──会いに行きます。
晃宏からそのメッセージが届いたとき、はじめは一蹴した。
退院したばかりの体で無理をして良いことはひとつもない。感染症拡大でお見舞いに行けなかったのは残念というよりも不安が大きかった。晃宏の体調はメッセージから読み取れるものではなく、体は大丈夫ですか、と聞けば「大丈夫」と返すのが晃宏だからだ。
その気持ちだけで嬉しいです。
できるかぎりの気持ちを込めて送ったメッセージ。いつもだったら、きっとそこで終わっていたやりとりではないかと思う。そもそも一通目のメッセージから普段の晃宏だったら送ってこないような内容だ。ところが、今回はその後もメッセージが来た。
──5分だけで帰ります。
時間の話だけではない。移動時間が長くなるほど、晃宏には負担がかかる。
それをわかっていない晃宏ではない。何かあったのか。今すぐ会わないといけない何かがあるのか。
──久しぶりに外に出ました。街がすっかり寂れたように感じた。まるで誰かに侵略された後のような閑散とした街並みに、もし、これが世界の終わりだったらと考えました。
世界の終わりに誰と一緒にいたいか。その考えは、少しわかるような気がする。
──そして、世界が終わらないとしても、誰の隣にいたいのか。
本当には終わらない世界で。すべてが順風満帆とは言えないこの人生で。
スマートフォンに並ぶのはただの文字なのに、まるで晃宏の声が聞こえるようだった。
愛しさのにじむ言葉たちが絢音の胸のうちに降り注いでくる。
──いま、絢音さんに会わなかったら、後悔すると思うんです。
その言葉は切実で。
体調が悪くなると誰かに迷惑をかけるから。そうやって何かを抑えることに慣れている晃宏が言った想いを受け止めたいと思った。
わかりました。でも無理は禁物ですからね。
──もちろんです! あと30分くらいで着くと思います。
嬉しさが見えるメッセージに思わず笑みがこぼれる。
待ってます。
ありったけの想いを込めて、絢音もメッセージを送る。
急いで化粧をして、髪をセットしなおす。
普段着と言うには部屋着よりの服を外行きの服に着替える。これで良いだろうかと鏡で確認していたら、すでに30分近く経っていた。ベランダに出ると少し肌寒く、クローゼットからカーディガンを引っ張り出す。
ベランダから見る空は爽やかな青で、雲が気持ちよさそうに泳いでいる。絢音の住むアパートは、大通りから少し路地を入った区画に立っている。絢音の部屋のベランダから少しだけ見える大通りを眺めて、晃宏の乗っているタクシーがいないかを探す。タクシーが通るたびに、どきりとして、それがなんだか少しくすぐったい。
路地に入ってきたタクシーがアパートの前で止まる。迎えに行くことは考えていなかったが、晃宏の顔を見たら、玄関を飛び出していた。会いたかったのは、絢音も一緒だ。
深呼吸をして、正面玄関の前に立つ。ウインと自動扉が開く音に晃宏が振り向いた。少し痩せた頬に顎に残る無精髭。痩せたのだろう、服が余ったのか腰回りが少しダボついている。それでも、表情は明るい。
「晃宏さん」
名前を声に出すと、幸せで胸がいっぱいになった。もうずっとこの名前を呼びたかった。
「絢音さん……」
嬉しそうな、泣きそうな晃宏の表情に胸が締めつけられる。
晃宏が目の前にいて、絢音を見て、絢音の名前を呼んでいる。
晃宏が絢音の手を取って、額に押し当てた。晃宏の香りが、絢音の心を惑わせるような匂いが絢音を包む。
クラクラとしそうなその仕草に香りに、思わず目をつむる。
どうしてこの衝動を抑えられていたのだろう。
どうしてすがりつかずにいられたのだろう。
思いきり抱きしめてほしい。晃宏の匂いで満たしてほしい。そして、絢音も抱きしめたい。
「もう一度だけ、試してみてもらえませんか?」
晃宏の隣に。
電車の中で眠る晃宏の隣はとても居心地が良くて、穏やかな時間だった。起きたときに少し清々しい表情をするのも嬉しくて、生真面目に一番最初に頭を下げる、その仕草もおかしかった。
晃宏の隣にいる時間はとても優しくて温かで幸せだった。
