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第24話 すみかはどこ

 裏口通路から外に出ると、まだ太陽が残っていて、空が明るい。この時間に仕事を終えるのは、自分にとって新鮮な体験だ。

 だが、冬になれば日が落ちるのが早くなるだろうから、少しずつ暗くなっていくのだろう。

 前のように完全な真っ暗な時間には帰ることはないと思うと、それもまた新鮮に感じる。


 配送用のトラックが行き交い、早めに上がるスタッフと、これから夜遅くまで働くスタッフが忙しく入れ替わる中、凛子は少し遠回りしてモール内のスーパーに立ち寄ることにした。


 食材を手にレジに並び、社員証を出すと、少しだけ割引が効く。いつものレジのバイトの子が


「お疲れ様っす」


 と軽く声をかけてくれた。

 凛子も


「お疲れ様」


 と小声で返した。前の職場では自分より若い子と接することがほとんどなかった凛子は、少しドキッとしたが、彼らにとって自分は30代を過ぎたおばさんの部類なのだろう。

 今は店員と客という立場だからこそ、優しく声をかけてくれるのだろう。


「そういえば、あの時の雨の中の彼……は?」


 とふと思い出した。このレジの子と同じくらいの年齢だろう。


 だが、そんなことを考えても物憂げになるだけだからと、凛子はさっさと荷物をまとめた。少し前は喫茶モリスの初老のマスターにときめいてた。自分の恋愛スイッチの脆さに呆れてしまう。


 そんなこんなでモールを後にしながら、


「こんな穏やかな帰り道も悪くないな」


 と。


 そして、またあの喫茶店に行きたくなる。


「そういえば、昼は外で食べられないのかしら……」


 とふと思った疑問。前の職場でも昼休憩のときには食堂だったり外で食べたりしていたが、この職場ではみんながそうしているからと、昼ごはんはパートのおばさんたちとフードコートで食べている。

 でも、あの喫茶店で一人でゆっくり食べたいなとも思う。


「いやいや、まだ早い早い……」


 と、凛子は喫茶モリスを通り過ぎて行った。やはりいい匂いがする。今の時間帯はディナーなのだろうか。あのマスター一人で経営するのも大変だろう、と気にかけてしまう。



 それはさておき。職場近くの不動産屋が並ぶ通り。凛子はそこを歩き、そろそろ本気で新しい住処を決めなければと決意した。今のいい調子に乗っかって。


「仕事も案外すんなり決まったし、この調子で住む場所も決めてやる!」


 と意気込んで、不動産屋のドアを押し、足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ」


「よろしくお願いします」


 半年前、雅司と物件探しをした時は不動産屋に何度も通った。あのときは雅司の隣で話を聞くだけだったから心強く、緊張も感じなかったが、今回は一人きりである。

 実家暮らしが長い凛子にとって、これが初めての本格的な一人暮らし。期待と不安が入り混じる中、シートに必要事項を記入し、店員に差し出した。


 店員はシートをじっくり見つめた後、目を細めて凛子に視線を向けた。

 彼女の勤務先のモール名やまだ決まっていないが事務員という職業欄、さらに正社員と少し背伸びして書いたところも見逃さないようにチェックしている。


 そして「30代の女、一人暮らし」とでも言いたげな目つきで、彼女をじろりと見回してくる。その視線に内心ムッとしながらも、凛子は質問を投げかけた。


「この辺りってやっぱり家賃、少し高めですよね? 駅もモールも近いから……」


 それが彼女の最大の懸念だった。今のアパートからでも通勤はできなくないが、できればもっと近い方が便利だし、あわよくば喫茶モリスに朝食を食べに寄れる距離ならなお嬉しい。


「ですね、高いです」


 あっさりと突き放すように言われ、凛子は肩を落とした。続けて店員は何気なく尋ねる。


「今は……なるほど、ああ……あそこのエリアですね」


 店員は凛子の住まいをパソコンで確認している。


「そこからでも通えるでしょ、モールだったら」


 その物言いに凛子は内心苛立った。何かにつけて不動産屋の店員の態度が、ぶしつけで冷淡だ。


 思えば、雅司と来た時も別の不動産屋であったが、店員の対応は全く違った。

 雅司の企業名を見た瞬間、店員は彼に露骨なまでのへつらいを見せ、凛子の話はどこかそっちのけだったのを覚えている。


「〇〇の方が安い物件が多いですよ。正直、ここじゃ……お客さん?」


 急に呼びかけられて我に返る。凛子は静かに立ち上がり、不動産屋を出ることにした。店を出てからも、あの冷たく突き放すような対応が胸に引っかかって消えない。


 自分を軽んじられたような、侮辱されたような感覚が心の奥でずきりと痛む。

 正社員という肩書きに少しでも見合うようにと勇気を出して書いたのに、それがまるで見透かされ、ただの見栄に過ぎないと笑われたような気さえして、悔しさがこみ上げてきた。


