喫茶店の営業も終わり、佐藤は帰っていき、凛子はまだ残って片付けを手伝っていた。
「悪いねえ……」
マスターが声をかける。
「いえいえ、いつもケーキとか……それに昨日も泊まらせてもらって……」
凛子はそう言いながら、テーブルを丁寧に拭いている。
そこへ、厨房からシンが現れた。
「凛子さん……そんなこと、いいですよ。無理しないで」
「ううん。したいと思ったから」
シンは凛子の手から台拭きをそっと取り上げる。
「座っててください。あとで家まで送っていきますから」
促されるまま、凛子はカウンターの椅子に腰を下ろす。
(今夜はどうなるんだろう……私も明日は仕事だし……でも、なんか……シン、元気ないな)
ちらりとシンを見ると、やはりどこか沈んだ表情をしている。
元気のなさを打ち消すかのように、掃除に没頭しているようにも見えた。手を止めることなく、いつもよりも丁寧に、黙々と動いている。
凛子はただ、その背中を見つめるしかなかった。
そして掃除も終えて21時過ぎに。
「じゃあマスター、今から送って行きますので」
「ああ分かったよ、ありがとうございますね凛子さん。わたしは後で今日のアーカイブとやら見ます」
「あ、はい……」
シンは首を横に振る。きっと見ないで、ということなのだろう。
夜の道を、二人で歩く。
「私はね、今日は初回だったし……百田さんにも色々言われたろうけど……ファンとして、恋人として、シンはすごく頑張ったと思うよ」
喫茶店ではシンがずっと厨房にこもっていたため、ようやく口にできた言葉だった。
シンは俯いたまま、それを静かに聞いている。
「……もう、頭が真っ白でさ。何を話してるのか自分でも分からなかったけど……凛子さんのメール見て、ハッとしたよ」
「……わ、分かった? 名前書かなかったのに」
「なんとなくだけど、分かった。凛子さんだって。……嬉しかったよ。ありがとう」
久しぶりに、少し笑ったシンの顔に、凛子は心からほっとした。
「……その後の返し、私も嬉しかったよ。マスターも褒めてた。変に笑いを取ろうとしなくても、ああやって救われる人って、いると思う。きっと、やっていくうちに……シンのスタイルが見えてくるんじゃないかな」
「うん……たしかに、一回目だしね。二時間だけだったけど……もっと頑張らなきゃな」
シンは自分の頬を軽く叩いて気合いを入れる。それを見て、凛子は「そうよ、そうよ」と笑いながら背中をさすった。
「……手、つなご?」
シンは少し周りを気にしながら、手を差し出した。
凛子は頷き、その手をしっかりと握る。
(よかった、元気出してくれた……)
いろいろと他愛もない話をしながら、凛子のマンションまで歩いた。玄関の前、なかなか手を離そうとしないシン。
「明日、モーニングでしょ? 昼過ぎはネタ合わせに収録……忙しいんでしょ?」
そう言っても、シンは首を横に振るばかりで、手を離さない。
「私も仕事あるし……ね?」
やんわりと促す凛子。しかし、シンは小さく「嫌だ」と呟いて、意地を張るように手を握り続けた。
「昼にしか会えないなんて嫌だ。それに僕、厨房にいる時間ばっかりだし……今夜はここに泊まる」
昨晩のことがふと脳裏をよぎり、凛子は思わず顔を赤くする。
「だ、だめだめ!」
慌てて手を振り払うと、シンはそのまま抱きついてきた。
「やだ、凛子さん……お願い……」
耳元で、そっと囁かれる。
「……もう我慢できない」
鼓動が一気に早くなる。凛子は驚いてシンの顔を見た。
「手を繋いでたら……もう、止まらないよ」
その目に嘘はなく、ただまっすぐだった。
凛子は戸惑いながらも、小さく息をのんで、頷いた。
「わ、わかった……こんなとこじゃ……あれだし。とりあえず……部屋、行こ」
翌日の仕事中。
今日は単純作業が続く日だった。
一つの机を囲むように、四人のパート職員が並び、福引きのくじを封筒に詰める作業をしていた。
「凛子さん、凛子さん!」
隣に座る女性が小声で呼ぶ。ハッとして顔を上げると、他の三人の目線も一斉にこちらに向けられていた。
「は、はいっ!」
声が少し裏返ってしまい、思わず背筋を伸ばす。
「大丈夫かねぇ、寝不足?」
「す、すみません……なんか昨夜、なかなか寝付けなくて……」