その隣に、またいられる。
悲しくなんてないのに、涙がにじむ。どちらかというとほっとした。そんな涙だった。
頷いた声は涙に絡んで音にならずに、代わりに晃宏の手を絢音の額に押し当てた。
晃宏がふっと声を漏らすのが聞こえた。緊張が解けたような安心した笑い声。
「絢音さん、ハンカチありがとうございました」
ささやくような甘い声が絢音の耳をくすぐる。
顔が赤くなる。
「自分勝手なお願いでいつもすみません」
そんなことない。でも、もううなずくしかできない。
「絢音さんのアロマのおかげで眠れるようになりました」
晃宏の吐息が聞こえるようだった。
「絢音さん、大好きです」
胸がはちきれそうになる。ぎゅっと目をつむると、はいと声をだしたはずなのに「ひゃい」という音になった。
緊急事態宣言が明けたのは蝉の泣き始めた6月だった。
外出用の服は少しきつくなっていて、これはダイエットしなければと鏡を見ながらお腹を見下ろす。リュックにはタオルと飲み物、イヤホンに本を入れて。
少し迷って晃宏からもらったアロマをハンカチにつけた。それをお守りのようにカバンに忍ばせる。リュックを背負ってマスクをつけて、靴をはいて。外に出ると太陽の光が駐車場の車のフロントドアに反射してキラキラと光っていた。
緊急事態宣言が明けたとはいえ、人通りはまだ少ない。早朝の休日、マスクをつけたまま走る人がちらほらいるくらいだ。
不織布のマスクを改めて鼻まで持ち上げて、駅へ向かう。電車までの道のりが久々で、小学校の遠足の時のように足が浮き足立つ。
静まり返った豆腐屋を横目に通り抜ける。道路を挟んだ向こう側の公園では、カラフルなすべり台を小さな子が歓声をあげてすべり降りている。
駅前はマスクをしたコンビニ店員が気怠げに品出しをしていて、居酒屋は、夜の営業お休みです、という哀愁漂う看板を掲げていた。久しぶりに乗った電車は閑散としていて、まるで大半の人が寝坊してしまったみたいだ。
窓の外を流れていく景色を見ながら、もう何年も電車に乗っていなかったような気分になった。
晃宏の隣に座っていたのがひと昔前のような気分になる。
晃宏が絢音に会いに来てくれたことも、今では夢だったような気もする。メッセージのやりとりは続いていたけれど、それも何か交わらない世界からくるもののようにも思えて、なんだか現実味がなかった。
その中で、ただ晃宏が「好きだ」と言った、あの言葉だけが色濃く熱を持っていた。思い出して、思わず顔を伏せる。恥ずかしくてにやけそうになるなんて、高校生みたいだ。
ひとつずつ駅を数える。
もうすぐ、秋葉原だ。
山手線の乗り換え、いつもの集合場所まで早足で歩く。JRの改札前はさすがに人通りが増えていた。コインロッカーの前で少し俯き気味にスマホを眺めている晃宏が見えた。少し厚着なのか痩せたことも相まって、服が大きく見える。
晃宏が視線に気づいたのか、顔をあげる。目があった、と思ったら晃宏の顔がほころんだ。柔らかい笑みに、思わず駆け寄っていた。
「絢音さん」
「お待たせしました」
泣きそうだった。
もう二度と見られないと思っていた光景。
「大丈夫ですよ。今日はよろしくお願いします」
晃宏から切符を2枚渡される。
山手線1周、往復分の切符。
受け取ると、鼻の奥がツンとした。
絢音と晃宏をずっと繋げてくれていた2枚の切符。
思わず、顔を手で覆っていた。こんなのどうにもできない。
「絢音さん? 大丈夫ですか?」
「すみません、大丈夫です」
目に浮かぶ涙を手のひらで拭う。マスクがあってよかった。ぐしゃぐしゃの顔も半分は隠してくれる。
「行きましょう」
なんとか涙を飲み込んで、晃宏に笑いかけて身を翻す。無防備になった絢音の手は晃宏につかまれた。
「今日は」
晃宏が唾を飲み込む音が聞こえた。
「今日は手を繋いでてくれますか?」
ぎゅっと握られた手は痛いほどで、何も言えずに頷くと晃宏がほっとしたように肩の緊張を解いた。
「ありがとうございます」
そう言って、隣に立った晃宏は記憶よりも近くて、晃宏の匂いにクラクラした。
