打ち捨てられたような古ぼけたビルの一画に、いくつもの絵が飾られている。
その全容を眺めながら、俺は彼女が来るのを待った。
壁一面に貼られたその絵は、ぼやけ始めた視界の中で、絵の具を散らしたかのように滲む。
隙間の開いたスイングドアから流れ込む、雨が降り始める前のような湿った匂い。ガラス窓から差し込む光は、リノリウムの床に映った影を少しずつ伸ばしていく。
やがて夜が訪れる。
それでも俺は、彼女が来るのを待っていたーー。
『ワースレスの夜明けに』
埃が漂う退廃的なこの部屋も、カーテンの隙間から昼前の日が差し込めば、途端に粒子が踊るダンスホールへと変わる。
もちろん、ダンスホールになんて行った事はない。あんなのは心と懐に余裕がある輩が、有り余った体力を排泄する便所のようなものだ。けばけばしい人間の滑稽な躍動よりも、光に照らされた埃が優雅に舞うこの部屋の方が、俺には気高く美しいもののように感じられた。
人が何かを感じた時、それによって心が動き、新たな何かが生み出される。
夕焼けだろうが、青空だろうが、薄暗い部屋に舞う埃の粒だろうが、そんなシチュエーションの違いは瑣末なものだ。人はどんなものにだって美しさを見出し、感動する事ができると俺は信じている。
それはキカイには真似出来ない、とても尊くて価値ある、人間だけが持つ創造の力だ。
アラームが鳴った。
ベッドの枕元においたデジタル時計が、待ち合わせ10分前だと告げている。それに気づいた俺は絵筆を作業台の上へと無造作に転がし、やっと完成した一枚の絵を眺めながら何度も頷いた。
薄黒い夜空を切り裂くように流れ落ちる幾つもの流星。乱暴に絵筆を擦り付けて描いたそれは、荒々しさがむしろ力強さを表現している。
もう少し眺めていたかったが時間がない。俺はシャツの上に薄手のコートを羽織って部屋を出る。
錆びた鉄のような臭いが、俺の鼻腔へと無遠慮に流れ込んだ。
アパート2階の階段へと向かおうとすると、後ろから声をかけられる。振り返ると隣室である205号室のおばちゃんが、怪訝そうな顔で立っていた。
「あんた、昨日持ってった煮物美味かったろ? ちゃんと感想くらい言いに来たらどうだい!」
「は、はい。とても美味しかったですよ!」
俺は慌てて取り繕う。絵を描く事に夢中で、おばちゃんへの御礼をすっかり忘れていた。
「ならいいんだよ! 今晩はカレー作るけど、どうせあんたも食べるでしょ? 持っていくからね!」
おばちゃんはピンク色でボサボサの髪をかき上げると、ところどころ金属の光沢が光る歯を見せて笑った。言葉遣いは乱暴で、コミュニケーションが一方的なところはあるものの、おばちゃんはただ単におせっかい焼きのいい人だ。
こんな場末の老朽化が進んだ格安アパートに住んでいる人間など、俺も含めてどこかおかしな人間に決まっている。ただ、他人を騙したり陥れたりしないだけ、真っ当な人達だ。
「いや、今夜からしばらく仕事になるので」
「仕事ぉ?」おばちゃんの表情が曇る「仕事って、またあの『ワースレス』の仕事かい!?」
「は、はぁ」
「やっぱりかい! あたしはいつも言ってるからね! あんな世捨て人みたいな仕事、早くやめろって!」
おばちゃんは光沢が目立つ歯をギリギリいわせる。
「まともな仕事が見つかれば、そりゃ辞めーー」
「あんた知ってんのかい? ワースレスってのは、最後は『首なしになって帰ってくる』んだってよ!?」
言い終える前に、おばちゃんが被せる。俺は苦笑して、腕時計を見るふりをした。これ以上足止めされると、確実に待ち合わせに遅刻する。
「すみません。待ち合わせに遅れそうで」
「そうかい、ならさっさと行きな! カレーは取っとくから、仕事から帰ったら取りに来な。知ってるかい? カレーは一晩おいた方が美味いんだよ!!
「ありがとう、ご馳走になります」
俺はおばさんに頭を下げると、急いで錆だらけの階段を駆け降りた。
『ワースレスは首なしになって帰ってくる』
なるほど、言い得て妙ではある。
俺達の仕事を揶揄するために生まれた言葉だったが、今や初老のおばちゃんの口からも聞けるほどに一般化してしまった。
別に憤りはない。
憤るべきは、そんな仕事につかなければ夢の一つも追うことが出来ない、無価値な自分自身に対してだ。
ただ、今更そんな事で感情を乱されるほど、俺は現実から目を逸らしちゃいない。全て咀嚼し、飲み込んだ上で、俺はそんな自分を受け入れている。
駆け足で待ち合わせのファミレスへと向かう。
履き潰したスニーカーが、ザラついたアスファルトを擦った。