目を開けると、晃宏が絢音を見て微笑んでいた。とろりとした眠気の中で、久しぶりの晃宏の笑顔に心が温かくなる。最近は、いつも硬い表情ばかりで、手こそ繋いでくれるものの、絢音を見もしないことが多かった。
なによりも体調が悪化しているように思えて、気が気でなかった。ホテルに入ったときは、やりすぎたかと思ったけれど、晃宏の血色の良い頬と優しい微笑みを見ると、強引にでも眠ってもらって良かったと思える。
「晃宏さん……」
晃宏の頬に思わず手を伸ばす。
「絢音さん、あの、できればベッドから降りていただけると……」
困ったような笑みを浮かべた晃宏に、しばし考える。
ベッド。ホテル。手を伸ばすほどに近い晃宏。
「わ! すみません!」
完全に覚醒し、ガバリと布団を跳ね除けて起き上がると、慌てて服の乱れを直す。
──なんていうことを。
晃宏が苦しそうだったので、さすってあげていた。そのうちに、手を伸ばされたので握っていると、寝ぼけたのか正気なのか、晃宏が絢音をベッドまで弱々しくひっぱった。抵抗するのは簡単だったけれど、寝苦しそうな晃宏を見ると、隣で寝た方が電車と同じような効果が期待できるかもしれない。
──少しだけ。
なによりも、絢音がその隣にいたかった。
赤くなった絢音の顔から、晃宏がふっと顔を逸らす。
前の晃宏なら、絢音の表情を楽しげに見つめてくれたはずなのに。
「おかげさまですっかり体調よくなりました。帰りましょうか」
「はい……」
ホテルから出る頃には、もうあたりはうっすらと陽が落ち始めていて、電車はとっくに動き始めていた。
「僕はちょっと用があるので、絢音さんは先に帰っててください。今日は、ありがとうございました」
鶯谷の駅で、晃宏が下を向きながら、口早に言う。
「……お手伝いしましょうか?」
イレギュラーなこの状況で、一体何の用があるというのだろう。明らかに嘘であろう口実に、絢音はダメ元でそう聞いてみる。
「大したことじゃないですし、大丈夫です」
晃宏が喉を鳴らすと顔を上げた。
「では」
淡く浮かべた笑みのまま、晃宏が踵を返す。
「あ……」
その後ろ姿を見ながら、追いかけるか散々に迷った。
倒れたばかりで心配なのもあるけれど、なにより、あの表情が絢音を不安にさせる。
少しでも晃宏が振り返ったら、どんなに離れていてもその背中を追いかけよう。
そう決めて、晃宏を見送ったけれど、その背中が絢音を振り返ることはなく、晃宏の姿は小さく消えていった。
「それで、ただ寝て帰ってきただけっていうの?」
久しぶりに天宮に呼び出されたランチでは、なぜか目を釣り上げて詰め寄られた。
「そりゃ、具合悪くて仕方なく入ったからね」
「そうだけど。そうだけどさ!」
天宮が八つ当たりのように、トロピカルジュースを流し込む。今日の絢音には、トロピカルジュースは甘ったるすぎそうで、紅茶を飲んでいた。
あれから、晃宏には会っていない。もうすぐ3月になってしまいそうだ。
いつの間にか、バレンタインデーも終わってしまった。
「それで、なんであっちの方が寝込むのよ。わけがわかんないわ」
いつもの土曜日の契約は体調が悪いからとキャンセルされていた。
通勤電車でも違う車両に乗っているのか、晃宏とは会えていない。もし、隣に誰か別の人が座っていたらと思うと、怖くて探すことはできなかった。
これほどまでに避けられるようなことをしてしまっただろうか。
天宮の憤る声に笑っていると、天宮が心配そうに眉を潜めた。
「末広さんに、東野さんの様子が変だからって言われたんだけど……、あんたの方が寝込みそうにひどい顔だよ。西野、大丈夫?」
「え? 大丈夫だよ」
そんなにひどい顔だろうか。確かにあまり眠れていないけれど、たかが、晃宏に会えないだけだ。
「いや、絶対大丈夫じゃないよ」
「大丈夫だって。天宮は? 末広さんにバレンタインあげた?」
