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第17話:健やかなるときも

 目を覚ますとピンク色のカーテンが青みがかっていた。

 しまった、と横になったまま目を覆う。すでに時間は夕食前。ゆっくりと体を起こすと、ベッド脇のチェストに四角く折られた紙が置いてあった。

『紙袋に替えのハンカチを入れておきます。たくさん眠れているようで安心しました。絢音』

 線の細いきれいな文字が晃宏をいたわる。再び、がっくりとうなだれた。

 今日こそは会えると思ったのに──。

 絢音に留守番電話を入れた後、久々にぐっすりと眠ることができた。久方ぶりの清々しい朝は、サプライズのプレゼントのようだったけれど、その朝はさらに晃宏を喜ばせることがあった。

 絢音からの返信だ。

 覚えてしまったメールアドレスの文字列が画面に並ぶ。

 あの留守番電話を入れた時点で、もう怖いものなどないと思っていたのに、文面を表示するまでに時間がかかった。もし、もうかけてこないでくださいとか、私じゃないですとか、そんな言葉が並んでいたらと想像してしまうと、なかなかアイコンをタップできなかった。

 目を瞑って、やっと開いたメールには。

『明日、また行きます』

 短い言葉だったけれど、それだけで十分だった。

 明日を手放した晃宏に、もう一度「明日」を約束してくれた。

 スマホを握りしめて、額に押しあてる。

 明日。この言葉がこれほどに自分を救ってくれるとは思っていなかった。晃宏の胸をこれほど熱くさせるとは思っていなかった。

 絢音に別れを告げたときでさえ流さなかった涙が、晃宏の頬を伝う。

 病気の自分が手を伸ばすなど過ぎた夢だと思っていたけれど、もう一度その手をとってもらえるかもしれない。

『待ってます』

 絢音に返信した文字が虚しく画面に映る。

 そう返したのに、自分の体は眠れるとわかった途端に、これまでの分を取り戻すかのように眠りが深く長くなった。

 それこそ、日中すらも貪るように。

 絢音に謝りのメールを打つ。ごめんなさい、まで書いて、手を止めた。

 思い直して打ち直す。

 絢音は「安心した」と書いてくれた。たくさん晃宏が眠ると安心すると。そう書いてくれた。

『ハンカチありがとうございました。絢音さんに会えなかったのは残念ですが、安心してもらえるくらい眠れました。次は会えるのを楽しみにしています』

 返信した文面は悪くなかったと思う。


 来たぞ、と末広がやってきたのは次の日の面会時間だった。

「西野さんは今日来れないらしい」

 天宮から聞いたと末広が着替えを補充し直してくれながら何気なく言ってくる。

「あ、連絡もらいました」

 これは経緯を知ってるな、と苦笑する。

 改まってベッドに座り直した。

「末広さん、ありがとうございました」

 絢音が持ってきてくれたお薬手帳のコピーはどう考えても、末広が渡してくれたものだ。

 どういう経緯かはわからないけれど、絢音が晃宏の見舞いにきてくれるように一肌以上は脱いでくれているはずだ。

「俺は、何もしてないぞ。むしろ少し怒らせたくらいだからな」

 肩をすくめながら、でも、俺の彼女がとりなしてくれたらしい、と続ける。

 まじまじと顔を見る。言われなくても、誰が彼女かなんて、一人しかいない。

「そんなに、見るな。穴があく」

 憮然としたように言っているけれど、少し耳が赤い、ような気がする。

「いえ、末広さんは、そういうことを共有するタイプじゃないと思ってたので」

「俺もそうだと思ってた」

 でも、向こうは嬉しそうに、西野に言ったよ、って言うんだ。

「そしたら、なんだか俺も言わないと、隠したがってるように思われたりしそうじゃないか」

 怒ったように末広が続けるが、言っている内容は惚気だ。

「よかったです」

「なんだよ」

 まだ照れ隠しに悪態をつく末広に思わず笑ってしまう。笑うな、と末広がそっぽを向く。

 ああ、この人はこんなに可愛い一面があったのか、と嬉しくなる。

「末広さんが幸せだと俺も嬉しいんですよ」

 そう言うと、今度は末広が晃宏の顔をまじまじと見る。

 なんですか、とまた笑って聞くと、ふっと末広が口元を緩めた。

「いや、笑ってるな、と思って」

 一時期は世界が終わりそうなくらいへこんでたのにな、と末広が軽口をはさむ。

「自分以外に目を向けられるってことは余裕が出てきたってことだ」

 いいことだな、と末広が続ける。

「絢音さんのおかげです」

 絢音が優しさをくれたから。勇気を見せてくれたから。二人で伸ばしあった手を取り損ねないように、必死でつかんでくれたから。

「俺、この病気になってから、ずっと謝ってるんですよね」

 末広が頷いて続きを促す。

「調子が悪いときはもちろんそうなんですが、それこそ、調子が多少戻っても、これまで休んでてすみません、とか今は調子がいいのに、これくらいしかできなくてすみません、とか。誰も謝ってくれなんて言ってないんですが、どうしても申し訳なさが先に出ちゃうんです」

