凛子は、以前にも座ったカウンターの見える席を選んだ。
店の中で、そこが一番落ち着ける気がしたからだ。席につくと、マスターがメニューを手渡してくれる。
「今回はスパゲッティ以外も注文できますから」
と言われてメニューを開くと、クリームソースのグラタンやミートスパゲティ、ボリューム満点のカツサンドなど、夕方らしい料理が並んでいる。
ふと視線を巡らせると、ひとりの男性客が、チーズがとろりと溶けた熱々のグラタンをフォークで掬っているのが目に入った。
その湯気と香ばしい匂いが、こちらまで伝わってくるようで、凛子の食欲をそそる。
前に食べて美味しかったたらこスパゲティも気になる。けれど――グラタンも捨てがたい。
「……あの」
マスターに凛子は声をかけた。
「はい」
マスターは優しく受けごたえをする。
「おすすめって、どれですか?」
「そうですね。グラタンは美味しいですよ。シェフの得意料理ですから」
「あ、じゃあグラタンでお願いします」
「かしこまりました」
マスターがすっとカウンターの奥へと歩いていく。
ふと目を向けると、カウンターにはいくつか写真立てが並んでいた。以前は気づかなかった。
少し色褪せた写真の中には、笑顔の誰かが写っている。家族だろうか、それとも昔の仲間か。アイドル姿の女の子の写真もある。マスターの趣味とは違うだろうがそれぞれに個々の店の歴史があるのだろう。凛子はそう思った。
その奥にあるキッチンから、かすかに漂ってくる香り。
前には気づかなかった喫茶店の空気に、凛子はあらためて耳を澄ませる。
マスターが「シェフの得意料理」と言ったそのグラタン。
他の客たちが「熱い」と言いながらも夢中で食べている姿を見ると、否が応でも期待が膨らむ。
「あ、それと……ホットコーヒーもお願いします。待ってる間に」
「かしこまりました。少しお時間をいただきます。しばらくお待ちください」
「はい、お願いします」
マスターとの何気ないやり取りに、凛子の心は少しだけ弾んでいた。
この店の穏やかな空気、丁寧な言葉遣い、どこか懐かしいような香り――すべてが、ささくれだった心をやわらかく包み込んでくれる。
もし、もっと安定した生活ができたなら。
モールで正社員になって、今より余裕のある暮らしができるなら、ここに定期的に通えるだろうか――。
でも、今の状態では、こんな贅沢も長くは続かないかもしれない。
そんな思いがよぎりながらも、今はただ、このひとときに身を委ねたかった。
「……しばらくは無理かな」
そんなことをぼんやり考えていると、
「ホット、お待たせしました」
マスターが静かにカップを運んできた。
彼が差し出したカップは、深い緑の釉薬が美しい陶器だった。前に来たときとは違う。
ふと周囲に目をやると、他の客のカップも色も形もさまざまだ。
統一されていないのに、どこか調和していて、ひとつひとつに物語がありそうな雰囲気を醸している。
「カップ……前とは違うんですね」
思わず声が出た凛子に、マスターがすぐに答える。
「はい。当店では、いろいろなカップをご用意してまして。妻が選んだものなんです。かなり前のものなんですが、丈夫で私も気に入っているんですよ」
「ほぉ……」
と、凛子はカップをそっと見つめ直す。
奥さんの選んだものなのか――。だが、マスターの隣にその妻らしき人の姿はなく、この店では彼とシェフだけが働いているように見える。
「奥様、素敵なセンスですね……一緒にやってらっしゃるのですか?」
そう尋ねると、マスターはふっと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。妻がこういうの好きでしてね、そのカップで美味しいコーヒー飲めたらなぁと言うもんだから一緒にコーヒーの勉強して……妻は趣味のケーキ作って知人に振る舞って……気づいたらこの店やってたんですよ」
他の客に呼ばれたらしく、マスターは話が途中だったが
