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第25話 地獄に足を踏み入れる

 また昼休み。


 凛子はいつものように、パート仲間たちとモールの休憩スペースで昼ごはんを食べていた。モール内のスーパーで社割が効くため、昼食は手軽に済ませられるのがありがたい。


 いつの間にか、自然とできた“いつものメンバー”。同じ事務の人もいれば、他部署の人もいて、かれこれ短期間で結託し、こうして一緒に時間を過ごしている。


「今度さぁ、イベントにピンピンズが来るんだって! 日にちはまだ未定だけどーお笑いショーやるらしいよ。広報部の人が言ってたわ」


 聞き慣れた名前に、凛子の手が一瞬止まる。

 以前、リニューアルセールに向けて目を通していた企画書――そこにピンピンズの写真が載っていたのを思い出す。まだ“仮”とあったが、どうやら正式に決まったらしい。


 それと同時に「その他ゲスト芸人あり」とあった名前に、誰が来るんだろうと胸がざわつく。シンたちも出るのだろうか。次の事務所ライブの彼らの出演はまだ未定とあったが風邪が長引いているのだろうか……それも心配であった。


「チーフがめっちゃ忙しくなるから、覚悟しろってさー。しかもセールもやっててライブでしょ? その後には市民フェスもやるらしいし。もうひっちゃかめっちゃかよねー」


「ほんと、無料ライブなんて太っ腹。賞レースの覇者がこんなところ来るなんて、びっくりだよ」


「うちの子たちも大好きなの。優先エリア整理券、社員ならいける?って聞かれてさ~。無理無理! 私はパートなのよ~! って言っといたけどね!」


 ゲラゲラ笑うおばさんたちの横で、凛子は愛想笑いを浮かべながらラーメンを啜っていた。

 それよりも今は、住む場所を探すことのほうが重要だ。スマホで物件情報を検索しながら、やはり哲也に頼るしかないのか……と頭を悩ませていた。


 だけど今の自分の状態で、あの家に戻るのはやはり難しい。


 ふと、深いため息が漏れる。すると目の前に座る藤本という同じ世代であろう女性も、まったく同じタイミングでため息をついていた。


 彼女は無言でカツ丼を黙々と食べている。あまり話をしたことがなく、得体は知らない。


 そんな空気の中、不意にパート仲間の一人が声をかけてきた。


「凛子ちゃん、ピンピンズ好き?」


 嫌いではないが……と頷く。


「……知ってます。すごく人気ですよね」


「凛子ちゃんも藤本さんも見れるんじゃない? 休み合わせればー」


 となぜか一緒にこのメンバーで見る動きになっている。


「はい……まぁ時間が合えば……」


 休みの日まで無理に付き合いたく無い、こんなおばさん連中とは、なんて言えない凛子だが藤本は頷いて手を挙げた。


「凛子さん、きっと彼氏さんとの用事があるのよー無理しなくてもいいからね。私も保留しますー」


 となぜか凛子に彼氏がいる設定になっている。婚約破棄したなんぞ言っていないし、年齢だけで判断されているのかもしれないがやはりこのパートのおばさんたちとはこれ以上の関係は嫌だ、とラーメンの汁を飲み干さず食べ終えた。

 藤本はそつない顔で彼女も食べ終わった。


 ある程度の時間になるとみんなで退席しバックヤードに戻る。

 みんなその後歯を磨き、化粧直しして持ち場に戻るのだ。


 ただ昼の時間が同じだけでつるむだけで売り場も部署も年齢も経歴も違うもの同士一緒に行動するのが凛子にとっては不思議でならなかったが前の会社も派閥があってギスギスしていたのは覚えている。

 ここはギスギスせず馴れ合いなように感じる。


 すると藤本が凛子を手招きする。そしてこう話しかけてきた。


「そういえばあなた、リニューアルのための募集要員で来たのよね?」


「は、はい……リニューアル……の……」


藤本は困った顔をしていた。


「残念だけど……今の事務に追いやられたってことは正社員登用はなかなかないのよ」


 その言葉に凛子は驚いた。追いやられたという言い方にも。


「えっ……」


 藤本は少しため息をついた。


「知らなかった? そうよね、知らないわよね……そうやって知らずして入ってきた若い子たちが地獄を見て辞めていくのよ。詐欺よね、ほんと。あなた、私より若いでしょ。私35」


「私……32」


 藤本は謎に包まれており年齢が自分より年上に驚いた。少し若く見えたからである。


「……何も知らないなんて」


「……えっ」


「また“えっ”て言った。驚いてばかりね、凛子さん」


 藤本は少し笑って、すぐに真顔に戻った。


「無知ね。まぁ事務も悪くないし。結婚して子供産むならね。あと無駄に発言するよりかは控えめもいいけど……やる気見せないと一生底辺パート社員よ……まぁそれはそれでいいのならいいけど。この体制は本部が変わらないと……大問題ね、これは」


 そう言い残し、藤本さんは奥の事務所――ネットショッピングの管理部署へと戻っていった。


 凛子はしばらく動けなかった。


「……一生底辺パート……」


 その日の午後。凛子はずっと、上の空だった。





 仕事を終え、凛子は再び別の不動産屋へと向かったが、そこでも同じような冷たい対応が返ってきた。


 今回は女性のスタッフが窓口だったが、やはり遠回しで、冷ややかな視線を感じる。凛子は思わず考え込んだ。


 藤本が言っていたように、モールの事務員は正社員登用が少ないことが不動産屋にも知られているのだろうか…。そんな思いが頭をよぎる。


「だめだ、ネガティブなときに考えると、さらにネガティブになる……」


 ここ最近のとんとん拍子に気持ちが昂っていただけあって凛子の気持ちは下がっていく。


「あんなにうまくいってたのにも訳があったのか……」


 深呼吸して気持ちを切り替えようとした、そのときだった。



 ふと顔を上げると、店の外に出てきた喫茶モリスのマスターの姿が目に入る。やはり背が高い。下手をすれば一九〇センチ、いや、二メートル近いのではないかというほどの大柄で、遠目にもわかる圧倒的な存在感。


 思わずその場を離れようとしたが、足が止まった。

 行きたい。心の奥から、素直な気持ちが浮かび上がってきて、無意識のうちにその場に立ち尽くしていた。


「こんにちは」


 マスターが穏やかな声で話しかけてくる。

 その一言にハッとして、凛子は少し緊張気味に声を絞り出した。


「こ、こんにちは!」


 思ったより声が上ずり、自分でも驚く。恥ずかしさが頬にじんわりと広がる。


「お仕事帰りですか?」


 ジャケットは着ているが下の事務員の制服を着たままの凛子は、黙ってうなずいた。

 そして、ふと我に返ったように店を見上げる。


「あ、今……お店、あいてますか?」


 気づけば自然と足が店の方へ向かっていた。

 マスターは柔らかく微笑みながら、


「ええ、どうぞ」


 と手招きする。


 その笑顔に導かれるように、凛子は店に入った。


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