ルリが目を開けたのは、アルケーが去ってすぐだった。
ベンチに寝ていた体を起こして、周りを見ると白い床に転がっている薄いピンク色のカードとペンを見つけた。
ペンとカードを拾って見ると、『ハッピーバースデーお兄さま!』という文字とうさぎのイラストが描かれている。
『確かにあの子が持っていたものなのに——なぜか自分のもののような気がする』
ルリの頭の中でカーラと店でペンを選び、恥ずかしがりながらカードを描いている記憶がフラッシュバックした。
「これは……わたくしのもの……? でも、どうして?」
思い出そうとするたびに、意識の奥に霞がかかったように遠ざかる。記憶の引き出しに手をかけても、鍵がかかっているように開かない。
ただ、この潰れたペンとカードだけはとても大事なものという気持ちだけは心の奥底に根付いていた。
カーラがルリのそばに来て「大丈夫?体に痛いところはない?」と優しく聞いてきた。
「大丈夫ですわ……」そういうと、ペンとカードを胸に抱いて起き上がった。
程なくして、迎えのドローンロボットがきた。
『こちらでございます』
ノーマンが加藤に背中を差し向けて「さ、行こう」と言った。
「えっ、ノーマンがあたしをおんぶ? いやいや、勘弁してよ。なんかヘンなこと考えてそうだし。」
「おい、なんだその言い方は!」
ノーマンがムッとすると、カーラが困り顔で割り込んできた。
「私が加藤さんをおんぶします」
結局、ノーマン、カーラと加藤、ルリの順でロボットについて行った。
『こちらになります』
自動ドアが静かに開くと、目の前に広がったのは豪奢なスイートルームだった。
まず目に飛び込んできたのは、上質なベルベット生地のソファが中央に置かれた広々としたリビング。大理石のフロアが足元で優雅に光を反射し、シャンデリアが天井から柔らかな光を落としている。
壁一面のガラス窓からは、煌めく都市の夜景が広がり、遠くには雲をまとった山々が幻想的にそびえていた。
リビングの一角には、重厚な木製のバーカウンターが設置されており、クリスタル製のグラスが整然と並ぶ。その奥には、ワインセラーまで備えられているのが見えた。
加藤がカーラの背中で「ヒュー!」と口笛を吹いた。ちょっとだけカーラが眉をひそめる。
「部屋って言うからさ、狭い監獄みたいなのを想像していたけど……なにこのセレブ部屋!」
カーラが加藤をソファに降ろすと、加藤はすぐにクッションに沈み込み、「うわ! ふかふかだよ! このソファ!」と感嘆の声を上げた。
カーラは部屋を見回して、豪華な作りと居心地の良さに戸惑いを感じていた。
「監禁するのではなく、居心地のよさで留めて、私たちを観察するなんて……本当にあの人は合理的すぎる……」
「ああ、俺たちを監禁した星野とは違うな。」ノーマンもアルケーのやり方に戦慄を覚えた。
ルリはソファーに腰掛け、ずっとペンとカードを見続けている。カーラがそっとルリの隣に座り「気分はどう?どこか痛い所とかある?」と聞いた。
「特に痛いところとかはありませんわ、ただ頭がぼんやりとしてますの。雲が掛かったみたいに自分がどこの誰だかはっきりしませんの……でも」
「でも?」
「このペンとカードはとても大事なものという意識だけはありますの。どこで手に入れたかも自分で書いたのかもわからないカードなのに……」
そういうとルリはぽろぽろと涙をこぼした。
「お姉さま……わたくし、これからどうなってしまうのでしょう。とても……心細いですわ。」 ルリはカードを握りしめ、声を震わせながらカーラを見上げた。
カーラは、そっとルリの細い肩を抱き寄せた。彼女の小さな体は、想像以上に震えていた。
『この子にこんな過酷な運命を背負わせるなんて……やっぱり許せない』
カーラの腕に、無意識に力がこもった。
「あのさ……、あたしが言える立場かわからないけどさ……」
ソファーの上に寝かされている加藤が、ぼそりと口を開いた。
「……あたし、結構ひどい人生歩んできてさ。なんて言うかな、その……後悔やら怒りやら、全部カーラにぶつけちまったあげく、海に飛び込んでまたカーラに助けられたんだけど。」
