って地獄だ。ガンガン火を焚く高温の加熱炉の側で作業するので、ただでさえ四十度近くまで上がる夏の屋外でさらに半端なく威力の高いストーブに当たっているような状態になる。冬は暖かくてちょうどいいのだが、夏になると工員たちの体はどんどん絞られていき、右京のように食べられない者たちはげっそりと痩せこけていくのだ。
「そういえば田中さんどうなったんですか?」
「ああ、やっぱり熱中症だって。ちょっと入院することになるみたいだ」
「マジすか」
田中は生鉄工業の工員の一人で、昨日作業中に倒れて病院に緊急搬送されていた。
「田中さん、最近食細くなってましたもんね」
「お前らも気をつけろよ。右京も食えないのは仕方ないけど、ちゃんと塩分と水分補給しとけよ」
「あ、そういえばこないだ金子さんも駅で倒れたって聞きましたよ」
「マジか~、やっぱ今年の夏ヤバいな~」
「いや、金子さん経理だろ? なんで倒れてんの?」
「なんか電車の中と外気の温度差でやられたらしいですよ」
三人がガヤガヤ話しているところへ、高野工場長がタオルで汗を拭きながら姿を現した。
「工場の外だからって油断するなよ~。金子さんの二の舞になりたくなけりゃな」
「俺たち寮住まいなんで大丈夫です!」
「まあそうかもしれんけどさ、これ以上人手が減ったらちょっとまずいから、マジで気をつけろよ」
「田中さん、しばらく来れそうにないんですか?」
「そうなんだよ。ちょっと安静が必要なんだってさ」
三人の若者たちは思わず顔を見合わせた。
「ちょっとキツイですね。リフト運転してくれる人がいないと、作業効率がだいぶ悪くなるんですが」
ただでさえ暑さと食欲不振で体力が削られている状態で、過酷な残業はできれば避けたかった。
(次もし右京が倒れでもしたら、それこそさらにヤバい状況になる)
「うん、俺も流石にヤバいと思ったから、ちょっと上と相談してきたんだ。それで人員を一人貸してもらえることになった」
「え?」
戸惑う三人の前で、高野は振り返ると自分が来た方角に向かって手招きした。鶯色の作業着を着た青年が一人、おずおずと三人のいる所まで近付いて来る。
「……え、営業の新田です。よろしくお願いします」
「え、高野さん、営業の人に来てもらって大丈夫なんですか?」
「うちの営業は一応全員リフトの免許持ってるだろ?」
「いやそうじゃなくて、新田さんには営業の仕事が……」
無神経な左野がそれ以上言葉を続ける前に、宗馬は彼の口に自分のタオルをぐいっと突っ込んだ。
「むがっ!?」
「新田さん、わざわざお手伝いに来ていただきありがとうございます。とても助かります」
(ばかやろう! 使えないから回されたに決まってんだろうが!)
目で左野にそう圧をかけると、左野はよく分からないながらも自分は黙った方がいいと判断したらしく、タオルを吐き出してからも口を開くことはしなかった。
「難しい作業は頼めないが、リフトで運んでもらえるだけでもだいぶ助かるだろ? そこんとこ下地が上手く教えてやってくれないか?」
「はい、分かりました」
ちょうど休憩時間も終わったため、宗馬は新田をリフトの場所まで連れて行った。
「あそこで製品が出来上がるので、それをリフトで受け取ってこっちに運んで並べていって欲しいんです」
「それだけでいいんですか?」
「それだけでも十分助かりますよ」
新田は分かりましたと素直に頷くと、早速リフトに乗り込んでハンドルを握りしめた。
「周りに人がいないか気をつけて! 徐行運転でお願いします!」
「はい!」
新田は決して作業が早いわけではなかったが、宗馬の指示通りに丁寧にリフトを運転して製品を運ぶために何度も工場内を往復していた。
(へぇ……)
見るからに臆病そうで、真っ先に営業から下されて来たところを見る限り仕事のできないタイプの人間だとばかり思っていたが、案外そういうわけでもなさそうだった。
(素直だし、ちゃんと指示を聞いているし、むしろ使える方なんじゃないか?)
運ぶ製品が無くなり、リフトから降りようとした新田がぐらりとバランスを崩して倒れそうになったため、宗馬は慌てて彼の体を支えてやった。
「大丈夫?」
「あ、す、すみません」
「流石にいきなりで疲れたでしょう。ちょっと休みましょうか」
宗馬は休憩スペースまで新田を連れて行くと、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ助かってますよ」
新田は不思議そうな表情で宗馬の顔をじっと見つめた。
「……ぼ、僕、そんなに役に立ててますか?」
「もちろんですよ。これだけでもやってもらえるとすごく助かるんです。それにリフトの運転って結構性格が出るっていうか、新田さんの運転は丁寧なので安心感がありま……」
「そこにそれ置くなって言っとるじゃろうが!」
うるさい工場内でもよく響く左野の怒号に、新田の体がビクリと硬直した。
「あ、ぼ、僕……」
「大丈夫ですよ。新田さんのことじゃありません」
新田が恐る恐る見ている中、年配の工員が慌てて左野の元に駆けつけているのが目に入った。
「ひえ、と、年上の社員に向かって……」
「あいつはちょっと血の気が多いんでアレなんですが、まあ年上といっても先に入社したのはあいつの方で先輩なんですよ」
「へえぇ……」
「結構危険な作業も多いんでね、指示と違うことをされると困るんですよ。あいつが怒るのもまあ仕方ないことで。にしてももうちょっと言い方は考えて欲しいですけど」
宗馬は自分も水分補給をしながら新田に向かって微笑んで見せた。
「こんな暑い時期に、本来の業務とは違う仕事を手伝って下さりありがとうございます」
新田はもじもじと下を向きながら、スポーツ飲料のペットボトルをパキパキと鳴らしていた。
「……僕、そんな風に仕事で感謝されたことって今まで一度もないです」