慌てて取り繕うと、年上のパート仲間たちがくすくすと笑い始めた。
「まだ独身だもんねえ。夜遊びには気をつけなさいよ~?」
「ほんとほんと。うちの娘もこの前朝帰りしてさぁ、まったく……」
おしゃべりと笑い声の中、凛子は苦笑いを浮かべながら、うとうとと意識を落としかける。
(よくまあこんな中で、少しだけでも眠れるもんだ……)
昨夜の記憶が、体の芯にまだ熱を残していた。
——案の定、シンとは何度も肌を重ねた。
まるで、昨日の不安や沈黙を埋めるかのように。
彼はキャベツを切るだけでは気が済まなかったらしい。
けれど、押しつけがましくも、無理矢理でもなかった。
ただ、彼の必死さと真っ直ぐな想いが、あまりに強すぎて——
気づけば、凛子はそれをそのまま受け止めていた。
(同意してるし、嫌じゃなかった……むしろ……)
まだ二度目なのに、戸惑うくらいに深く求めてきた彼。
でも、そのひたむきさに、どこか心が満たされる。
「好き」だけじゃ足りないような、そんな夜だった。
(……でもちょっと、息つく暇がなかったな)
なんとなく腰も痛い。
そのくせ、ふわふわと気持ちは浮かれている自分が、なんだかおかしくて——
矛盾してるなあと、凛子は不思議な気持ちだった。
ふと横を見るとポスターが貼られた。ピンピンズの二人のポスター。
「これ正式なポスターできたよ! 来週だから、皆さんの力が大事ですからねー!」
広報部長がポスターを手に、大声でフロアに響き渡るようなトーンでやってきた。誰よりも元気よく、誰よりも空回りしているその様子に、場の空気がやや引いた。
「あの人……マジでむかつくんだけど」
「ねえ。あれで広報部長とか……部下が気の毒すぎる。もっと若い人がやれば、もうちょっとマシなデザインになるのに」
「そもそも、このモールの幹部がもう終わってんだよ。新装開店とか言ってるけど、どうせまた人事整理されてストライキ寸前よ」
パート仲間たちの毒舌が、作業の合間に容赦なく飛び交う。
凛子は苦笑いしながら、何となく手を止めてポスターに目をやった。
そこには、芸人として出演する「チョウシモン」の名前とともに、シンの写真も載っていた。
(シンは事務所ライブ、前説卒業したしラジオの隔週レギュラー取ったんだし……私も、ちゃんとステップアップしなきゃ。でも、どうやって……?)
ほんの一瞬だけ、未来の自分が見えなくなって、息が詰まりそうになる。
「そうそう、聞いた? 3階の呉服屋の店主と、4階の衣料売り場の人妻の件どうなったの?」
突然、耳を疑うような話題に切り替わり、凛子は思わず手が止まった。
「……えっ?」
「地獄の修羅場よ。店主の奥さん、まだ旦那を店頭に立たせてるし、人妻のほうは裁判中。でも費用なくて仕事辞められない。白い目で見られて精神病んで部署異動……今は宝石売り場だって」
「ひゃ~! 宝石売り場も3階でそれって……目と鼻の先じゃん」
「そもそも店主の火遊びが発端だったんだけどね。遊びのつもりが何度も重ねるうちに情も出てきて、でも最後は飽きてポイってやつ。だって店主は25歳の若旦那……相手、9歳上の人妻パート店員よ?」
——ギクッ。
凛子は、心臓がひとつ跳ねたように思った。年齢差が同じであまりにも偶然すぎる設定に
(……身体に飽きたら、ポイ? シンは……そんなこと、する人じゃ……)
言い聞かせるように心の中で繰り返したが、言葉の輪郭がうまく定まらない。
「凛子さん、さっきから詰めてる封筒、種類違うやつよ」
「あっ、ごめんなさいっ……!」
慌てて見直すと、五、六個分の封筒の中身が間違っていた。急いで取り出し、入れ直す。
(違う……シンはそんなことしない……大丈夫……)
その時だった。
「はいお疲れ様~! ネットショッピング担当より差し入れでーす!」
明るい声と共に現れたのは、藤本だった。チョコバーの箱を持ってフロアに現れると、凛子と目が合う。
そしてすぐに、何かを察したように目を細めた。
「凛子さん、ちょいとこちらに来て?」
「ちょいとお借りしますね~」
「はーい、いってらっしゃい」
周囲に軽く声をかけながら、藤本は凛子の腕をやさしく引いた。
凛子は、少しホッとした顔で、後をついていった。