加藤は天井を見つめ、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「でも、いくら過去に囚われてたって、結局どうにもなんねぇんだよな。どう生きてきたかより、これからどう生きるかの方が大事なんじゃねぇの?」
ルリが涙を拭いながら、そっと顔を上げた。
「……これから、どう生きるか……」
「そうさ。誰だって過去は変えられねぇけどさ、未来は自分で決められる。お前が今、何もわからなくて不安なのはとてもわかるけど——それでも、これからどうしたいかってのは、お前自身が決めるしかねぇだろ?」
「……わたくし自身が……」
ルリはぎゅっとカードを握りしめた。その小さな手の中には、失われた記憶のかけらが詰まっているかのようだった。
加藤はふっと息を吐いて、苦笑いする。
「ま、偉そうに言ったけど、あたしもまだまだ迷ってる最中だしな。……でもさ、少なくとも、あたしはもう後悔で動くのはやめようって決めたんだよ」
ルリは加藤の言葉をかみしめるように、小さく頷いた。
その様子を見ていたカーラが、ふっと微笑む。
「そうね、加藤さんはもう少し自分の過去と向き合ってもいいかもしれないわ」
「……うるせぇな。今、いい話してたんだから水差すなよ」
加藤がむすっとした顔をする。
ルリが思わず小さく笑い、カーラも「冗談よ」と肩をすくめた。
ふいにドアのチャイムが鳴った。
ノーマンがドアを開けるとスーツを着たバトラーがサルヴァと呼ばれる銀のトレーを持って立っていた。
「こちらはアルケー様からの届け物でございます。」
サルヴァの上には2つのイヤーカフと手紙が乗っている。ノーマンが受け取るとバトラーはうやうやしく礼をして去っていった。
ノーマンはソファーに戻ると、イヤーカフをテーブルに置いた。
「アルケーからだってさ」手紙を開いてみた。
『観察対象に言語の不自由は不要だ。便利なものを使うといい。——アルケー』
手紙には一行だけ書いてあった。
「あんにゃろ!勿体つけた書き方しやがって!」加藤が寝ながら憤慨した。
カーラがイヤーカフを手に取って見る。
「これ、翻訳機みたい……ちょっと調べてみるわ……」イヤーカフを耳につけて目をつぶった。額のオーブが赤い光を放つ。
それと同時にイヤーカフが合成音声でインフォメーションメッセージを読み始めた。
『アダプテーション開始……母語認識完了。リアルタイム翻訳機能を起動します』
カーラはイヤーカフを外した。
「……うん、盗聴機能はないみたい。本当に盗聴しないのね……」
意外そうな顔をしていると、横の加藤が突然起き上がった。
「お! 動いた! やったぜ!」
「びっくりした!いきなり動かないで!」
「それ、翻訳機だって?言葉が通じなくなるのは困るからな、使わせてもらうぜ」
加藤はカーラから翻訳機を受け取った。
「へー、このイヤーカフいいセンスしてるじゃん。」なんの抵抗もなく自分の耳に付けた。
「どう?カッコいい?」
「カッコいいって……」ノーマンが呆れて言った。
「少しは警戒心を持った方が良いですわ」ルリにまで心配された。
「便利な道具なら使わない手はないだろう?」
言いながら、加藤は他の部屋に行こうとしていた。
「どこにいくんだ?」
「トイレだよ!トイレ!」加藤はトイレに入っていった。
ノーマンはもう一つのイヤーカフを手に取った。
「加藤が言うのも一理あるな、使わない手はない」そういうと、自分の耳にも付けてみた。
「試してみる?」カーラが自分のフィールドの翻訳機能をオフにした。
「何か試すものはないかな?」
カーラがテレビをつけると何かの映画をやっていた。映画では、男が車の中で女に情熱的な愛を囁いているシーンが映し出されている。
「お!何を言ってるかわかるよ!カーラ」ノーマンが振り向くと、カーラは横を向いていた。
「テストはオッケーね」そういうとテレビのスイッチをさっと切ってしまった。
そこに加藤がご機嫌で帰ってきた。
「ここのトイレすっげえ広いな!あれはアクパーラ号の風呂ぐらいの広さがある……」
話している途中で、カーラとノーマンの様子がおかしいのを感じた。
「……なにかあったの?」