(何だろう? なんだか含みがあって嫌な言い方だな。一体どういうつもりなんだ?)
話の流れが何だか不穏な方向に向いてきたため、宗馬は軽く身構えた。
「……仕事なので、楽だからとかそういう理由で物事を判断するべきじゃないと思うんですけど」
「え~、そうかな? 楽に稼ぐって重要なことだと思うよ。特に君たちは肉体労働者なんだから、体力をセーブするのも仕事のうちだと思うけど。明日突然重大なトラブルが起こって、一ヶ月強制残業なんて事態もあり得るじゃない? つまり何が言いたいかっていうと、翼の案件は君たち現場の人間の体力を削いだり、俺が嫌な思いをしてまで優先するべき案件とは言えないってこと」
それはただの瀬戸の考えであって、彼の意見が本当に正しいのかどうか、宗馬には判断がつかなかった。
(でも今問題なのは、彼の意見が正しいかどうかなんかじゃない。正しかろうが正しく無かろうが、決定権を握っているのは瀬戸さんだってことだ)
瀬戸が動いてくれなければ、翼の案件を納期通りに進めることはできないのだ。
「……さっきの写真を誰かに見せるって言ったら?」
「え~、ここまで言ったのに、それでも強行手段に出てまで翼を優先するんだ?」
「天野さんを優先するとかじゃなくて、俺は天野さんの案件も大事な仕事だと思っているだけですよ」
「ふうん、まだしらばっくれる気だね。じゃあ俺もとっておきのを出しちゃおうかな」
そう言うと、瀬戸はスマホの画面をスワイプしてからぱっと宗馬にかざして見せた。
「これな~んだ?」
「???」
公園のベンチに並んで座る二人の男性の後ろ姿を、まあまあ離れた距離から撮影している動画だった。次の瞬間、背の高い方の男性がもう一人の男性の顔に向かって体をかがめ、すぐに様子を伺うように顔を離した。男性同士のカップルが、並んで腰掛けてキスする瞬間を捉えた動画であった。
(あああああああああああ!!!)
なんということだ!
「これ、下地さんと翼だよね?」
「……違います」
「俺、今疑問文で喋ったけど、別に聞いたわけじゃないからね?」
「違います」
宗馬は分かっていた。口ではきっぱり否定しているにも関わらず、自分ではどうしようもなく制御不能な熱が全身を駆け巡り、汗となって吹き出していることを。
「下地さんって本当に嘘つけないタイプだよね」
「……分かりました。確かにこれは俺と天野さんの顔です。趣味の悪い合成動画を作るのはやめていただけますか? こんなの見せられたら誰だって焦りますよ」
「俺の知り合いにAI動画に精通してる人がいるから、その人に頼んで本物かフェイクか確かめてもらおうか?」
え、マジで……?
「そ、そそそ、そんなこと……」
「あははは! もう無理だって! 口先の論争で営業に勝てると思ってるの? 翼にできるからって、君にもあのポーカーフェイスができると思う?」
惨敗だ。全くもって瀬戸の言う通り、自分ではこのキラキラ営業を論破することは不可能だ。そもそも動画に写っている人物は、どう足掻いても自分と翼に他ならないのだから。
「……ど、どうすれば消してもらえるんですか、それ」
「安心してよ。俺は別に極悪人になりたいわけじゃないんだから」
「じゃあさっさと消してくださいよ」
「いやいや、せっかく面白い物が手に入ったんだから、ちょっとぐらい遊んだっていいでしょ?」
瀬戸はスマホをポケットに大事そうにしまい込むと、両手のひらを空に向けて肩をすくめた。
「俺の写真もできればあんまり他人に見せて欲しくはないけど、まあちょっと抜けてスマホ触ってるだけだし、そこまで痛くはないかな」
「……」
「じゃ、まあこれからよろしくね、宗馬くん」
そう軽く言い捨てると、瀬戸は笑顔で手を振りながら事務所へと続く階段を上って行ってしまった。後に残された宗馬は、不安げな面持ちで去っていく瀬戸の背中を見送ることしかできなかった。
(よろしくって何だ? これから俺は何をよろしくされてしまうっていうんだ……?)
◇
次の日、遅れていた材料が工場に到着し、保留となっていた生産予定が正式に確定した。
「え、これって……」
「おう、なんか結局元々の予定通りに作っていいことになったわ。浜辺が珍しく特急品とか言ってた案件をいくつか取り下げてな。珍しいこともあるもんだ。あいつがちゃんと正しい納期の洗い出しを行うなんて」
高野工場長の言葉を聞いて、宗馬は心から喜んでいいのか分からず複雑な気持ちを抱えたまま自分の持ち場へと戻って行った。
(瀬戸が本当に助け船を出してくれたんだろうか? 彼は一方的に俺の弱みを握っているようなものなんだから、別に俺の頼みを聞く義理なんてなかったはずなんだが……)
モヤモヤとした気持ち悪さは残ったが、とにもかくにも最初の難関は突破したのだ。しかしだからといって翼の新規案件が成功をおさめたわけではない。既に作業は一日遅れているのだ。今自分にできることは、とにかく先方の満足のいくような製品をいつも通り丁寧に仕上げて、予定通り納入することである。
(そうだ。瀬戸のことは後から、製品を納入し終わってから考えればいい)
宗馬が材料を確認していると、昨日と同じように鶯色の作業着の長身の男が階段を下りて来るのが目に入った。
(あ……)
キスした所を動画に撮られたのだ。社内での接触は極力避けるべきだったが、昨日の瀬戸とのやり取りの内容をつゆほども知らない翼は平気で宗馬の元へと近付いて来る。
(どうしよう。瀬戸のこと、こいつに言った方がいいかな?)
「……昨日は心配かけてごめん」
昨日眠れなかったのか、翼は目の下にくっきりとクマを作っていた。女性なら化粧で誤魔化せたかもしれないが、男は寝不足の跡を目の前の人間から隠す術を持ち合わせていない。それでもイケメンと呼ばれるに相応しい威厳をきちんと保っているところが翼らしかった。
「浜辺さんが譲歩してくれて、俺の案件はなんとか納期内に納められそうになったよ」
「何かあったのか?」
「分からない。今日は雪でも降るんじゃないかな」
(翼のやつ、瀬戸のことは知らないのか。これは言わない方がいいんだろうか……?)
そもそも、瀬戸はもしかしたら何もやっていないのかもしれない。改心した浜辺が自主的に行動した可能性も無くはない。宗馬はひとまず瀬戸に動画で脅されたことは翼に黙っておくことにした。
(あいつが俺にキスしたから脅されたって知ったら、あいつは後ろめたさを感じてしまうだろうから……)
ホッとして、安心している今の翼を、自分の言葉で傷つけてしまうのは何となく嫌だったのだ。
だってこいつは頑張っている。表面上はスマートにこなしているように見えて、完璧な笑顔の裏ではうっかり寝落ちして髭も剃れないくらい必死で働いているのだ。大多数の人間が同じ仕事を繰り返すだけの会社にいて、こいつは果敢にも新規の取引先を開拓して、社内で待つ自分たちに狩で獲物を獲ってくるように新たな収入源を確保してくれたのだ。
「まだ終わってないだろ。むしろ始まったばかりだ」
「そうだね。でも工場のみんなの腕は信頼してる」
「そうかよ」
ならば自分はその期待に応えるしかない。宗馬はすっくと立ち上がると、背中に翼の視線を感じながら再び材料の確認を始めた。