 でも、絢音は──。

 手紙を末広に見せる。

「絢音さんは、自分のことに置き換えてくれるから、謝れなかったんです」

 調子が戻って良かったね、と言ってもらったことはたくさんあった。

 その良かったね、は晃宏の視点だけれど、絢音は安心したと言ってくれた。

 絢音の視点で、絢音は晃宏の病気を一緒に見守ってくれている。晃宏の病気がよくなるほんの少しの期間をとても気にかけてくれる。

「ほら、健やかなるときも、ってあるじゃないですか。俺、思ったんですよね。俺が健康だと絢音さんが嬉しいって素敵だなって」

 健やかなるときも。晃宏のそれは、他の人とは少し違うかもしれないけれど、だからこそ重い一言になる。

 健やかなるときも。絢音は晃宏に寄り添ってその光り輝くようなひと時を大切に扱ってくれると思う。



 退院する日は、雨だった。

 検査の結果は、良い時の数値にはほど遠かったけれど、暗い峠は越えた。

「眠れているなら退院で良さそうですね。無理をしないで。感染防止対策はしっかりとやっていきましょうね」

 ダボついた白衣を着た医師は検査報告書を晃宏に見せながら、眠たげな瞳を細める。本当に眠いのかもしれない、とその微笑みを見て思った。

 感染症は未だに衰えを見せずに、感染者が急増している。今、病院は感染患者の対応で手一杯のはずだ。

「ありがとうございました」

 医師がうなずく。

「気楽に気長にですよ」

 入院のときにも聞いたおまじないなような言葉がまた繰り返される。でも、今なら少しわかる気がする。

 この病はずっと晃宏についてまわるのだから。

 医師がダボダボの白衣を翻してピンクのカーテンを開ける。窓から見える雲が徒競走しているかのように早く明宏の目の前を通りすぎていく。

 絢音が来てくれた日からすでに2週間。

 絢音からは「また行きます。ゆっくり寝てください」と返信がきていた。けれど、とうとう退院までにそれが叶うことはなかった。

 政府からの緊急事態宣言も対象区域は増える一方で、晃宏の入院している病院は不要な面会を減らす方針となった。

──今は、やめておきましょう。感染症にかかるリスクは最大限抑えるべきです。

 絢音のその言葉は至極真っ当で、だからこそ寂しく感じた。

 何もかもを放り出して、感染症なんてリスクを全部傍に追いやって、絢音に会いにいきたい。

 その気持ちはもちろん実行にはうつさないけれど、絢音も同じじゃないのだろうか。

 淡々と書かれているメッセージからは想像が及ばない。

「お元気で」

 看護師さんが病室前で見送ってくれる。

「ありがとうございました」

「あの」

 晃宏が顔を上げると、看護師さんが力強い目で晃宏を見る。

「ハンカチにアロマをたらすお話をしたじゃないですか、あれ、私じゃないんです」

 彼女さんなんですよ。

 内緒話をするように、看護師さんが声を潜める。

「は?」

 気の抜けた声が口から出る。

 彼女って。つまり。

「お大事にしてくださいね」

 呆けている晃宏に看護師さんが微笑む。

 家に戻るにはタクシーを頼んでいた。タクシーの中から外の景色を見るとなんだか天上から地上に戻ってきたような気分になる。窓ガラスについた水滴の向こう側で、いくつかの店のシャッターが閉じている。緊急事態宣言のせいか人通りが少ない。いてもマスクをして一人で歩いている人が多い。更地になった土地には丈の高い植物が鬱蒼と茂っていた。

