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第13話:悪夢

 絢音が去ってからも晃宏は店の席から立てずにいた。

 どんなに待っても絢音が帰ってくることはないとわかっている。

 ──自分から手放したはずなのに。

 自分の手のひらを見つめると、顔を覆った。

 絢音の笑顔が。

 ぬくもりが。

 優しさが。

 甘い悪夢のように思い返される。

 もう二度と隣に座ってくれることはない。

 絢音の手を繋ぐこともない。

 今すぐ泣いて体を振り回して叫んでしまいたい。

 そうやって、どれだけ顔を覆っていたのだろう。

 スマホの振動する音で正気に戻った。

 ──もしかして。

 淡い期待は通知欄に表示された名前で打ち砕かれる。

 末広からの着信は無視した。

 今は、誰とも話したくない。

 すっかり冷めたコーヒーを啜る。苦さが舌の上と自分の心の上を転がっていく。

 契約なんてしなければ良かった。

 せめて、ただ隣で眠るだけにすればよかった。

 そうしたら、まだ通勤の間だけは一緒にいられたかもしれない。

 遠くから見ることはできたかもしれない。

 もう、自分は知りすぎてしまった。もっと知りたいと思ってしまった。絢音の温かさも香りも眠るまつ毛の陰影も。戻ることはできない。

「いた」

 その声にノロノロと顔を上げると、焦った表情の末広が目の前にいた。

「東野、電話に出ろよ。倒れてるかと思ったろ」

「なんで……」

 ここが、と聞こうとして思い当たる。

 絢音だ。

 言葉を止めた晃宏に末広が頷く。心が否応なしに温かく苦くなって、末広がコーヒーを追加注文しているのにもしばらく気がつかなかった。

 先ほどまで絢音が座っていた場所に、末広が腰かける。

「契約、終わりにしました」

 相談に乗ってもらっていた末広にも一応報告する。

「それで?」

「それだけです」

 そう、絢音との関係はそれだけだ。

「それでいいのか?」

「……はい」

 注文していたコーヒーが末広と晃宏の前に置かれる。湯気が立ち上るコーヒーは、晃宏の心を映すように黒く光を受け付けない。

「本当にいいのか? 全ての局面を想定して考えたか? 過去の経緯は過去のものでしかない。今後について、それが最善なのか? とことん考えたか?」

 末広がプロジェクト遂行時によく言う言葉だ。

「これが最善です。病気の自分が誰かを好きになるのが間違いでした」

 末広がカップを置いた。

「俺が、なんでお前を別の部署に行かせなかったかわかるか?」

 総務に異動する、という話は出ていた。末広がそれを止めてくれたというのも聞いた。けれど、その理由を聞いたことはない。

 ゆるゆると首を振る。

 今はもう説教は聞きたくない。

「もったいないと思ったからだ。病気のことは考慮しないといけない。でも、東野がやりたいと思っているのに、病気だから異動させるというのは違うと思った。東野ならやれる。やれるようになる。そう思って仕事をアサインしている」

 俺はさ、と末広が続ける。

「東野に対して、病気を理由にしようと思ったことは一度もない。病気と戦っているのはお前だけれど、周りも病気のお前と向かい合う覚悟はしているもんだよ」

「……ありがとうございます」

「だから、諦めるな。手を伸ばせ。人一倍、伸ばせよ」

 諭すように末広が言う。

 その言葉はコーヒーと一緒に胸に染み込んでいった。

 末広が晃宏のことを考えて言ってくれているのがわかる。

 社内で肩身が狭い時も、病気で思うように仕事が進まなくて悔しかったときも、謂れのない中傷にあった時も、末広は晃宏を守ろうとしてくれた。

 いつだって末広は目標だった。

 いつだって末広は正しかった。

 でも、末広が正しいと思ったことを諦めずに声に出して言えるのは、自信があるからだ。

 病気という不安に晒されている自分にはない、自信を持てるからだ。

 淡く笑って頷く。

 末広は何かを言いかけたけれど、口の中に収めると頷いた。

 晃宏の心のうちがわかったのかもしれない。

 末広は健康であるということの重みをわかっていない。

 病を患っていない末広にこの気持ちがわかるはずがない。

 一瞬の恋ならきっとできるだろう。

 今、この瞬間が幸せであるなら良いと思えるなら、絢音の手をとることもできる。

 けれど、一瞬では嫌だ。

 この先もずっと、ずっと隣にいてほしい。

 そう願うには、晃宏の病は大きすぎる。

 自分は恋をしちゃいけない人間だった。

 コーヒーの苦味と共にその想いは、晃宏の奥の奥までをゆっくりと浸していった。



 通勤は絢音を避けるように車両を変えた。遠目から見る絢音はいつもと変わらずに前を向いていて、特に変わった様子もない。自分との契約の終わりは、絢音にとっては大したことではなかったということか。そこまで考えて首を横に降った。まるで、未練の断ち切れていない元カレかストーカーみたいだ。

