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第36話:私の創りし作品

 その筆は、音もなく、彼女の足元に転がり落ちてきた――



   *   *   *



 数値を眺める毎日だった。


 現代社会に適応出来ないまま『無価値者ワースレス』として生きる者達の感情は、やはりどこか歪だった。

 無差別な嫉妬、ぶつけどころのない怒り、グラつく足元に向けられた悲哀。触れるものを激しく傷つけそうな形状をした、彼らのレーダーチャートを眺めながら、サクラコは溜め息を吐く。


 自分が生み出したこの技術は、もっと素晴らしい作品を作り上げてくれると信じていた。美しい『感情』、鮮やかな『記憶』を持つ者達が、そのグラフを重ね合わせることで、神に近い芸術作品が生まれるものと信じていた。


 でも実際は、そうではなかった。


 クズどもが吐き出す、どぎつい原色の吐瀉物を、ミューズというキャンバスに塗り付け、あたかも高尚な芸術作品のように見せかけようとする。

 でもそれは、視認性とわかりやすさを追求した、道路の隅の交通標識のようなものだ。

 そこに芸術性などない。

 ただ、大多数の目に留まり、最低限のメッセージのみを伝えるだけの『当たり障りなさ』があるだけだ。


 私は創作者になりたかった。

 美しい物語を、美しい感情で表現し、至高の一作を書き上げたかった。それが出来るのなら、自分の命などどうなってもいいと思っていた。


 でもそれは、今となっては遠い昔の夢だ。


 今日も機械仕掛けの神の僕として、ゴミクズを漁り、無造作に口へと押し込んで、なんの価値もないゴミを作らせる。

 そんな毎日だった。


 ある日、流れてくるデータ一つに目が止まった。


 それは限りなく理想的な『感情』を示していた。怒り、悲しみ、喜び、恐怖――数多の感情が恐ろしいほど均衡がとれた形で並んでいる。

 まるで本物の神が生み出した黄金比だ。

 機械仕掛けの『それ』が生み出す紛い物とは訳が違う、本当の芸術というものを、サクラコは目の当たりにしてしまった。


 しばし唖然としたまま、そのデータを眺める。次の作業の事など忘れて、10分ほどそのデータを眺めてから、思い出したように抽出元のリンクをクリックした。


「ソラト……」


 そこに書かれた名をつぶやく。


 美しい感情を生み出せるこの青年も、結局は他の無価値者ワースレスどもと同じようにぞんざいに扱われ、擦り減り、砕けて、壊れていくのだろう。


 この社会は、神の与えた聖典で、汚物を拭う。


 しかし、それは正しい摂理なのか?


 サクラコの中に小さな疑問が生まれる。


 その答えは――NOだ。


 その感情はやがて独善的な使命感となり、自身の持つ欲望と結びついていった。


 彼女は、創り出したかった。

 自分自身の手で、自分自身が求める『真実の愛』物語を――


 彼女の前に転がり落ちて来た筆は、それを実現してくれるはずだった。



   *   *   *



「怪我の具合はどうだね?」


 いつものように、事務机の椅子に腰掛けたサクラコ先生は、薄く引き延ばされた唇の端を小さく吊り上げて、笑った。


 表向きはハピポリスの暴徒による傷害事件――実際のところはイカれた男の私怨による暴走から、2日が経った。

 さんざん殴られて身体中に赤黒いあざが残ったし、関節を外された左肩は、まだ妙な違和感と痛みを覚える。でも、その程度だ。

 あれだけ痛くて死を覚悟したのに、2日も経てば回復していく。人間の身体も、心も、痛みに対しては健忘気味だ。それはきっと、自分自身を守るために、そうなるべくしてそう設計されたのだろう。


 俺はいつも通りパイプ椅子に座り、どこか得体の知れない笑みを浮かべるサクラコ先生と向き合っている。部屋の中央にはもはや見慣れてしまった記憶抽出装置。まだウォームアップタイムであり、低い作動音を響かせていた。


「悪く、ないです」


「そうか。ならよかった」


 そっけない返事の後、サクラコ先生はPCに向き直る。キーボードを叩きながら何かを打ち込んでいるが、俺にはよくわからない。


 そう、わからない。


 この女性の真意が、俺にはわからない。


「質問、いいですか?」


 機械の唸り声にかき消されないよう、それでいて不自然に響かないよう、注意を払いながら俺は言う。


「ん、なんだ?」


 俺に背中を向けたまま、サクラコ先生は答える。


「なんで、俺を助けたんですか?」


 少し戸惑い、くぐもってしまった声。


「そりゃあ、同僚である調査員二人が死にかけていたら、助けるのは当然だと思うが?」


 その声をしっかりと聞き取り、サクラコ先生は当たり障りのない答えを返す。


「すみません、そう言う意味ではなくて……」


 俺は少しだけ俯いた。しかし意を決して顔を上げ、語気を強める。


 サクラコ先生は、まだPCの画面を眺めている。


「俺たちは、あの男に狙われていることを、誰にも伝えていませんでした。それなのに、先生はあの場所に来てくれた。きっと俺のデバイスの位置情報を辿ったか、街のカメラ映像を調べたか……」


「何も不思議なことはない。あの――ジョシュアという青年が君の連絡先を会社に尋ねた事で、事のあらましはある程度だが察する事ができた。あの男が逃走げたという情報も入っていたしな。だから念のため、君たちの動向に注意していたんだ。でもまさか……あんな事態になってるとは思わなかったよ」


 つまらなそうにサクラコ先生は言う。


 俺は右手で左腕を掴んだ。力を入れると、男に外された左肩の関節が少しだけ痛んだ。


「それは、その、本当に感謝しています。でも……そこまでしてくれる事が、やっぱりおかしいです。俺たちワースレスは、会社にとって代わりのきく存在です。死のうが生きようが、大した問題じゃない」