「すいません、呼ばれたもので。グラタン出来上がるまでお待ちくださいね」
と会釈してその場を離れていった。
軽く会釈をして去っていくマスターの背中を見送りながら、凛子はもう一度、緑のカップをそっと手に取った。指先に伝わる陶器のぬくもりと、深く艶のある色合いに、思わず見とれてしまう。
スマホを取り出し、そのカップの写真を撮った。
ただ撮りたくなったから、それだけ。
そして、ひとくち。
コーヒーの香りと味わいが、じんわりと凛子の胸の奥まで染み込んでくる。
窓の外では、中庭がライトアップされている。
静かで穏やかな時間が流れていた。
――たまには、こういう場所に来るのも、悪くない。
「お待たせしました」
と出てきたグラタン。そういえば自分は作ったことあったっけと。親からは冷凍食品のグラタン、手作りはレストランとかでのグラタンくらいだろうか。
自分はできるのだろうかと不安になって作ったことは無かった。作ったとしても失敗して雅司に叱られる……。
「また思い出しちゃった……ダメじゃん」
見た目も美しく凛子はこれも写真で残した。そしてスプーンで一口、口の中にグラタンを入れる。
熱さもあるが次第に口の中に味が広がる。シャケにほうれん草、しめじ……チーズも普通のチーズとは違う。
「……美味しい」
こんなに美味しいグラタンは、凛子にとって初めてだった。口に運ぶたび、じんわりと胸の奥があたたかくなる。気づけば、目からぽろりと涙がこぼれていた。
マスターのいるカウンターとは反対側の席でよかった。凛子は慌てて紙ナプキンでそっと涙を拭き取る。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
気づけば、皿は空になっていた。ほかの客たちも満足そうな表情で店を後にしていく。時計を見ると、あまり遅くならないうちに帰ったほうがよさそうだと思い、凛子も席を立った。
レジへ向かうと、マスターがいつものように穏やかに微笑んでいた。その後ろの壁に飾られた写真がふと目に入る。
今まで意識して見たことはなかったが、よく見ると、そこには黒髪だった頃の若いマスターが写っていた。両隣には、中年の女性と、若い男性が微笑みながら立っている。きっと、奥さんと息子さんなのだろう。
「また来てくださいね。モーニング、ランチ、ディナー……お好きなときに、ぜひ」
マスターの優しい声に、凛子は小さくうなずいて、店を後にした。
夜の風に頬を撫でられながら、凛子はつぶやく。
「……また来よう」
喫茶店は最後のサラリーマンが去った後、片付けが始まる。
マスターは外の看板を中に入れ掃除を始める。
「マスター、お疲れ様です」
とカウンター奥の厨房から誰かが出てきてマスターに声をかけた。
「おう、おつかれさん。シン」
出てきたのはシン……葛城シンである。彼はコンカフェだけでなくこの喫茶モリスでも厨房で働いていたのだ。
「しばらく風邪で休んですぐ厨房入って大丈夫だったかい」
「大丈夫ですよー。シェフの僕にお任せあれ」
「聞いてましたかー」
と二人は笑い合う。
「シェフだなんて……ただの調理のバイトなのになぁ、恥ずかしいっすよ」
シンはそう言いながらカウンターを掃除する。
「なぁにもう何年も働いてるベテラン君だからね。調理長も君の調理の腕はお墨付きだよ」
「……ありがとうございます。もうどれが本業かわからないなぁ」
シンの心の中ではお笑いがメインでやりたいのだが……仕事がなかなか入らずモリスかコンカフェで仕事してばかりだ。
「そいや今日きてたOLさん……美味しすぎて泣いてたなぁ」
「えっ……?」
マスターは凛子のことを言っているのだがシンは厨房にいて知らない。どうやら涙を見ていたようだ。
「あれは美味しい……だけでなく何か訳ありだぞ」
「そこまで観察しないでくださいって……」
「はっはっはっ!」
とマスターは大笑い。
シンはふと泣いていた女性の話を聞いて、先日の雨の中で泣いてきた女性を思い出す。
「……あの人、元気かなぁ」