昼下がりの商店街の中にあるレトロな喫茶店。
穏やかな日差しが、埃ひとつない大きな窓から店内に差し込む。天気良好だ。
「いらっしゃい、凛子ちゃん」
いつものマスターの温かく優しい声。カウンター奥の調理場からは、凛子の恋人であるシンが顔を覗かせた。
「お疲れ様です、凛子さん」
シンが笑顔を向ける。その笑顔に、凛子の疲れた心がほどけていく。
「シンもお疲れ様」
二人の間に、穏やかな空気が流れ自然と視線が絡み合う。
見つめ合うと、つい笑みがこぼれてしまう。それを見たマスターが、いつものように茶化す。
「本日も、お二人は仲睦まじいことで」
凛子は照れながらも席に座り直し、シンはまんざらでもない様子でマスターに同意を求める。
「そうでしょ、そうでしょ? もっと言ってくださいよマスター」
「はいはい、調理場に戻った戻った」
「はーい、じゃあ、また後で」
凛子にとって、少し恥ずかしいけれど、どこか温かいやり取り。ああいうたまに見せる仕草が自分よりも年下であることを思い出す。
「オムライス、美味しかったから、部下も連れてきましたよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
常連の男性客がマスターにそう話しかけると、凛子もなんだか誇らしい気持ちになる。自分の恋人の料理が、他の人の心を温かく満たしている。その事実に、胸がじんわりと熱くなる。
仕事の昼休憩に訪れたオフィスワーカーや、常連客で賑わう店内は、それぞれの時間を楽しむ人々で溢れていた。窓際の席では、老夫婦が楽しそうに会話を弾ませ、奥のテーブル席では、若い女性たちがスマートフォンを片手に笑い合っている。
凛子は待ちながら店内の様子を眺める。そんな余裕もようやくできた。
「はい、お待ちどうさま。サンドイッチプレートと、今日は特別にキッシュも焼いたんだ。良かったら食べてね」
シンが運んできたプレートには、彩り豊かなサンドイッチと、香ばしいキッシュが並んでいる。
キッシュは、ほうれん草とベーコンがふんだんに使われており、見るからに美味しそうだ。凛子が来る時間を見計らって用意してくれているのだ。
「ありがとう、いただきます」
「キッシュは試作品だから凛子さんだけに、特別ですよ。特別っ」
シンが、こそっと耳打ちする。凛子は、嬉しさを隠しきれず、頬を赤らめた。
さっそくキッシュを…と思ったが、先に大好きなサンドイッチに手を伸ばす。
ふわふわのパンに挟まれた新鮮な野菜やハム、卵が、口の中で優しいハーモニーを奏でる。何度食べても飽きることのない、凛子のお気に入りの一品だ。
ふと、窓の外に目をやると、いつの間にか空模様が怪しくなり、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。
「あら、雨……」
凛子の呟きに、マスターが
「洗濯物、干しっぱなしだった!」
という。階上にはマスターとシンの住居がある。
「僕が見てきます! 凛子さんはゆっくりしていってください」
そう言うと、シンは店の奥の階段へと駆け出した。階上には住居がある。
「おやおや、ゲリラ雷雨ですかねぇ」
マスターは、店の前に出していた看板を慌てて店内に仕舞いに行く。
凛子は、窓の外を眺めながら、残りのサンドイッチをゆっくりと味わった。
しかし、こんな癒しの時間に雨音を聞いていると、過去の出来事が胸によみがえってくる。一年前の婚約破棄、そしてその後の仕事の迷走。
それでも、今の恋人であるシンの存在が、今の自分を支えてくれている。彼の優しさ、温かさ、そして何よりも、美味しい料理が、凛子の心を癒し、前向きな気持ちにさせてくれる。
「ありがとう、シン」
心の中でそう呟き、凛子はようやくキッシュに手を伸ばした。
「……ん。このキッシュ、ほうれん草の甘みが凝縮されてて、すごく美味しい。ベーコンの塩気とチーズのコクも絶妙なバランスだわ。試作品とは思えない完成度ね」
雨は次第に強くなり、窓ガラスを叩きつけるように降り続いている。しかし、店内の温かい雰囲気と、シンの料理が疲れた凛子の心を穏やかに満たしていく。
「まだ職場に戻りたくないなぁ……」
と、つい呟いてしまう。
こんな風に心から思えるひとときは、一年前の自分にはなかった。
凛子は、穏やかな午後のひとときを、心ゆくまで味わっていた。