最近どうよ、と天宮からオンライン飲み会の誘いがきたのは、リモートワークにも慣れた5月の頃だった。
晃宏との契約がなくなってから2ヶ月。まだ、契約解除したてのころは、新木場のホームにいる晃宏を遠くから眺めることもできた。
今日は体調が良さそうだな、と確認できれば少しは気持ちも慰められたけれど、今はそれも叶わない。
「かんぱーい」
画面越しにチューハイを開けて掲げる。
天宮の持っている缶がハイボールでないことを確認して、絢音はゴクリと喉を潤した。
「リモートワーク慣れた?」
『んー、ぼちぼちかな。でも、対面で話せないの結構めんどい』
天宮が愚痴りながら、つまみを開ける。
絢音もご飯がてらの飲み会だ。
『西野は?』
「私は、みんな伸び伸びやっててくれるから、楽だよー」
『それは、今までの西野の教育の賜物ね』
えへへと笑うと、天宮が微笑んだ。
『よかった。ちょっとは元気になって。樫井は大丈夫そう?』
「うん。もう、リモートだし、影響なくなったよ」
樫井の告白を断ってから、周りが騒がしくなった。
チームの女の子たちが時には遠回しに、時には直接的に、絢音に恋をやめるべきだと言ってきたのだ。
『余計なお世話だってのにね』
天宮はその時も今も絢音のことを思って憤慨してくれている。
「まあ、みんなも私のためと思って言ってくれてるからね」
『それがありがた迷惑って言うの』
飲み込めない言葉ほど辛いのだなとよくわかった。
何もそんなにツラい恋を選ばなくてもいいじゃないですか。そう言われて、そうだねと頷けるならよかった。そう頷けるくらいの、恋情なら。
もっと素敵な人がいますよ。病気なんて騙されてるんじゃないんですか。
そんな、親切の皮を被った鈍い刃にどれだけ傷付けられただろう。
病気がないなら素敵なの? 病気じゃないなら騙されてないの?
そんなふうに返すこともできず、ただ笑って最後の抵抗のように首を振るしかなかった。歯痒くて悲しくて痛かった。
一つひとつの言葉は大したことがないのに、じわじわと効いてくる毒のように蝕まれていくようで、絢音の晃宏が好きな気持ちまでどろどろに溶けてしまうんじゃないかと思った。
絢音への周囲の雑音が、樫井のせいだとわかったのは、彼が直接絢音に接触してきたからだった。
──あなたの大事な人との恋は、周りからは応援されない恋なんですよ。
そう言った樫井の顔は能面のように感情なく笑っていた。応援されたいと思って恋したわけじゃないけれど、周囲の声に参ってしまいそうだったのは事実だ。
「この歳で恋をするのはキツいね」
『わかる。昔は打ち上げ花火みたいにドカンて上がって派手に散るような感じだったけど、今は線香花火みたい。チロチロ燃えてなかなか消えないんだよね』
「なにそれ、詩人みたい」
でも、わかる。
ひとつ違うとすれば、線香花火はいつか消えるけれど、この恋は灰になっても燃えているところだ。
もうずっと晃宏の姿を見ることはできていない。諦めなければならないのなら、もうこのまま、火の上がる灰がいつか消えるのを見続けていてもいいのかもしれない。
「末広さんとは? 会ったりできた?」
画面越しに天宮が首を振る。
『ぜーんぜん。でも、この前電話がきたよ』
「いいねえ。順調だね」
すれ違いそうになっていた恋はつなぎとめたらしい。
缶を煽りながら顔を隠す。ちゃんと笑えているか自信がない。天宮の恋も応援できないような自分に成り下がりたくなかった。
『仕事も順調にいければいいんだけどね』
「もうちょっとで動き出すといいね」
それからは仕事の話にシフトした。天宮が話を逸らしてくれたのはわかっていたけれど、チャプチャプと鳴る少なくなったお酒が気になるようなふりをして、気づかないことにしてしまった。
>西野さん、今日の資料です。
>>確認してコメント入れたので、修正お願いします。
>承知しました!
>今日の打ち合わせのアジェンダできた?
