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第15話:願望

 うっすらと目を開けると点滴が目に入った。

「あ、東野さん、気づかれましたか?」

「ここ、は?」

 家にいたはずだ。ベッドからゆっくりと起きあがって、立ち上がった瞬間に、頭に鋭い痛みが走り、周りが歪んだ空間のように回ったのは覚えている。

「病院ですよ。同僚の方が倒れているのを発見されたんです。早めに発見されてよかったですよ。貧血も重度のものだと本当に危ないですからね」

 カルテを持った看護士がナースコールを押す。

 頭がうまく働かない。口の中が乾いているのに、背中にじっとりとした嫌な汗のせいで服が張り付いていて気持ち悪い。

「203号室の東野さん、起きました。先生、お願いします」

 10分ほどで、ぶかぶかの白衣を羽織った医師がやってきた。優男と言ってもいいような顔なのに、眠たげな瞳と服装が全体を野暮ったく見せていた。

「脈拍、ちょっと早いね。慢性疲労症候群て聞きましたけど、薬とか飲んでます?」

「あ、漢方がいくつか」

 後で、お薬手帳見せてください、と医師はカルテに何か書きつけながら言う。

「貧血ですね。いわゆるめまいがするような脳貧血とは違うものですが、慢性疲労症候群と似ている症状もあるので気づかなかったんでしょう。これくらいの症状でしたら、いくつか検査をしたら基本的には2,3日でご帰宅いただくんですが、持病もあるみたいなので、念のためいくつか項目を増やさせてください」

 1週間はかかると思う、と医師は言うとポンポンと気安い友達のように晃宏の肩を叩いた。

「気楽に気長に、ですよ」

 眠たげな瞳が少し細められると途端に子どもっぽい表情になる。驚いて声が出せずに頷くと、医師は、では、とぶかぶかの白衣を翻して病室から出ていった。

 6人部屋の窓際。

 感染病対策のためか、カーテンはずっと引きっぱなしになっている。

 面会もごく限られた時間で、一人のみ許可されているらしい。

 それを知ったのは、末広からのメールだった。

『仕事が終わってからだと面会時間に間に合わないので、身の回りのものは看護士さんに渡しておいた。面会に行ける時には連絡する。一人しか入れないので、誰かに来てもらうときは注意するようにとのこと。仕事のことは気にしなくていいから、ゆっくり休め』

 末広らしいメールにほっとする。大丈夫か、などとは絶対に言わない末広の心遣いが好きだ。

 大丈夫だと答えても、大丈夫じゃないと答えてもツラいその質問に、今は軽く答えられる気がしない。

 薄いピンク色のカーテンが風にはためく。

 この空笑いするかのような明るい色の空間から二度と出られないのではないかと、ゾッとする。

「東野さん、失礼します。検温です」

 カーテンを開けると、看護士さんが紙袋を手渡してくれた。テキパキと検温の準備や点滴のチェックをしながら、先ほど末広からのメールで確認したことを説明してくれる。

「もし、足りないものがあれば、下にコンビニもありますので。歩くのが難しいときは、看護士に声をかけてください。車椅子も使えますし、付き添いもできますから」

 無理は禁物ですからね、とつむじ風のように看護士が去っていく。

 朗らかで率直な話し方が絢音を思い出させた。人に頼らせるのがうまい。寄りかかっていいんですよ、と笑いかけられたあの頃が懐かしい。その肩には自分から背を向けてしまったけれど。

 ゆっくりと起き上がって、紙袋を開けた。

 シャツとパンツと歯磨きに洗顔。このご時世に必需品のマスク。タオルもいくつか。末広の濃やかさが窺えるように、必要最低限なものがきっちりと整列して入っている。

 一つひとつゆっくり出して、紙袋の奥底に別に小さな袋が入っているのが見えた。

 袋を開けて、思わず閉じた。

 絢音からもらったクリスマスプレゼント。末広に話していただろうか。ベッドに大切に置いていたそのアロマの小瓶は、いつも晃宏を慰めては絢音が隣にいないことをむざむざと思い出させる。けれど、これがあると眠れるのも確かだった。

