翌日のことだった。朝の朝礼で、総務から唐突に告げられた。
「明日から、昼休憩中のフードコートの利用は、当面禁止とします」
という一言に、社員たちはざわめき立った。凛子もその一人だった。
理由は明かされなかったが、「一部のパート社員によるおしゃべりが度を越していた」と、誰かが口にした。公式な説明ではないものの、妙に具体的で、妙にリアルだった。
もしかして、自分もその「一部」に入っていたのではないかと、凛子は一瞬身構えた。けれど、総務の目線はどこかを見つめているだけで、彼女を特定しているようには見えなかった。
それよりも、凛子の心を満たしたのは、意外にも……安堵だった。
(あ……これで、お昼に喫茶モリスへ行ける……)
つい先日思いついた、昼のひとときをモリスで過ごす計画。それが、偶然とはいえ現実になる、そう思っただけで嬉しくなった。
「どうしましょうねえ、バックヤードでお弁当だなんて。工事してるところもあるしー、困ったわー」
「でも、バックヤードならおしゃべりしてても文句言われないんでしょ? なら私はそれでもいいわよー工事の音がうるさいのはなんとでもなるわ」
「てか、中のスーパーで買えば、フードコートより安く済むかもよ? まぁ私はずっとそうしていますけどぉー」
「うちは朝からお弁当作ってるし、変わらないわねー」
周囲では、さっそく次の作戦を練るパートのおばさんたちが盛り上がっていた。ポジティブなのか、図太いのか……その適応力には感心すべきなのだろうけれど、凛子はどうしてもその輪に入りたいとは思えなかった。
なんとなく笑って聞いてはいたが、内心ではモールの外へ一歩出る選択肢を確保できたことに密かにガッツポーズをしていた。
隣に立っていた藤本を見ると、彼女もおばさんたちの会話には加わっておらず、静かに立っていた。
「藤本さんは、どうします?」
ふいに声をかけると、彼女は少しだけこちらを見て、すぐにまた前を向いた。
「その時の気分で考えるかな。……なんだか原因じゃない人まで巻き込まれてる感じあるしね。バックヤードも混みそうだし、うるさいのには変わりはないと思うから」
さらりとした口調だったが、その言葉には一理あった。凛子も小さく頷く。
けれど、それ以上の会話は続かなかった。
藤本は凛子に「凛子さんは?」とは聞かなかったし、何となくそのまま離れていってしまった。
彼女とは他のおばさんたちよりも良い人だとはおもっており、年齢も近く、どこか雰囲気も似ていてできれば、もう少し距離を縮めたいと、密かに思っていたのだが。
(やっぱり、うまくいかないな……)
もともと友達は少なく、今では「いない」に近い。それでも、藤本のような存在が味方になってくれたら、どれほど心強いか……そう思わずにはいられなかった。
そんな凛子に、藤本以外からタイミングよく声がかかる。
「ねえ、凛子さん。明日からのお昼どうする? 一緒にバックヤードで食べない?」
ニコニコと笑うおばさんの笑顔に、凛子は一瞬言葉に詰まった。
「え、ええ……そうですね……」
苦笑いしながら曖昧に返すが、内心では「どう断ればよかったのか」とぐるぐる考えていた。
「でも急よねぇ、こんなの。〇〇さんたちがあんなに大声で喋ってたからじゃない?」
「ほんとほんと。あれじゃクレームも来るって」
「聞こえるとこで話してるのが悪いのよね~」
誰かを名指しするような噂話が飛び交う。まるで正義を語るかのような口調で。
凛子は、聞こえてくるその言葉の波に少しずつ息苦しさを覚えていく。それが嫌だったのだ。背中に小さな汗が滲み始めた。
(……もういい。ここから抜け出さなきゃ)
その場に立ち尽くしていた凛子は、突如手を挙げた。
「すいませんっ!」
少し大きめの声に、パート社員たちの会話が一瞬止まり、総務の一人が近寄ってきた。
「はい? どうしました?」
「あのっ……今日のお昼からでも、モールの外で食事してもいいんでしょうか?」
恥ずかしさと緊張で、語尾がかすれた。
「ええ、もちろん大丈夫ですよ。周囲に迷惑にならない範囲であれば。ご自身の休憩時間内であれば問題ありません」
それを聞いた瞬間、凛子の中でやったー! と嬉しさが込み上げた。
そして昼。
そそくさとモールの出口に向かう。その日は風が少し強くて、空がまぶしいほど青かった。
(もう明日からはスニーカーにしなきゃ……)
今履いているパンプスでは、小走りですら限界がある。別に靴は決まりはない。
「きつい……!」
喫茶モリスに着いたときには、息が切れていた。時間はすでに昼休みの10分が経過していたが、そんなことよりも、今はここで過ごす時間が何より大切だった。
ちょうどそのとき、スマホに通知が届いた。母からのメッセージだった。
『てつやんさんが、あと一ヶ月だけど大丈夫かって連絡あったよ』
住む場所のこと――そうだった。何も決まっていない。退去の期限が迫っているのに……やはりやはり哲也に頼らなくてはいけないだろうか。と思っていたが今はそれよりも、残りの時間で喫茶モリスで過ごしたいという気持ちが強かった。
久しぶりに届いたメールだったが、すぐに返すのはやめた。
(お母さん、ごめん……)
申し訳なさで胸がチクリと痛んだが、今はそれ以上考えるのをやめた。喫茶店の扉に手をかけ、ぐっと押し開ける。
「いらっしゃい」
マスターの声が、変わらぬ調子で響いた。店内は昼時らしく、平日とは思えないほど賑わっている。
「いらっしゃい、昼にも来てくれたんですね……うれしいです……あ、はーい」
他の客に呼ばれたマスターは、凛子に声をかけつつ、すぐに奥へと戻っていった。
「よかったら、こちらにどうぞ」
案内された席に座ると、心がふわりとほどけた気がした。
スーツ姿のサラリーマン、大学生らしき若者たち……誰一人、職場の人間はいない。パートのおばさんの声もしない。
久しぶりに、自分が「自分のまま」でいられる場所。
メニューを手に取った凛子は、時間との相談をしながらメニューを吟味する。グラタンは時間がかかる。熱々で口の中を火傷しそうになるのも困る。
「お待たせしました。仕事の休憩中ですよね……サンドウィッチボックスにしましょうか?」
声に顔を上げると、すぐそばの席の中年男性も、同じボックスを食べていた。
「あ、はい……お願いします」
「少々お待ちくださいね」
マスターが厨房に消えたあと、ふと隣の窓に映る自分の姿が目に入った。
疲れた顔。くしゃっとなった髪。――なんだか、こんなに情けない顔をしていたのか、と笑ってしまいそうになる。
手櫛で髪を整えるものの、顔はどうしようもない。
「……お母さんに連絡しなきゃ」
そう思いながら、再び母からのメッセージに目をやる。
(でも、もう少しだけ)
自分の居場所を見つけるまで――あと少しだけ、この時間に浸らせてほしい。
「お待たせしました……」
マスターの声ではない、どこか聞き覚えのある声が耳に届いた。
はっとして顔を上げると、そこに立っていたのは――
「葛木……シン!」