ホームに立つと風が絢音の前を吹き抜けていく。
反対側の電車が発車するアナウンスが流れ、弾むようなメロディがホームに鳴り響く。それとほぼ同時に、こちらの電車がまもなく到着することもアナウンスされた。
懐かしいその音が青空に吸い込まれていく。
「改めて、今日もよろしくお願いします」
晃宏の紺色の手袋が視界に入る。手を繋がれたまま、晃宏が絢音に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
慌てて頭を下げる。季節外れの手袋は絢音と手を繋ぐためにつけてきてくれたように思えて、なんだか申し訳ないようなこそばゆいような気持ちになる。
「あの、手熱くないですか?」
「いえ、最近は電車も窓を開けているんで、少し寒いかもと思って」
換気のために開けられた窓からは、確かに突風が時おり入り込んでくることがある。そうか、防寒かと思うと、少し思いあがっていた自分が恥ずかしくなってうつむいた。
「それに、手袋をしていれば、絢音さんと手をつなげますもんね」
その言葉に、今度は顔が赤くなるのを隠すためにうつむいた。晃宏がくれる言葉が絢音の心にゆっくりと染み込んでいく。
汽笛を鳴らしながら、ホームに電車が滑り込んできた。
目の前で開いた扉から二人で乗り込む。急がずとも座れた座席はいつもの場所で、晃宏の肩が絢音に触れる。晃宏の絢音の心を震わせるあの香りがより濃く感じられる。
「動画とか見ます?」
耳元で囁かれた声に思わず肩が強張る。少し視線をずらすと、晃宏が絢音を見ながら微笑んでいるのがわかる。
こんなに近かっただろうか。
こんなに晃宏の隣にいるのは緊張しただろうか。
「イヤホンした方がいいかもですよ」
音がすごいので、という晃宏の言葉は、外から入ってくる音にかき消されながらも、かろうじて聞き取れた。
スマホを取り出して片手でポチポチと文字を打つ。打っては消し、消しては打ち、早くしないと晃宏の眠る時間が少なくなってしまうと思うと余計に焦る。
もう見せてしまえと組み立てた文章を晃宏の前に出す。
『今日は動画を見ないで晃宏さんの隣を楽しみます』
絢音の手を握る力が強くなった。
握りしめられると余計に晃宏の手の大きさや体温が感じられて、ドギマギしてしまう。
「わかりました。では、何かあればいつでも起こしてくださいね」
そう言いながら、晃宏が目をつむる。
ゆっくりと沈み込んでいく体を見守りながら、ああ、抱きしめたいなと思った。
抱きしめて一緒に眠りたい。
その想いを胸の中で丁寧に噛み締めながら、窓の外を眺める。いくつか窓が開けられていて、ほかの電車とすれ違うたびに大きな音が車内に響き渡る。
だれしもがガスマスクのようにマスクで顔を覆っていて、まばらに空いた座席は、世の中が以前と同じではないことを物語っている。
その中でひとつだけ取り戻せた奇跡。
晃宏の頭が電車の動きに合わせて小刻みに揺れて、絢音の肩におさまった。柔らかい髪の毛が絢音の頬をくすぐる。晃宏の香りを強く感じて、思わず息を止めた。
晃宏に契約を持ちかけられて、電車で隣に座ることを約束して、近づいた気持ちはねじれかけていたけれど。
晃宏の香りが、熱が、そのねじれを解きほぐしていく。
少し痩せた晃宏の体。笑っていたけれど、マスクが少しもたつくほどに頬が痩せて、立っているのも辛そうに見えた。万全な体調のときの方が少ないだろうし、一緒に出かけるのも難しいかもしれない。
そのたびに、晃宏はきっと無理をするだろう。
晃宏が少し無理をするたびに、絢音は心が痛くなって、無理を通そうとするたびに、もういいよと言いたくなるのだろう。
それでも。
晃宏は笑うのだろう。絢音を励ますように。安心させるように。そして、精一杯笑うその顔に勇気づけられるのだろう。
晃宏が晃宏の病気に、慢性疲労症候群に立ち向かおうとするたびに、奮い立つのだろう。
晃宏が辛そうなら泣きたくなるし、晃宏が起きてこないか怖くなるときもあるかもしれない。
それでも。