 絢音の隣にいるように甘くて切ない眠りにつくことができる。もう二度と起きたくないと思うほどに、この香りだけに囲まれて夢を見続けられていたら良い。起きて絢音がいないことに絶望するたびに、泥にまみれて眠り続けられたら良いのにと思う。

「ああ」

 思わず、ため息が口から漏れた。額にアロマを当てると、懐かしい香りがする。少し顔にかかった髪の毛や、伏せられたまつげ、かすかに笑いを噛みころした唇。晃宏が体調が悪くてどんなに休んでも、少しも嫌な顔をしなかった。苦しい時には優しく背中を撫でてくれた。脳裏で振り返った絢音が晃宏に笑いかける。心の中で切ったシャッターはいろんな絢音を晃宏の頭のアルバムに入れておいたらしい。アルバムが捲られていくほどに、これは思い出だと突きつけられるようで、晃宏の焦燥が募る。

 あの頃、辛い思いの半分を絢音が持ってくれていた。大事に、こぼさないように、晃宏の辛さを楽しさと同じくらい丁寧に扱ってくれていた。なぜ、手を離してしまったのだろう。なぜ、好きだと言わなかったのだろう。絢音の辛さも半分持つと、病気でも幸せにすると、そう自信が持てていたら、違っただろうか。

 絢音に会いたい。目を見て、手を取って、隣に座って、湯船に浸かるような微睡の中で絢音の笑顔を見たい。

 晃宏はアロマの小瓶を手に握りしめると、ぎゅっと目を閉じた。



 シャッという音で目が覚めた。眠れていたらしい。

 ぼーっとする頭で視界に誰かがいるのが見えた。椅子に座ったその人の手が背中をゆっくりとすべる。その手が気持ちよくて、起きたいと思うのに目が開かない。握りしめた小瓶は効果抜群だったらしい。まだ寝てなさいと誰かに重い頭を押さえつけられでもしたかのように、また眠りの中へと落とされる。

