凛子は藤本に連れられて、作業場とは別の、物陰になった休憩スペースのような場所に着いた。
「ちょ、ちょっと……藤本さん、私まだ作業中だったのに……んむっ!」
言いかけたその口に、冷たいチョコアイスバーが突っ込まれる。
「はい、黙って食べて~。あの愚痴製造機たちの空間に長くいたら、精神が死ぬわよ? リラックス、リラックス」
と、自分も一口かじってから、にっと笑った。彼女とはやはり距離が縮まったのか最近はフランクに接してくれるが凛子は少しそのテンションには戸惑う。
凛子は戸惑いつつも、アイスをくわえて、ようやくふっと力を抜いた。
「……はあ、ありがとう……」
「で、本題」
そう言って藤本がバッグから出してきたのは、厚みのある一束の資料だった。
その表紙には、大きくこう書かれていた。
『緊急! イベント企画事業部・社員登用 募集要項(社内限定)』
「……え、なにこれ?」
「読む前に聞いて。これ、パートじゃなくて“社員採用”。しかも、社内から限定で出された急募案件」
「社内限定……?」
「そう。だから他の求人サイトとかには出てない。今、内部で回ってるだけ。人事の裏口……というか、穴場みたいなもんね」
資料をめくると、あのお笑いイベントのチラシも挟まっていた。
「……え、これって……」
「そう、今度のイベントね。この企画がらみでイベント部がゴタゴタしてて、急に人が足りなくなってるって話。セクハラで一人飛んで、被害受けた女性社員も辞めて、他のスタッフも疲弊してドミノ倒し。今、外部からヘッドハンティングした人がトップになってて、その人が即戦力を探してるの」
「……即戦力、って私が……?」
「年齢不問、実務経験も“あれば尚可”レベルよ。コミュ力と、なにより現場に耐えられる体力と気力。凛子さんならいける」
(いや、コミュ力そんなにないし……)
少し不安になる凛子だが、そつなくなんとかこなしているところを見られてのだろうか……。
「え、でもそんな美味しい話ある? ちょっと怖いくらいなんだけど……」
「ふふ、だから教えてあげてんじゃん。こういうの、タイミング逃すと二度と回ってこないから。やってみたい気持ちが少しでもあるなら、すぐ動いたほうがいい」
藤本は最後に、ぐっと凛子の目を見た。
「どうする?」
先ほどの作業した場所に戻ったが……
「もう終わったし先に昼行ってきてー」
と言われ凛子はじゃあ……と昼休憩に入った。もちろんいくところは……
喫茶モリスである。
少し早めの昼。
まだ喫茶店の中は空いていて、凛子は迷わずカウンター席へと腰を下ろした。
「いらっしゃい」
「こんにちは。あ……シン、朝は間に合いましたか?」
「安心してください、間に合いましたから。呼びましょうか?」
マスターは穏やかな笑みのまま応じてくれた。
昨晩、結局シンを帰さずに泊まらせてしまった凛子は少し肩をすくめたが、マスターはそれもすべて見透かしたような、いつもの優しい声だった。
「もう、来たなら呼んでくださいよ」
と、カウンターの奥からひょっこりとシンが顔を出してくる。
(きたー……)
「凛子さん、お疲れ様。今日のおすすめはカツサンドだよ」
その言葉に、朝の出来事がふと胸によみがえる。
シュガートーストの甘さ。口についた砂糖をぬぐってキスしてしまった、あの少し照れくさいひととき。
「じゃあ……カツサンド、お願い」
「承知しましたー。じゃあちょっと待っててね」
厨房に戻る直前に、シンがふと振り返って笑った。
凛子も自然に微笑み返す。
たしかに夜のことも、今朝のことも気になっていたけど……この店での彼の自然な振る舞いを見て、パート仲間の噂話なんて少しは吹き飛んだような気がした。
——だけど。
心の奥にある“社員登用”の話が再び浮かび上がる。
「何か……お仕事で、ありましたか?」
と、マスターがすっと声をかけてくる。
さすがだな、と思いながら凛子は小さく頷いて、社員登用の話をした。
「そんなチャンスは、そうそう巡ってくるもんじゃないですよ」
マスターはコーヒーをカップに落としながら、静かに続けた。
「この地域の商工会にも、モール内の雇用の話は回ってくるんですがね……」
「そうなんですね。やっぱり、モールの改装とか……いろいろ関係してるんでしょうか」
「そうですなぁ。私はまだ喫茶店をやる前でしたが……あのモールができた頃、まず古い商店街が一本、まるごと潰れたそうです」
マスターはカップを凛子の前に置き、ゆっくり言葉を続ける。
「残った数店の中には、パートさんどころか、何十年も働いてた人たちが“今後の人生、考え直したほうがいい”って辞めていったそうで……」
「……」
「便利になる裏で、失われるものもある。でも、そこで立ち止まる人もいれば、歩き出す人もいる」
マスターの声は穏やかで、それでいて芯のある言葉だった。
凛子はその言葉を、ゆっくりと胸に沈めるように聞いていた。
「色々考えちゃいますね。人生、そうですね……そう思うと……」
凛子は心の中でシンと付き合ってから何故にこんな話が、と。
(婚約破棄してシンと付き合ったばかりだし……何考えてんだか、自分……でも子供のことを考えると……てかまたうまく行かなかったら……)
頭がぐるぐる目眩のような感覚である。
「凛子さん……大丈夫?」
その声で気づいた凛子の目の前にはカツサンドを食べやすいように切り分けたものを持ってきたシンだった。
「あ、ありがとう……いただくわ」
一切れ手に取ると、まだほのかに湯気が立っていた。
こんがりと焼かれたパンの香ばしさと、揚げたてのカツの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「……いただきます」
そう呟いて、ひとかじり。
サクッ、と小気味よい音がして、じゅわっと肉の旨みが広がる。
とんかつの間に挟まれたキャベツのシャキシャキした食感と、少し甘めのソースが、どこか懐かしく優しかった。
(……あったかい)
「どうやら社員登用の話があったようで」
マスターがそう話すとシンは喜ぶ。
「えっ、社員になる? いいチャンスじゃん」
「まだ試験受けないとダメだけどね……でもどうしようかなーって悩んでたの」
するとシンが自分の口元に指差す。
「ソース……ついてる」
「あっ、ありがとう。私ったらしっかりしなきゃ」
シンが首を横に振る。
「そういうところ可愛い。あ、正社員……悩むって……待遇とか勤務時間とか?」
「そうね……別に今の働き方も悪くないのよ。シフトも融通きくし、自分のペースでやれてるし」
凛子は、ゆっくりとカツサンドの端をかじった。衣のサクッとした音が、静かな店内に心地よく響く。
「凛子さん、今はお昼なんだからまずは栄養取って仕事終わってから考えた方が良いかと」
マスターがそう言う。シンも横で頷いた。
「そうね……ありがとう」
そして横にコーヒーが添えられた。
「また夜にでも聞くよ。ここで待ってる」
「……ありがとう」
焦る心にストッパーを掛けてくれたシンに凛子はホッと心が落ち着いた。
そして夜。
シンの部屋で、またふたりは求め合った。
うつ伏せになった凛子に、重なるようにして彼が身を寄せる。
ほどなくして、ほぼ同時に、ふたりはひとつの波にのまれるように果てた。
これで、三日連続になる。
シンの体重がそのまま残り、肩越しに感じる彼の荒い息づかい。
そこまで激しく求められることに、少し戸惑いながらも――
凛子の胸は、満たされた心地よさと静かな幸福感でいっぱいだった。