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第27話 昼も喫茶モリス

翌日のことだった。朝の朝礼で、総務から唐突に告げられた。


「明日から、昼休憩中のフードコートの利用は、当面禁止とします」


 という一言に、社員たちはざわめき立った。凛子もその一人だった。


 理由は明かされなかったが、「一部のパート社員によるおしゃべりが度を越していた」と、誰かが口にした。公式な説明ではないものの、妙に具体的で、妙にリアルだった。


 もしかして、自分もその「一部」に入っていたのではないかと、凛子は一瞬身構えた。けれど、総務の目線はどこかを見つめているだけで、彼女を特定しているようには見えなかった。


 それよりも、凛子の心を満たしたのは、意外にも……安堵だった。


(あ……これで、お昼に喫茶モリスへ行ける……)


 つい先日思いついた、昼のひとときをモリスで過ごす計画。それが、偶然とはいえ現実になる、そう思っただけで嬉しくなった。


「どうしましょうねえ、バックヤードでお弁当だなんて。工事してるところもあるしー、困ったわー」


「でも、バックヤードならおしゃべりしてても文句言われないんでしょ? なら私はそれでもいいわよー工事の音がうるさいのはなんとでもなるわ」


「てか、中のスーパーで買えば、フードコートより安く済むかもよ? まぁ私はずっとそうしていますけどぉー」


「うちは朝からお弁当作ってるし、変わらないわねー」


 周囲では、さっそく次の作戦を練るパートのおばさんたちが盛り上がっていた。ポジティブなのか、図太いのか……その適応力には感心すべきなのだろうけれど、凛子はどうしてもその輪に入りたいとは思えなかった。


 なんとなく笑って聞いてはいたが、内心ではモールの外へ一歩出る選択肢を確保できたことに密かにガッツポーズをしていた。


 隣に立っていた藤本を見ると、彼女もおばさんたちの会話には加わっておらず、静かに立っていた。


「藤本さんは、どうします?」


 ふいに声をかけると、彼女は少しだけこちらを見て、すぐにまた前を向いた。


「その時の気分で考えるかな。……なんだか原因じゃない人まで巻き込まれてる感じあるしね。バックヤードも混みそうだし、うるさいのには変わりはないと思うから」


 さらりとした口調だったが、その言葉には一理あった。凛子も小さく頷く。


 けれど、それ以上の会話は続かなかった。


 藤本は凛子に「凛子さんは?」とは聞かなかったし、何となくそのまま離れていってしまった。


 彼女とは他のおばさんたちよりも良い人だとはおもっており、年齢も近く、どこか雰囲気も似ていてできれば、もう少し距離を縮めたいと、密かに思っていたのだが。


(やっぱり、うまくいかないな……)


 もともと友達は少なく、今では「いない」に近い。それでも、藤本のような存在が味方になってくれたら、どれほど心強いか……そう思わずにはいられなかった。


 そんな凛子に、藤本以外からタイミングよく声がかかる。


「ねえ、凛子さん。明日からのお昼どうする? 一緒にバックヤードで食べない?」


 ニコニコと笑うおばさんの笑顔に、凛子は一瞬言葉に詰まった。


「え、ええ……そうですね……」


 苦笑いしながら曖昧に返すが、内心では「どう断ればよかったのか」とぐるぐる考えていた。


「でも急よねぇ、こんなの。〇〇さんたちがあんなに大声で喋ってたからじゃない?」


「ほんとほんと。あれじゃクレームも来るって」


「聞こえるとこで話してるのが悪いのよね~」


 誰かを名指しするような噂話が飛び交う。まるで正義を語るかのような口調で。


 凛子は、聞こえてくるその言葉の波に少しずつ息苦しさを覚えていく。それが嫌だったのだ。背中に小さな汗が滲み始めた。


(……もういい。ここから抜け出さなきゃ)


 その場に立ち尽くしていた凛子は、突如手を挙げた。


「すいませんっ!」


 少し大きめの声に、パート社員たちの会話が一瞬止まり、総務の一人が近寄ってきた。


「はい? どうしました?」


「あのっ……今日のお昼からでも、モールの外で食事してもいいんでしょうか?」


 恥ずかしさと緊張で、語尾がかすれた。


「ええ、もちろん大丈夫ですよ。周囲に迷惑にならない範囲であれば。ご自身の休憩時間内であれば問題ありません」


 それを聞いた瞬間、凛子の中でやったー! と嬉しさが込み上げた。



 そして昼。


 そそくさとモールの出口に向かう。その日は風が少し強くて、空がまぶしいほど青かった。


(もう明日からはスニーカーにしなきゃ……)


 今履いているパンプスでは、小走りですら限界がある。別に靴は決まりはない。


「きつい……!」


 喫茶モリスに着いたときには、息が切れていた。時間はすでに昼休みの10分が経過していたが、そんなことよりも、今はここで過ごす時間が何より大切だった。


 ちょうどそのとき、スマホに通知が届いた。母からのメッセージだった。


『てつやんさんが、あと一ヶ月だけど大丈夫かって連絡あったよ』


 住む場所のこと――そうだった。何も決まっていない。退去の期限が迫っているのに……やはりやはり哲也に頼らなくてはいけないだろうか。と思っていたが今はそれよりも、残りの時間で喫茶モリスで過ごしたいという気持ちが強かった。

 久しぶりに届いたメールだったが、すぐに返すのはやめた。


(お母さん、ごめん……)


 申し訳なさで胸がチクリと痛んだが、今はそれ以上考えるのをやめた。喫茶店の扉に手をかけ、ぐっと押し開ける。


「いらっしゃい」


 マスターの声が、変わらぬ調子で響いた。店内は昼時らしく、平日とは思えないほど賑わっている。


「いらっしゃい、昼にも来てくれたんですね……うれしいです……あ、はーい」


 他の客に呼ばれたマスターは、凛子に声をかけつつ、すぐに奥へと戻っていった。


「よかったら、こちらにどうぞ」


 案内された席に座ると、心がふわりとほどけた気がした。


 スーツ姿のサラリーマン、大学生らしき若者たち……誰一人、職場の人間はいない。パートのおばさんの声もしない。


 久しぶりに、自分が「自分のまま」でいられる場所。


 メニューを手に取った凛子は、時間との相談をしながらメニューを吟味する。グラタンは時間がかかる。熱々で口の中を火傷しそうになるのも困る。


「お待たせしました。仕事の休憩中ですよね……サンドウィッチボックスにしましょうか?」


 声に顔を上げると、すぐそばの席の中年男性も、同じボックスを食べていた。


「あ、はい……お願いします」


「少々お待ちくださいね」


 マスターが厨房に消えたあと、ふと隣の窓に映る自分の姿が目に入った。


 疲れた顔。くしゃっとなった髪。――なんだか、こんなに情けない顔をしていたのか、と笑ってしまいそうになる。


 手櫛で髪を整えるものの、顔はどうしようもない。


「……お母さんに連絡しなきゃ」


 そう思いながら、再び母からのメッセージに目をやる。


(でも、もう少しだけ)


 自分の居場所を見つけるまで――あと少しだけ、この時間に浸らせてほしい。


「お待たせしました……」


 マスターの声ではない、どこか聞き覚えのある声が耳に届いた。


 はっとして顔を上げると、そこに立っていたのは――


「葛木……シン!」







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