>>送付します。
左の画面にはチャットの履歴。右の画面では会議。
絢音は引っ詰めた髪を少し直しながら、ディスプレイに笑いかける。
「はい。本日の打ち合わせは以上です。資料は後ほど送付いたします。お力になれると思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします」
自分の顔を見ながら、顔が引きつっていないか確認する。ネットワークの遅延を避けるために、話すメンバー以外は、カメラをオフにしているのだが、未だに相手の顔が見えないと間合いがわからずに戸惑ってしまう。
ミーティングルームから退出すると、ふうと息を吐いた。立ち上がってコーヒーを入れ替える。
チャットで議事録を共有しながら、メールをチェックする。前からチームメンバーの仕事を見ながら自分の仕事をしていたので、タスクを並行してこなすのには慣れている。テレワークは絢音に合っていた。
机の横に置いていたスマホが機体を震わせた。何気なく覗いた通知欄に、体が固まる。
「末広さん」と表示された宛先元を見たのは、いつぶりだろうか。何度目かの振動のあと、スマホが諦めたように黙ると一度だけ着信が鳴った。
通知欄に末広の名前がもう一度悲しく降り立つ。ショートメッセージが届いたことを知らせるその通知を見なかったことにしたのは、今見たら泣くかもしれないと思ったからだ。末広を透かして晃宏の姿を見ようとする自分が容易に想像できた。そして、その姿を柔らかい気持ちで見つめるには、まだ時間が足りていない。
赤く①と出ている通知を見ないふりをして、絢音はパソコンに向き直った。
リモートだとなかなか仕事の節目に区切りがつかない。絢音はご飯を食べる時間には退勤すると決めていた。今日の夕飯の時間は20時だ。鍋に入れたラーメンは少し茹ですぎて、ふにゃりとした感触が食べ応えなく喉を通っていく。
「2件……」
増えた通知アイコンが絢音を追い立てる。
スマホを横目で見ながら、裏返す。このラーメンを食べたら、食べ終わったら見よう。
コシのないラーメンは特に抵抗することなく絢音のお腹におさまり、鍋も丼もはしも綺麗に洗い終わってしまった。
お風呂に入り、頭を乾かし、録り溜めていたテレビドラマを観て、まだいつもの寝る時間までに1時間はあるのに布団に入った。
それでも、目が冴えてしまって、ラーメンを食べ終わったのに見ることをしなかった自分が悪いことをしているような気がして、いつかどこかですごく後悔するような気がして──。
通知を確認した。
『東野が入院しました。念のため、ご連絡します』
スマホをいじっていた手が止まる。
息が止まった。
さあっと血が引くのがわかった。
だらりと落ちた手からスマホが落ちる。ゴトリと鳴ったその音にびくりとする。
「え、うそ」
口についた言葉は、陳腐で、どうしようもなくて、ドラマでも聞かない言葉が口に出るこの現実が夢だったら良いのにと思う。胸の奥が雑巾みたいに絞られたみたいに苦しくなる。
晃宏さんが?
病気のせいなのか、伝染病なのか、短い文章からは判断できない。
口が急速に乾く。体が冷たくなったような気がして布団をかき集める。
晃宏さんが、入院?
「で、電話」
床に落ちたスマホを拾い上げようとして、手からするりと落ちた。
震える手が絢音に訴える。
誰に、どんな顔をして、電話をするっていうの?
髪をかきむしった。
こんなに怖い想いを、どうやって咀嚼したらいい?
こんなにどうにもできない想いをどう消化したらいい?
最悪の事態が絢音の頭を過ぎる。
突然、スマホが着信を告げた。心臓が大きく跳ね上がる。
「天宮……」
通話ボタンをゆっくりと押す。
『あ、西野、夜遅くごめんね』
「天宮、どうしよう、東野さんが、にゅ、入院って……」
スピーカーに発する声が喉に絡む。
『聞いた。末広さんに連絡した? 東野さん、栄養不良だって。貧血みたい。今のところ、伝染病は陰性』
「貧血……」
その言葉にフーッと深い息が出た。よかった。最悪ではない。
『今から、病院の名前言うから、メモして』
「……いかない」
『は?』
ゴクリと唾を飲み込むと、ゆっくりと天宮に言い直す。
「私は入院先に行けない」
『なんで?』
「契約も終わったんだよ。行く方が変じゃない」
なるべく明るくなんでもないかのように。
お見舞いに行って、無事な姿を見たら、きっと泣いてしまう。
泣いたら、晃宏が困る。
『……心配じゃないの?』
「心配だよ! 心配、だけど」
声が裏返った。
心配で、その心配な想いが晃宏の重荷になりそうで。
『そんなわけないよ』
絢音の言葉に、優しく宥めるように天宮が言う。その声がどうしようもなく絢音の気持ちを黒くさせる。
「普通の人が風邪ひくのとはわけが違うんだよ」
消え入りそうな声で放った言葉には、多分に非難の声音が混じっていたのが、自分でもわかる。
病気じゃなければよかった。晃宏が健康で、貧血で入院したなんて聞いても、ちゃんとご飯食べなよ、と笑い飛ばせるくらい、毎日を元気に過ごしている人ならよかった。
『……普通ならよかったの?』
天宮の声が小さく電話越しに届く。
『普通だったら、ってもうそれは違くない?』
わかってる。
「天宮にはわかんないよ」
『わからないよ。なんで、誰かの恋と比べるわけ?』
わかってる。比べるような恋が正しいなんて思わない。
そんな恋にしたくない。でも、止まらない。
病気で苦しむ晃宏を助けたいと思うのと同じくらい、病気で苦しむ晃宏を見ていたくない。
病気じゃなかったら出会えてなかったなんて、綺麗事は知らない。
晃宏の辛い姿を見ながら、耐えるこれが恋なら、もう捨ててもいい。
ただ、ただ、好きな人が苦しい想いをせずに隣で笑ってくれていれば良い。それだけなのに。
『西野が好きになったのは、誰なの?』
やめて、言わないで。
『……西野がいいなら、いいよ。でも、お見舞いには行ったほうが後悔しないと思う』
言わないで。抉らないで。この恋をそっとしておいて。
思わず、終了ボタンを押した。
「やだなあ」
なぜ、楽しいだけで終わらないのだろう。
楽しくて甘いだけの、ロイヤルミルクティーみたいな恋に浸っていられればよかった。
本当の恋は、ブラックにほんの少しの砂糖が入っているだけだ。
「もう、無理だよ……」
少しの甘さを求めて飲んでみるけれど、暗く苦くて、吐き出してしまいたくなる。
黒くて苦い後悔に、絢音は膝に顔を埋めた。