紅茶を飲みながら笑顔を向けると、天宮は、はあと大きくため息をついた。
「あげたよ。でも、感染症の影響で中国のメンバ対応が難しくなったから、プロジェクトは難航してて、正直、恋愛どころじゃない感じ」
中国から広まりつつある感染症は、日本にも少しずつ足を伸ばしていた。
「やっぱり、影響ではじめたんだ」
「そうだよー。中国に出張していたメンバは帰って来れなくなったし」
天宮は絢音に気を遣って少し誇張しているかもしれないが、思っていたよりも大事になりつつある。
そう考えると、個人的な晃宏との問題はちっぽけなものだ。
「なんかあんまりうまくいかないねえ」
「そういうこともあるでしょうねー」
二人で苦笑いし合う。
そういうこともある。そうやって胸に納めるしかない。絢音も歳を経るにつれて、そうすることがうまくなった。
──焦っても仕方ないし。
そう言い聞かせて、流し込んだ紅茶は思ったよりも苦くなってしまった。
「絢音さん」
お店を出たところで、声をかけられた。樫井だ。
こんなところで会うなんて。驚いて、思考が止まる。
樫井はちらりと天宮を見ると、絢音に笑いかけた。
「ちょっと良いですか?」
「え、あ、はい」
ちょっと、と天宮に引っ張られる。
「良いの?」
「え?」
「どう見ても待ち伏せしてたでしょう」
「え? まあ、でも話があるなら」
こそこそと天宮に答える。
天宮はため息を吐くと、絢音の手を離した。
「絢音さん、お借りしますね」
「じゃあ、私は1時から打ち合わせあるから戻るわ」
「うん、じゃあ、またね」
天宮の後ろ姿を樫井がじっと見つめる。しばらく固まるように止まっていた樫井が絢音を振り返った。
「ベンチでも良いですか?」
「あ、はい」
樫井と座ったベンチは、パン屋の前に並べられたもので、自由に座ってご飯も食べられる場所だった。
晃宏と並んで座った新木場のベンチのような大きな木はもちろんない。
冬の真っ只中だからだろう。ベンチには子供づれの女性が1組いるだけで、いくつも余っていた。
腰を落ち着けると、座った場所から冷気が体に立ち上るようだった。コートの前をかき合わせる。
「最近、電車に乗ってないですね」
「ちょっとお休み中なんです」
「へえ」
樫井が嗤う。それ見たことか、とでもいうような嘲笑うような笑みに、絢音は下を向く。
「僕の言ってた話、考えてくれました?」
「あの……」
「僕にしませんか?」
樫井が絢音の言葉を遮る。晃宏なら、そこで絢音が告げるまで待ってくれる。
「私は」
「絢音さん」
樫井が絢音の手をとる。ビクリと引っ込めようとした手を逃さないとでも言われるように強く掴まれた。
「病気の奴なんかより、僕の方がずっと楽しいですよ。楽しませる自信があります」
握られた手からゾワリと悪寒が走る。
「病気だからと理由をつけて、単にあなたを良いように使っているだけじゃないんですか? もしかしたら、病気というのも嘘かも。何にせよ、彼の病気はあなたのせいでもなければ、あなたが気にすることもない。一緒にいなくても、彼の病気は治りますよ」
一つひとつの言葉は痛くないけれど、細い針で刺されているみたいだ。
「彼はあなたに何をしてくれました? いつもあなたが彼を気にかけているだけで、彼の方は、あなたを道具としてしか見ていない」
晃宏の淡い笑みを思い出す。絢音を見ているようで見ていない、あの表情を。振り返らなかった晃宏の背中を。
「彼は、あなたに恋人ができたら契約が解消されるかと思って、焦っているんでしょう。でも、大丈夫です。僕は理解がありますからね。契約は続行したままでも問題ないですよ」
樫井が勝手なことを言い始める。握られた手をやっとの思いで振り払った。
「たとえそうだとしても、私はあなたとはお付き合いしません」
樫井が一層笑みを深める。
「へえ。理由を聞いても?」
「あなたは私を好きではないからです」