 反転する現実と夢の中で、かすかに絢音の香りがしたような気がした。




 次に起きた時には、先ほどの看護士が点滴の減りを確かめていた。

「あ……」

「あ、起こしちゃいましたか?」

 思わず漏れた声に看護士が振り返る。

「あの、誰か……」

「はい?」

 誰か来てないか、というのは喉の奥につかえて聞けなかった。もし、誰も来てなかったら、来ていたとしても絢音でなかったなら、その事実に打ちのめされかねない。

 それに、なんだかあれは都合の良い夢だったような気もする。

「いえ、なんでもないです……」

 手に緩く握っていた小瓶をぎゅっと握りしめ直した。看護士の視線に気づいて、慌てて起きようとすると、頭がぐわんと鳴って思わず手をついた。

「大丈夫ですか?」

 看護士が倒れそうになった体を支えてくれる。

「あ、大丈夫です。すみません、しまいますね」

「ああ、いえ、香りが漏れてなければ大丈夫ですよ。でも、そうですね。こぼれたら大変なので、ハンカチか何かに1、2滴たらすと良いですよ」

 家ではもっぱらアロマポットを使っていた。

「ああ、そういう使い方もあるんですね」

 末広が持ってきてくれた物の中にハンカチはあっただろうか。タオルが入っていたことを考えると望み薄な気がする。

「素敵な香りですね」

「ありがとうございます」

 泣きそうな顔になっていなかっただろうか。晴れやかな顔が、今の晃宏には眩しすぎる。

 検温を済ませ、いくつか問診が終わると晃宏はベッドで仰向けになりながら、はあと息をついた。

 一人になると、途端に疲れが襲ってくる。病院で動かなくて良いとはいえ、人と話すことは今の晃宏にとっては相当に体力を消耗する。

「ハンカチ……」

 ベッドのサイドフレームを使いながら、ゆっくりと重い体を起こす。

 ないだろうな。なかったら、コンビニに買いに行こう。

 念のため、確認した紙袋。

 入ってるはずのないハンカチ。

 わかっていたのに、覗き込んだ紙袋の中。

 1枚のハンカチが入っていた。

「え……」

 コンビニで買ったのであろう、チェック柄の中途半端にフォーマルなハンカチが、買ったときのままビニールに包まれて、タオルの横にそっと入っていた。

 ──絢音だ。

 雷に打たれたように、全身の血が沸騰する。

 絢音がきてくれた。

 思わず顔を覆う。

 確信があった。タオルがあるのにハンカチを買い足してくれる人物を晃宏は一人しか知らない。絢音も気づいたのだろう。素のままに小瓶を握りしめる晃宏のために、ハンカチを入れておいてくれた。

 あの手は夢じゃなかった。優しく撫でてくれたあの手は、晃宏の願望か見せたじゃなかった。

 来てくれていた。それこそ願望かもしれないが、晃宏のことを心配して。晃宏のためを思って。そのハンカチは、晃宏から離した手を絢音が握り返そうとしてくれているように思えた。

 まだ、想っても良いだろうか。離してしまったこの手を伸ばしても良いだろうか。

 まだ、足掻いても良いだろうか。好きだと言っても許されるだろうか。

 こんなにもままならない体で、ただ、絢音を愛しいと思うその気持ちだけで、彼女の手をとっても、目を見つめても、抱きしめてもいいだろうか。

 誰かが、イエスと言ってくれればいい。この恋が正しくて一生続く幸せなものになると、幸せなものにできると、断言してくれたらいい。そうしたら迷いなく手を伸ばす。もう二度と離したりしない。


 額に両手を載せる。

 頭が少しダルくなってきた。ヒートアップしてきた思考を宥めるようにゆっくりと息を吐く。

 アロマの小瓶を握りしめる。

 あれもできない、これもやれない。

 そうあきらめてきた。寝込むから、迷惑をかけるから。自分は、病気だから。

 病気を理由に諦めてきた。でも、絢音だけは。

 絢音だけは諦めたくない。

 誰にもイエスなんて言われなくていい。

 どうか、絢音に届きますように。離した手がもう一度届きますように。

 スマホの通話履歴を表示する。もうずいぶん下の方に追いやられてしまった数字の羅列。それが絢音の番号だということは、晃宏が嫌というほどに知っていた。

 通話スペースまでなんとか壁づたいに歩く。窓からはもうすっかり暗くなった夜空に星がいくつか瞬いているのが見えた。やっとたどり着いた通話スペースの一番近い椅子にもたれるように座り込んだ。

 こんなことで負けてたまるか。

 こんなことで、諦めてたまるか。

 掴めるこの瞬間を、もう逃したりしない。

 思い切って押した通話を自分の意気地のなさが終了してしまわないように、スマホを祈るように額に持っていく。

 1回……、2回……。

 電話の呼び出し音が鳴り響くために、尻込みしそうになる自分を心の中で叱咤する。

 何度かのコールの後、留守番電話に繋がった。

 ほっとしたような、残念なような吐息が出る。

「……ハンカチ、ありがとうございました」

 唇を湿らす。これで切っては義務で電話したように聞こえかねない。

「次は……起きてる時に来てください」

 言った。言ってしまった。

 その言葉に慌てて蓋をするように終了ボタンを押した。

 あの言葉を絢音はどう取るだろう。気持ち悪いと思われたりしないだろうか。面倒だと思われたりするだろうか。

 後悔に近い気持ちが湧き上がるけれど、心は清々しい。

 声を聞いてくれたらいい。絢音がスマホに耳を傾けて、晃宏の声を聞いている、その光景を思い浮かべるだけで心が暖かくなる。きっと聞いてくれる。

 ビニールを丁寧に開けて、ハンカチを広げて、アロマを1滴たらした。

 枕元に置くと、絢音が近くにいるような気がして、またすぐ眠りに落ちた。

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