「いらっしゃい」
いつもの声に迎えられて、凛子はまっすぐカウンター席に腰を下ろした。
夜の喫茶モリスは、ほどよい賑わいと、美味しそうな香りに包まれていた。コーヒーの香りに混ざるバターの匂いに、自然とお腹が鳴りそうになる。
「シンのラジオ、観てきました」
「お、私も休憩中にちょっと聞いてましたよ」
マスターは、カップを拭きながら目を細める。モリスは午後2時に一旦閉めて、午後5時からディナータイムとして再開する。その間に、厨房の仕込みをしながら聴いていたのだろう。
「“ラジオを観る”って、不思議な感じでした。それにライブ以外のああいう生放送系の……初めてでドキドキでした」
「ライブとはやはり違いますかねぇ」
マスターの言葉に凛子も頷く。ふと、思い出して鞄の中を探った。
「あ、そういえば──ご存知かもしれませんが、これ……」
凛子は、帰り際にラジオ局でもらってきたパンフレットを差し出した。
マスターは「おお」と目を丸くしながら、それを受け取る。
「公式アプリで、スタジオの映像も見られるらしいんです。スマホのラジオアプリと連携してて。観ながら聴けるっていうか……そういうの、聴衆立にも反映されるみたいで」
「へえ、これは初耳。便利な時代になったもんですねえ……聴衆率……視聴率みたいなものかね」
パンフレットを眺めながら、マスターはしみじみと言った。
「来週までならアーカイブも残ってるそうです。……再生数が多ければ、シンたちのレギュラー継続にもつながるって聞いて。あ、それは他ファンの人が言ってたから非公式なやり方だと」
気づけば凛子は、言葉に熱を込めていた。自分でも少し驚くほどに。
でも、それを聞いたマスターは、どこかうれしそうに笑って頷いた。
「それは、いいことですね。彼ら、がんばってますから」
外はもう暗く、喫茶店の窓ガラスには、ランプの明かりがぼんやり映っていた。
「凛子さん、あの……メール、送ってましたよね?」
とマスターに聞かれ、
「あっ……はい。わかりましたか?」
と少し照れくさそうに答える。シンがあのメールを読んだと聞いて驚きながらも、内容を思い出す。
それを読んだ時のシンの表情は、ハッと何か気づいていた。凛子は恥ずかしくて名前は書けなかったがこれは凛子のメールだと分かったようだ。
マスターがシンのラジオでのシンの発言を思い出して、ふと口にした。
「それに対するシンの言葉、良かったですよね。『年齢なんて関係なくて、お互いに補い合って歩み寄れるのが大事って』昔から、そういうところが変わらないんだなぁって思いましたよ」
先ほどの自然と会話が流れる中で、凛子は思い切って少しマスターの過去について尋ねてみた。
マスターは少し考え込むような表情を浮かべた後、静かに話し始めた。
「わたしは若い頃は、正直、道を見失ってたんだ。ずいぶん無茶をした時期もあってね……」
と遠い目をしながら語る。
その無鉄砲な時代を経て、家族を持ち、バーを夜だけでなく喫茶店を朝に始めたことで落ち着いた。そしてこれからもっともっと……と思っていた矢先に妻と息子を立て続けに失った時には再び心が空っぽになったという。
「この店は私にとって第二の家族みたいなもんだ。シンも含めて、ここで出会った人たちが、私を支え直してくれたんだよ」
と。その言葉を聞きながら、凛子はマスターが喫茶店に込めている深い想いを感じ取った。
そして、マスターはふと、シンのことにも触れた。
「シンは家族がそれぞれ立派に活躍してる中で、自分だけ何者にもなれていないと悩んでた時期があったらしい」
その表情には温かみが漂っていた。
「私を父と思えばいい、と言ったら料理を一生懸命覚えてくれてね。あ、もともと料理はできる子だったんだよね。それに飲み込みも早かったから……妻たちが亡くなった後もかなりの力になったよ。レギュラー番組が持ててわたしはほっと安心したよ」
マスターの話を聞くうちに、凛子はシンが芸人として努力し続ける背後に、マスターの存在があったのだと気づいた。
(でもマスターはあくまでもシンの雇用主であって本当の親じゃないしね……シンの親ってどんな人なんだろう)
恋愛が始まったばかりなのに相手の親が気になるのは雅司のこともあってなのだろうが……。
そこにシンと佐藤が入ってきて、凛子の隣に並んで腰を下ろした。
マスターはいつものように振る舞っている。
「今日は来てくれてありがとうございます。凛子さん見つけたとき、ほっとしたわ。なあ、シン」
佐藤はずっとこの調子でニコニコしている。
「うん、ありがとう」
シンが少し照れた様子でお礼を言う。シンは鞄を持って準備をしだした。中に調理長もいるが昼にラジオを終えてもなお仕事をするようだ。
「お疲れ様。仕事終わって、またお店で仕事なんて本当に大丈夫かい」
「やります、なんか手を動かしたいんです」
マスターがそうかね、と目を細め佐藤と凛子にコーヒーを差し出す。
だがそそくさと準備するシンの様子が変である。佐藤も少しおとなしい。
シンの表情はどこか沈んでいて、凛子はその様子が気になった。すると、彼は
「キャベツ、切ってきます!」
「あ、ああ……キャベツ? 料理長に聞いて見て」
マスターが許可を出すと、シンは黙って喫茶店の厨房へと入っていった。凛子はその行動に首を傾げる。
佐藤が1人、ノートを開きながら話し始めた。
「ラジオの放送後、モモちゃんに少し厳しく言われたんだよ。今ちょっと気落ちしてる。まぁ僕はわかる、反省するところいっぱいだなって。でもシンは……黙ってて。彼はね……料理すると落ち着くから。気づけばキャベツ切ってる」
すると厨房から確かに何かを切ってる音がする。すごく高速でテンポよく。ほらね、と、佐藤は笑う。
「変わってるますね……辛かったとかもっと言ってもいいのに」
思わず凛子がそう呟くと、佐藤が手を叩いて反応する。
「そう! シンは変わってる。凛子さん、そんなシンと付き合ってるでしょ?」
「はい?」
凛子はドキッとした。バレたのか? シンが言ったのだろうか。凛子は戸惑った。佐藤はその様子を見てニヤッと笑う。
「……やっぱりか……」
マスターはちょっとちょっと、と間に入るが
「マスターもわかるでしょ? 俺はシンが小さい時から知ってる。何かあった時の顔つきや動作や声色とかでわかるの……」
(まさか、カマかけた?! 佐藤さん!!!)
「凛子さんがただの友達にしてもあれだしなー、うーん……て思ったら……そうかそうか……」
自分よりも長い付き合いの彼からしたらすぐ分かってしまうのか……カマかけられて複雑な気分の凛子。
「もしかして変わってる人間だと知らずに付き合い始めたんか?」
「えっ、それは……」
返事に詰まる凛子を見て、佐藤は納得したように頷く。
「なるほど、付き合い始めてから気づいたってことか。まぁ、シンは悪いやつやないからええけど」
だが凛子もハッと思いやはり今までの痛手もあり少しずつ不安になってきた。
「付き合ってるうちにああこうすればこうしてくれる、とかなわかってくるから。大丈夫!」
シンが厨房にこもっている間、凛子は佐藤と一緒にご飯を食べながら、今日の放送の振り返りや、今後の展開について語り合った。
結局、シンは反省会が終わるまで厨房から戻ってくることはなかった。
とりあえず今日もキャベツが大盛りであったのはいうまでもない。