 何日か遠巻きに眺めていると、絢音の隣に樫井が立つようになった。

 絢音から見つからないような位置から見ているので、絢音の表情はわからないが、電車に乗るまでの間に何か話をしているらしい。樫井の笑顔を睨みつけるように見ていると、目が合った。

 ニンマリと嗤うと、樫井が絢音の手に触れる。

 絢音が驚いて手を引っ込めたけれど、樫井は冗談めかして頭を掻いていた。

 あの隣は、自分のものだったのに。

 そう黒い感情が渦巻いて仕方ない。

 今すぐ近くに行って、二人を引き裂いて、絢音の手を握り締めたい。

 絢音は渡さないと抱きしめてしまいたい。

 そうできなくしたのは、自分自身なのに勝手な話だ。

 晃宏は、下を向くと、ホームに慌ただしく入ってきた電車へと乗り込んだ。

 絢音の隣に立つ樫井を見たくはないのに、通勤の時間は変えられなかった。

 絢音を見れる時間は晃宏にはこの通勤時間しかない。

 けれど、そうやって過ごせた期間は、そう長くはなかった。

 中国からきたウイルスは日本にも到来し、感染者が増えると自宅からのリモートでの仕事を余儀なくされた。

『東野生きてるか?』

「……生きてますよ」

 乾いた笑いで答えると、スマホの画面越しに末広も笑った。

『そんな格好で言われても説得力ねえよ』

「すみません、起きれなくて」

『熱はないんだよな?』

「いつもの、やつですよ」

 最初こそ仕事ができていたけれど、やはり眠れない日が続くと体に不調が出始めた。

 しかも、最近は調子が良かったからこそ、そのぶり返しが激しい。

 本当は話すのも億劫だけれど、話すこともしなくなると喋れなくなるんじゃないかという恐怖が、晃宏の口をなんとか動かしていた。

『大丈夫だよ。どうせ、仕事どころじゃないしな』

 他社とやっていた仕事は仕切り直しを余儀なくされている。社内だけでもやれることはあるけれど、どれも他社との調整が必要なことばかりだ。

「天宮さんとこのプロジェクトも止まっちゃいましたね」

『データが持ち出せないからな。来てもらわないといけないプロジェクトは軒並みストップだよ』

 個人情報を隠せばいいというデータでもないので厄介だ。妥協案が難しい。

『……西野さんとは連絡とってないのか?』

 テレビ電話だと相手の間合いが見えづらい。のっぺりとした画面の向こうで末広が少し心配そうに眉を寄せている。

「とってないですよ。連絡先は、消しましたし、来ても、わからないかもしれません」

 末広が押し黙った。

 未練を断ち切るために連絡先を消したのは、つい最近だ。自暴自棄になっていたともいえるけれど、体調が悪くなればなるほど、絢音との幸せだった時間が自分の首を締め付けてくるようで耐えられなかった。

 連絡先を消せば絢音とのつながりは消える。

 指先一つで消せるほどの関係なのに、どうしてこうも胸が苦しくなるのか。

『そうか』

 末広はそれしか言わなかった。

 そのあとは、チームメンバーの近況やこの先の仕事について話し合う。一週間は休んだ方が良い、という結論になった。そのあとは、様子を見ながら短時間で復帰する。

『それじゃあ、お大事にな。ちゃんと休めよ』

「言われなくても、ここから、動けないですよ」

 末広がははっと無理やりのように笑うと、じゃあなと言って通話が切れた。

 静寂が辺りを包む。

 光ったままの画面をぼうっと見つめる。手が無意識に通話履歴に伸びた。

 絢音と電話したのは、年末の時が最後だ。

 連絡先は消しても履歴は消せなかった。末広との通話に押し出されて、過去の通話が一つ消えている。

 履歴の保存できる中程に番号だけの通話が表示されている。その番号が絢音のものだ。

 リモートで通話が増えることを考えると、この絢音との最後のつながりももうすぐ消えてしまうのだろう。

 画面を見過ぎて気持ち悪くなって目を閉じた。

 めまいのような感覚にギュッとスマホを握りしめて、目を瞑る。

 どうせ眠れないけれど、何も見ていない方が身体にも心にも良い。

 悪夢のようなドロドロとした澱みに、晃宏は身を委ねた。



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