「何を言ってるんですか?」
「自分でわからないんですか?」
天宮を見送る時の熱のこもった想いに自分では気付いていないのだろうか。樫井があんな顔で絢音を見たことはない。
けれど、それを絢音の口から言うのも違う。
「それに、私も大事にしたい人がいるので」
「それは、あいつですか? 同情の恋愛なんて笑わせますね」
「すみません」
絢音が謝ると樫井は押し黙った。樫井がベンチから立ち上がる。
「あなたは気づかなかったかもしれないですが、あの人、いつも起きてましたよ」
「え?」
「僕たちの会話を聞いて、何を思ったでしょうね。偽善やの西野さん」
樫井が捨て台詞のように言い放つ。
立ち去る樫井を見ながら、絢音はため息をついた。
晃宏の素っ気ない素振りは、絢音が同情していると思ったからなのだろうか。
晃宏には、絢音の態度は、それくらいにしか見えなかったということなのだろうか。
「もう、やだなあ」
樫井の数々の言葉がボディブローのように効いてくる。
もともと晃宏の隣に座ったのは下心があったからだ。それがいつの間にか、大きくなっていった。それが楽しかったし、大事だった。
けれど、晃宏にとってはやはり、負担だったのかもしれない。
病気でも関係ないと、病気だって晃宏の一部だとそう思おうとしていたのが間違いだったのかもしれない。
「何が可愛い恋よ」
晃宏がくれていた気持ちは、絢音とは違う意味だったのかもしれない。だって、絢音の大事にしていた想いは、一つも晃宏に届いてない。
しばらく、絢音はベンチから立ち上がれなかった。
オフィスに戻ったときには、すでにお昼も残り5分になっていた。
スマホの通知欄に天宮からの連絡が来ているのを見て、デスクの上にそっと裏返した。
今は、仕事に没頭して忘れたい。
社用のメールを開くと、一番上に天宮からメールが来ていた。根負けしてクリックする。
──どうせ、スマホの方は見ないと思うので、こっちにも送ります。大丈夫だったかな? 様子が変だったので、心配です。何かあればいつでも相談してください。
そっとメールを閉じた。
天宮は優しい。けれど、その優しさが今は辛い。
それからは、終業まで仕事だけして過ごした。少しでも、晃宏のことを考えたら、泣きたくなってしまう。
「お疲れ様です」
そう言って帰るときには、もう夜になっていた。さすがにスマホを開く。
通知欄を見て、思わずもう一度スマホをしまった。
今、このタイミングで。
もう最近は連絡もきていなかった。
他愛ないことをどうやって返信しようかなと思う時間は絢音の心をとても温かくしてくれていて、だからこそ、晃宏から連絡がブツリと音を立てるように中途半端に途切れたときには、胸が苦しくなるほどだった。
なんで、連絡をくれないんですか、と冗談でも言えるような間柄だったらよかった。
吹けば消えるようなシャボン玉のような関係は、そんな簡単な言葉でも割れてしまいそうで言えなかった。
電車に乗ってる間、散々悩んで、乗り換える直前でスマホを開いた。
──今週はいつもの時間でお願いします。帰りにお話があります。
そっと画面をオフにする。
わざわざ絢音にする話が、楽しいものではないことは確かだ。真っ暗になった画面は絢音の今にも泣き出しそうな顔を写していた。
土曜日は快晴だった。
絢音が待ち合わせ場所に着いたときには、晃宏はすでにコインロッカーの前にいて、下を向いていた。
「お待たせしました」
静かに声をかけると、晃宏が淡く微笑む。晃宏のコートのポケットに入ったままの手は出されることなく、改札へと晃宏が歩き始める。
絢音の横を通る晃宏の香りが、絢音の鼻をくすぐる。
そうだ、最初に晃宏に興味を持ったのはこの香りだった。
癒されるようなドキドキするような胸がしめつけられるような、そんな香り。
香水でもないその香りが絢音をいつも誘った。