「いや、そんな事はないさ」


 感情を押し込めたような、不自然な声音。


「批判する気はありません。俺はそういうものだと理解して、納得して、この仕事をしています。今まで、捨て駒として扱われている他のワースレスを、俺は何人も見てきましたし……」


 俯く。ベージュ色の床材に、ゴムの擦れた黒い跡が見える。


「でもあなたは、俺の周りの不穏な動向をわざわざ調べて……あの保証部を招集までして、俺の命を助けてくれました。こんな何の変哲もない、平凡なワースレスを――」


 俺は顔を上げる。


 サクラコ先生はこちらに向き直り、組んだ腕で頬杖をついていた。


「先生は、なんで俺なんかを、助けたんですか?」


「『君のことが好きだから』、という理由では、納得出来ないかね?」


 被せ気味に返されたその言葉に、俺は面食らう。

 サクラコ先生は、そんな俺の反応を楽しむように目を細めた。


「君は凡百な調査員とは違うよ」


「そんな……俺は、ただのワースレスです」


「ちがう! 君は、天才だ」


 サクラコ先生は声を荒げた。その『天才』という言葉に、喜びより先に戸惑いを覚える。


 サクラコ先生は立ち上がり、ゆっくりと、俺の元へと歩み寄る。


「生まれる時代が違っていたら……きっと君は、歴史に名を残す、素晴らしい芸術家になったはずだ」


 彼女は俺の前に立ち、椅子に座った俺を見下ろす。


「でも、この社会の中じゃ、君は神経過敏な弱者でしかない。心を殺してキカイの歯車になる事の出来ない、社会不適合者の一人にすぎない」


 細く白い手が伸びる。

 俺の左耳に触れ、後頭部を撫でる。


「でも私は、そんな君が好きだし、救いたいと思っている」


 もう一方の手が俺の後頭部に回される。顔を上げると、熱のこもった目で俺を見下ろすサクラコ先生と目が合った。

 赤い唇の隙間から、薄桃色の艶やかな舌がのぞいている。俺の後頭部を撫でる両手は、まるで餌を貪る未知の生物の触手のように、徐々に力強く、乱暴になっていく。


 戸惑いをさらに通り越し、俺は恐怖を覚えた。


 知性で感情を包み込んでいた目の前の女性。その唇の隙間から、押し留めていた感情が濁流のように迸る。

 押し倒された木屑や、削り取られた小石が混じった、乱雑で暴力的な感情の濁流だ。


「だから私は、使


 しゃがみ込み、俺と視線の高さを合わせた。唇の隙間から漏れた吐息は熱く、人の匂いと、ミントのような香りが混じっていた。


「どういう事ですか……?」


 俺は尋ねる。

 声が震えてしまう。


 サクラコ先生は立ち上がり、唇を三日月のようにひしゃげさせて、わざとらしいほど露骨な笑みを作った。踊るようにPCの前へと舞い戻ると、マウスを操作して画面を変える。


「ほら、ここのピークを見てくれ。本当に、本当に理想的なバランスなんだ。君の生み出す感情は、まさに奇跡の産物だ」


 まるで自分の書いた絵を、誰かに自慢するような口調だった。そう感じたのは、その高揚した様子が幼い頃の自分と重なって見えたからだ。

 上手く描けた絵を、母さんに褒めてもらう時のような――


 でも残念ながら、俺には彼女が見せたいものがわからない。俺にとってPC画面に映るそれは、単なる線の集合体にしか見えない。人に見せるのも憚られる、未完成の絵となんら変わらない。


「君が調査員となって、あのバディの女性と出会った日の、微弱な揺らぎ……。最初は恐怖、でも徐々に信頼へと変わり、やがて愛へと発展していった。でもその思いは絶対に報われない……。見返りのない、一方的な感情。それ故に真っ直ぐで、美しい」


「それって、アオイの――」


 俺は顔が熱くなるのを感じた。

 この女は、俺の内面にどこまで踏み込んでくるのだろうか。

 混ざり合ういくつものサンプルの一つとして、提供し続けていた俺の感情。それが知らぬ間に抜き取られ、瓶の中で個別に保管され、眺められていた。


 屈辱だった。


 心の奥の、最も柔らかい部分に、爪を立てられるようだった。


「人同士の思いが交われば、どこかに負荷が生じて、均衡が崩れるものだと考えている。その点で、調査員の中に、あの女を見つけられたのは理想的だったよ」


 そう言って、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。その場違いさに、俺は背筋に冷たいものを感じた。


「絶対に出会う事の出来ない婚約者を、一途に思い続ける哀れな女。その真っ直ぐな目に惹かれ、やがて女に思いを募らせる男……。お互いが一方的で、交わる事のない想い。君たちは、私が作り得る、もっとも理想的なバディだった」


 頬を赤らめ、嬉しそうに彼女は語る。


 しかし俺は、言葉の端々に含まれた事実に、血の気が引いていく。


 絶対に出会う事が出来ない婚約者?


 私が作り得る理想的なバディ?


 俺の疑問を察したように、彼女は頷く。


も、がなければ、ミューズという白紙に物語を描く事はできないだろう?」


 笑った。

 ステージからの拍手喝采を受け止めるように、両手を広げて見せる。


「君の心に一途な愛を生み出すため、『命の道標』被験者の女と巡り合わせたのは、私の采配だよ」


 その言葉は、俺の心に刺々しく響く。傷つけられたガラスが放つ、耳障りな悲鳴みたいだ。


「私が、君という作品を創ったんだ」


 そこには、賞賛の言葉を求める、幼い頃の俺がいた。



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