「なんでこんな思いをしなきゃいけないの」


 吐き出すように小さな声でつぶやきながら、凛子はうつむいて歩き出した。


 実は今日も東海ベイシーズのライブのチケットを取ったのだ。今日こそお礼を……と思っていたのだ。

だが……事務所からのメールが届いた。


『本日予定していましたズットチョウシニノッテルズの出演は都合によりキャンセルになりました』


 と。えええーっと凛子はつい声が出てしまった。だが払い戻しするのも……と、なんで今日は……と嘆いてしまった凛子。


 先ほどの不動産屋でのやり取りも頭を離れず、無性に悔しさが込み上げてくる。

 けれど、その気持ちを少し落ち着かせようと目を閉じていると、ふと雅司と一緒に物件を探していた時のことが思い出された。


 当時、どこも家賃が高く、雅司は何度も


「ここはちょっと……」


 と首を横に振った。優柔不断で、決断までに時間がかかった彼に、凛子はしびれを切らしていた。

 しかも、その間に義父母が


「いっそ同居でもどうだ?」


 なんて提案を出してきたことがあった、それを凛子は思い出してこの時にはもう同居の意識があったかと思うとため息が出た。


 結局、てつやんが経営する物件に空きが出たと聞き、候補の一つとして持ちかけた。家賃も手頃で、雅司の収入でも十分支払える範囲だったから、ようやく彼も渋々ながら合意。

 けれど、雅司は最後まで間取りを気に入らなかった。


「書斎がない」


 と愚痴をこぼしていたのを、凛子は今でもよく覚えている。

 自分はキッチンやリビングが広くて好きだったからこそ、あの家を選んで満足していたのに、雅司にとってはそうでもなかったらしい。



 凛子はつぶやいた。


「あの時も時間かかったなあ……って、ああああああっ!!!」


 でも、いつまでも過去に引きずられても仕方ないと、彼女は気持ちを切り替えようと頭を横に振る。そして、心の中で決意を固めるように言った。


「次、次! 今度こそ、自分が気に入る場所を見つけるんだから」


 限られた時間の中で、凛子はあちこち物件を見て回っていた。だが、その合間にまたライブに足を運ぶ自分を「呑気すぎる」と思わなくもない。本当なら父も誘ってみたいところだが、今の状況ではそれも憚られる。


「……ピンピンズとベーパイと、あと九段下くらいだなぁ……わかってきたのは」


 すでにできている列の最後尾に並びながら、マスクをして地味な服装に身を包んだ凛子は、周囲の視線を少し気にしていた。そんなとき――


「あらあら凛子さ~ん!! 今日も来てくれたのぉ~?」


 そのテンションの高さと声に、凛子は肩をすくめた。……バレた。そう思ったが、もはや手遅れである。


「さてはさては、ハマってくれたかしら~?」


 笑顔満開で近づいてきた百田は、他のファンたちにも手を振りながら、列の整理やグッズの販売、当日券のチェックと、目まぐるしく動き続けている。


 凛子は軽く会釈して、苦笑いを返す。


「お仕事帰りかしら? 仕事の疲れ、笑いで吹き飛ばして、ね!」


 その明るさと切り替えの早さに、凛子はつい呟く。


「……百田さん、すごいなぁ」


 すると前に並んでいた若いファンの女の子が振り向いた。


「おねえさん、もしかして……あの人のこと、知らない?」


「えっ? 東海ベイシーズのチーフマネージャーでしょ?」


 きょとんとした顔で答える凛子に、周囲のファンたちは揃って「ええ~っ」という表情になる。


「……知らずに来てたんだ……」


 何か引っかかるような反応だったが、凛子が聞き返す前に列が進みはじめた。


 そして会場へ――。


 シンには会えなかったけれど、芸人たちの熱気と笑いに包まれて、凛子の心からは今日の疲れも、いろんな重たさも、ふわっと消えていった気がした。


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