スレンダーな後ろ姿を見上げる。
この背中も気に入っていた。絢音が見上げるくらいの身長に、ゆっくりと歩くその姿を見ると、いつも少し胸が弾んだ。
「切符です」
手渡された切符をそっと受け取る。
絢音よりも一回りは大きな手も触れるたびに心が満たされた。
「ありがとうございます……」
晃宏がまた身を翻す。
ホームで、今日もよろしくお願いします、と晃宏が頭を下げた。
少し猫っ毛の髪が頭を下げるのに合わせてふわりと舞い上がる。
電車に乗り込むと、いつものように隣に座った。近くなった距離に、心臓がドキドキとする。
発車メロディが軽快に流れると、晃宏が背もたれに少しもたれた。そっと隣を伺うと晃宏はもう目を閉じている。
電車がゆっくりと動き出す。
流れるように通り過ぎている建物が木が車が、絢音の思い出を少しずつ巻き取っていく。
晃宏と初めて話したときのこと。
晃宏と初めて電車の隣に座ったときのこと。
たまにはご飯を食べて、クリスマスパーティをして。
名前を呼んで、手を繋いで、晃宏は絢音に優しい気持ちをたくさんくれた。
その気持ちを晃宏にも渡したいと思うのは、決して同情なんかじゃない。
背もたれにゆっくりと背中をつける。
だから、何だというのか。晃宏が絢音の気持ちを同情だと思っているのなら、それまでだ。
映画を見て過ごしていたこの時間をゆっくりと味わうように景色を眺めて過ごす。
香りが強くなると同時に、肩に重みを感じた。
晃宏の髪の毛が絢音の首をくすぐる。
晃宏のぬくもりが絢音の胸を締め付ける。
なぜ、このぬくもりのまま、ただ隣にいられないのか。病気だろうが、契約だろうが、絢音が隣にいたいのは、絢音が隣で眠っていてほしいと思うのは、幸せでいてほしいと思うのは、晃宏だけなのに。
電車から降りると、晃宏に連れられて絢音は近くのカフェで晃宏と向かい合った。
さっきまで隣に座って眠っていた晃宏が、今は向かいで頭を下げている。
「今までありがとうございました」
わかっている。最初から、連絡をもらった時からわかっていた。
山手線2周。1回5000円。
お金など貰わなければよかった。せめて途中でやめればよかった。
そうしたら、こんな虚しい想いをせずにすんだはずだ。
二人をつないでいたのが契約だと、まざまざと晃宏に見せつけられて、絢音は思わず下を向いた。契約など関係ない。そう思っていたのは、絢音だけだったのだろう。
「絢音さんにはほんとうに感謝しているんですが、もう続けられそうにないんです」
晃宏が絢音の名前を呼ぶ。久しぶりに呼ばれた名前に否応にも絢音の心臓がはねた。
胸をギュッとつかむ。
彼の年齢を若く見せる、その少し高めの声で、自分の名前を呼んでもらう。
それが、どれだけ心を満たしていたことか。
「これで、契約終了にさせてください」
もう一度頭を下げた彼から、ふわりと香りがただよう。
結局、どうしようもない安らぎと焦燥を与える、この香りの正体はわからなかった。
でも、それでよかった。香りなんて、最初のきっかけにすぎない。
絢音は、気にしすぎなほどに優しくて病気にもめげない晃宏に、惹かれていた。
「わかりました」
ついさっきまで、自分の肩に触れていた髪が、肩の重みが、彼の横顔が、胸にせり上げてくる。
山手線の真ん中の端の席で彼が眠りにつくその時間は、絢音にとっても癒しの時間だった。
「もし……」
言葉が口をつく。
「はい」
彼の相槌に我にかえる。
もし。
一体、何を言おうというのか。
困ったら、連絡してくれ?
気が変わったら、いつでも、雇ってくれ?
嫌じゃなければ、いつもの席に?
私の──、なんて。
言えるわけない。
「いえ、なんでもないです。ありがとうございました」
深くお辞儀をする。コーヒーを残して、席を立った。
私こそ、感謝してもしきれない。この半年間、夢のようだった。
もう、晃宏の隣には座れない。