それでも、隣にいたい。この気持ちが続くかぎり。たとえ、晃宏の慢性疲労症候群が完治しなくとも、その病気に押しつぶされそうになっても、立ち上がりたい。立ち上がって、倒れそうになる晃宏を支えたい。疲れたときには隣で一緒に休んで、毎日、隣で眠っていたい。
電車の外を建物と青空が駆け抜けていく。電車のアナウンスが感染症の注意を促し、向かい側に座った乗客はマスクをしたままでもわかるくらいにしかめ面で携帯を眺めている。
この混沌とした世界を生きていくのなら、晃宏の隣がいい。
絢音はそっと晃宏の頭に自分の頭をのせた。
折り重なった二人の世界が微睡に溶け込んで、絢音はいつのまにか眠っていた。
ごつごつとした感触に目が覚めた。顔を上げると、晃宏の微笑みにぶつかった。
「起きちゃいましたか?」
残念、とでも言うように晃宏が名残惜しそうに自分の肩を見つめる。
「絢音さんの寝顔が見られるなんて珍しいのに」
「あんまり、見ないでください」
直球な晃宏の言葉に思わず顔を覆う。惜しげもなく投げられる言葉をどうやって受け取ったらいいのかわからない。晃宏がふっと笑い声を漏らした。
その声を聞いて気づく。まだ、秋葉原に着いていない。
「眠れませんでしたか?」
次は有楽町と電光掲示板に出ている。秋葉原はまだまだ先だ。
「いえ、なんだか少しもったいなくて」
晃宏が絢音の手を握りなおす。
「途中で降りてみませんか?」
晃宏がちゃめっけを出しつつ絢音に言う。ご飯は食べに行ったことがあるし、イレギュラーに途中下車したことはあるけれど、その提案ははじめてだ。
「……もしかして、具合よくないですか?」
「バレました? ちょっと外の普通の風にあたりたいです」
少し顔が白い。次の有楽町で降りれば、晃宏も1本で帰れる。
「はい。降りましょう」
その言葉は轟音にかき消されたけれど、頷いた仕草は伝わったらしい。晃宏が片耳を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。もしかしたら、絢音が眠っている間、我慢していたのかもしれない。
電車がゆっくりとスピードを落としてホームに流れ込む。ホームドアが開くのももどかしそうに晃宏がホームへと踏み出し、一直線にベンチに向かう。
「すみません、ちょっともう倒れてしまうかもと思って」
晃宏が深い息をつきながら、晃宏に追いついた絢音に言う。
「いえ、我慢してもらわないほうが嬉しいです」
むしろ、これまで絢音がついてこれたということはそれだけ絢音に合わせていてくれたのかもしれない。
「ちょっと休めばよくなりますから」
「はい、大丈夫ですよ。ちょっと、車内の音は大きかったですね」
いつものようにゆっくりと背中をさする。途中で膝掛けも肩にかけて、水を渡す。
感染症の影響で、ホームにいる人はまばらだ。電車の中を駆け巡る風は冷たいけれど、ホームの外の風は暖かいくらいだ。ホームから覗く青空や高層ビルの窓が反射する光に目を細める。目の前では山手線が、反対側では京浜東北線が慌ただしく入っては出ていくのを繰り返す。
「絢音さん、ありがとうございます」
少し気分が良くなりました、と晃宏が体を起こす。顔色を伺うと確かに先ほどより血色が良くなっている。
「よかったです」
「すみません、せっかく来ていただいたのに」
謝る晃宏はどこか悔しそうで、痛そうだった。
「いえ、そんなことないですよ」
目まぐるしい世界の中で、緩やかな時間に包まれたベンチの上は、絢音には心地よくて、そこから見える世界はキレイだった。
「晃宏さんとでないと見えない世界です」
ホームのベンチに長く座ることはほとんどない。晃宏が一緒だからこそ、見える世界がある。それはツラい景色のときが多いかもしれないけれど、その中に、素敵な光景もきっとある。
絢音が笑いかけると、晃宏は、
「絢音さんには負けるな」
と笑いながら、体をおった。
左手で顔を覆いながらもう片方の手を伸ばして、絢音の手をとる。
「絢音さん、このあと時間ありますか?」
微笑むその頬は少し濡れていて、その姿と仕草に、また心に暖かさが灯る。
絢音はもちろん、と答えた。