 世界は変わったのか。

 ポケットからハンカチを取り出す。何度もアロマをつけて楽しんでいたからか、洗濯をしたものでもなんとなく香りがするようになってきた。

 看護師の言葉が思い出される。

 絢音が近づいてくれると、絢音に自分を見ていてほしくなる。伸ばした手をつかんでもらうと、ずっと離さないでとすがりつきたくなる。

 それはワガママだと思っていた。

 そして、そのワガママは晃宏が病気である限り、刃物にも等しい鋭さを持つと思っていた。

 でも──。

 世界が変わるのなら、絢音と一緒がいい。

 絢音と一緒に世界を眺めて、絢音と一緒にツラい時を乗り越えて、絢音と一緒に笑っていたい。

 この鋭い刃を向けても、絢音は逃げないでいてくれるだろうか。

 刃を柔らかく包んで、受け入れてくれるだろうか。

 アロマの香りが鼻をくすぐる。

 ずっと、否定してきた可能性。病気の晃宏を受け入れてくれる人が、どんなに晃宏が自分勝手でも見守ってくれる、離れないでいてくれる人がいる、そんな奇跡みたいな可能性。

 雨が降る中、クルクルと傘を回しながら、子どもが水たまりに長靴でダイブする。跳ねた水は結構飛んでいったのか、母親に注意されている。

 控えめにクルクルと子どもの頭上で回る傘を見る。ピンクのキャラクターの書かれた傘だ。

 絢音はまるであの傘みたいだと思った。

 晃宏の頭上に降っている雨を愛しいと思ってくれている。雨を防ぎながらも晃宏が楽しそうにしているのを見守ってくれる。

 絢音はいつもそんな優しさをくれていた。

 その優しさが晃宏の背中を押す。

 いつだって、晃宏の背中を押してくれるのは、絢音だ。

「あの──」

 晃宏は運転手に向かって口を開いた。


 タクシーが止まった。周りの建物からすれば小ぶりのアパートが窓から見える。

 正面玄関がオートロック機能で安心、と絢音は言っていた。誰か来たときは、入り口のインターフォンで、部屋の番号を押して呼び出すらしい。

 戯れに聞いていた絢音の部屋の話。Googleマップで場所まで調べた。あの時、調べて、履歴が残っていて良かった。

 タクシーの中で会いに行きます、と伝えたメールから続いたやりとりは、5往復を経て、絢音からの「待ってます」という言葉をもらえた。

 胸をさすりながら、息を整える。

「5分くらい待っていてもらえますか?」

 タクシーの運転手さんがアクリル板の衝立越しに無言で頷いた。

 インターフォンに指を載せる。指を上にあげて、初めて震えていることに気がついた。

 落ち着け、落ち着け。心で念じながら、ゆっくりと部屋番号を押す。もし、間違えて違う人が出たりしたら、ここまでにかき集めた勇気とか決意とかが、途端に崩れ落ちてしまうようで、慎重に慎重にキーパッドを押した。

 呼び鈴をいざ鳴らそうとすると──。

 ウイン。

 間の抜けた音とともに正面玄関が開いた。誰か来た。ちらりと向いたその先にいたのは──。

「晃宏さん」

 緩く髪を後ろに束ねた絢音だった。

 少し眩しい表情で、絢音が、晃宏をみている。

「絢音さん……」

 インターフォンを押そうとしていた腕がだらりと降りる。

 どんな顔をして会おうかと思っていた。

 会えたら、まずは謝って、それからハンカチのお礼を言って。

 絢音が、マスク越しに晃宏に微笑みながら頷く。

 その微笑みに、頭の中で思い描いていたモノが一瞬でくだけた。

 ずっと会いたかった。

 ずっと焦がれていた。

 声を聞いて手を繋いで名前を呼んで。

 はにかむような照れた顔と凛とした表情と柔らかい笑顔をもう一度見たかった。

 悪夢のような日常で、一筋の光をくれた絢音が、どれだけ大事な存在かなんてわかっていたはずなのに。

 なぜ、自分はこの手を離せたのだろう。

 なぜ、絢音が隣にいない電車に乗ることができたのだろう。

 自分が病気かなんて関係ない。

 晃宏の全身全霊をかけて大切にする。

 だから、この恋を許してほしい。

 たとえ、病気が絢音を苦しめることがわかっていたとしても、絢音を諦めたくない。

 抱きしめてキスをして楽しいときには笑って苦しいときにはそばにいてほしい。そして少し元気なときにはその瞬間を一緒に過ごしたい。

「絢音さん」

 気づけば、手を伸ばしていた。絢音の手を取って、なけなしの理性が働いた。

 その手を額に押し当てる。感染症の拡大する今はこれが精一杯だ。

「絢音さん、緊急事態宣言が終わったら、また秋葉原に来てもらえませんか?」

 絢音の手の温もりが懐かしい。

 少し細くなったかもしれない。その手がぎゅっと晃宏の手を握り返した。

「もう一度だけ、試してもらえませんか?」

 あやまろうと思っていた。

 お礼を言おうと思っていた。

 けれど、絢音の顔を見たら、その言葉しか出なかった。

 もう一度。もう一度、絢音の隣に。

 絢音からの答えがない。

 恐るおそる顔を上げると──。

 瞳に涙をいっぱいに溜めながら、絢音が頷いていた。

 何度も、何度も。

 晃宏の手を今度は絢音が頬に持っていく。頬に押しあてられた手のひらに絢音の涙が染み込む。親指でそっとその涙をぬぐった。

「絢音さん、ハンカチありがとうございました」

 絢音がうなずく。

「自分勝手なお願いでいつもすみません」

 絢音がうなずく。

「絢音さんのアロマのおかげで眠れるようになりました」

 絢音がうなずく。

「絢音さん、大好きです」

 はい、と涙に絡んだ返事は晃宏の心を暖かくした。

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