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第35話:積み重ねたもの

 ホメロス精神医学研究所のツツミ・セイシロウ所長は、液晶画面に映った文面を読むと、使い古したオフィスチェアにもたれ掛かり、加熱式タバコのフィルターを咥えた。

 数年前から、所長室でタバコを吸う事が常習化してしまった。定められた場所以外での喫煙に、最初は研究所の職員たちも眉をひそめていたが、次第に誰もが眉一つ動かさなくなった。

 研究所は、忘れ去られた物置き部屋のような、重く澱んだ空気がゆっくりと漂っていた。


 画面に映るのは『命の道標被験者から、6人目の死者が発生した』と題された一文。


 たしか、当時40を超えた中年の女だった。遅くして産まれた子供を愛情深く育てていたものの、不注意による事故で子供を亡くしてしまう。夫は彼女を責め、やがて離れていった。そして遂に、彼女は心を壊した。

 セイシロウ達は、『命の道標』の技術を用いて、彼女にかりそめの希望を植え付けた。それは子供と共に過ごした20年の記憶だ。立派な大人となった子供は、今は海外で働いている。そう思い込ませることで、彼女は再び日常へと戻っていった。


 それから8年。


 日常の中の矛盾から記憶の剥離が悪化した彼女は、真実を思い出し、絶望の中で自ら命を絶った。


 文章は『命の道標に関する研究の無期限凍結』との一文で締めくくられていた。


 セイシロウは二本目のタバコを専用デバイスに差し込み、口に咥えた。


 自分は間違っていたのだろうか?


 足を怪我した者たちが、自らその傷を癒やし、再び自分の足で歩き出す。

 それまでの僅かばかりの支え、心に寄り添う杖として、『命の道標』と言う技術は生み出された。この技術は、そんな対症療法的な技術のはずだった。


 しかし蓋を開けてみれば、誰もがその杖を、自分の足と思い込んでしまった。


 人は弱い。

 自分の手の中にある小さな『希望』に、いつまでも縋ってしまう。それに満足し、新しい『希望』を見つけようとはしない。


 失敗の原因は、そんな人の弱さを考慮しなかったところだろうか。


 通信用デバイスが鳴った。

 画面には、本部の研究所に勤めている『ヤマダ・サクラコ』の名が表示されていた。


『そちらの検体、ナルカミ・アオイを今から搬送する。肉体的な怪我の治療は済んでいるが、記憶の剥離が見られたため、薬で眠らせてある。どうするかは、そちらに任せる。詳しくは指示書を読んでくれ』


 感情を押し殺した、機械然とした彼女の発言には辟易する。大学時代から、この女はそういう低体温気味なところがあった。大切な物は命をかけてでも守るが、そうじゃないものへの共感性が極端に低い。

 ナルカミ・アオイは、彼女にとって後者なのだろう。セイシロウはそう納得した。


「そういや、そっちに異動してった部下から情報が上がってきた」このまま電話を切るのも味気ないので、気になっていた疑問を投げかけてみる。「お前、ワースレスの一人にやたら執着してるようだな?」


 サクラコは答えなかった。

 電話の向こうで、息を呑む音が聞こえたような気がした。


「ナルカミ・アオイはそいつのバディだろ? それにしては、対応がおざなりじゃねーか」


 なにか確信があったわけではない。

 ただ『宗教間の争に撒き込まれた』とされている今回の一件に、どことなく釈然としないものを感じていた。

 人為的に混濁させた不透明さを、セイシロウは良しとしない。電話口の女も、自分のそんな性質を理解しているはずだった。


 サクラコはため息を吐く。

 それが拒絶の意図を示している事に、勘のいいセイシロウは当然気が付く。

 しかし無言で、彼女の言葉を促した。


「彼女はもう、使


 ノイズのように微かに、サクラコは言った。

 それが、彼女の偽らざる本音である事が、セイシロウにはわかった。だからその言葉の意図するものはわからなかったが、それをそのまま飲み込む事にした。


「連絡ありがとう。今度、飲みにでも行かないか? もしかしたら、俺の送別会になるかもしれないぜ」


「そうか。遠慮する」


 手短に拒絶し、サクラコは電話を切った。

 その返答を予想出来ていたセイシロウは、口の端を上げて笑う。



   *   *   *



 そして――


 セイシロウはベッドで眠るナルカミ・アオイを見る。


『命の道標』の検体として、彼女に『希望』を書き込み、送り出してから、相当の年月が過ぎた。

 目の前の少女はもう少女とは呼べない年齢だが、無防備なその寝顔から受ける幼さは、あの頃と変わらないような気がした。


 彼女に貼り付けた『記憶』の定着が、他の被験者同様に弱まっている――彼女の維持管理を担当していた研究員からは度々そんなエスカレーションがあった。

 ワースレスのルーティーンである『記憶の抽出』に合わせて、記憶の定着処理を試みてはいた。しかし、雨風にさらされた看板の文字のように、彼女の『希望の記憶』は日に日に薄れていった。


 そして今回の件で、完全に記憶が剥離したとの情報が入っている。


 この女も、他の奴らと同様に絶望し、心を壊し、いずれは命を絶つのかもしれない。


 ゆっくりと上下する胸を、なんの気無しに見ている。はめ殺しのガラス窓と、重たくて厚いドア。空調でのみ管理されたこの部屋は、なんとなく息が詰まった。ポケットの中のタバコに指先で触れ、その無意識下の行動で、自身の緊張を悟る。


 あれから8年、お前は新しい人生を歩んできた。


 その中で一つ――何か一つだけでも、お前をこの世界に繋ぎ止めてくれるものを、見つけていてくれないか?


 唾液の嚥下と共に蠕動する白い首は、8年前に締め付けた時と同様に、折れてしまいそうなほど細かった。


 やがて、長いまつ毛が小さく揺れる。


 セイシロウはその挙動に気付き、息を呑む。


 ゆっくりと、鱗翅目の蛹の背が開くように、ナルカミ・アオイは目を開けた。


 その瞳孔は、窓の遮光を受けて一瞬収縮し、やがて白い天井に焦点を結ぶ。


「目が、覚めたか。ここは病室だ。ゆっくりしてるといい」


 セイシロウはそう呟いて、こちらに向けられたアオイの視線から目を逸らした。

 噛み砕き、咀嚼し、飲み込むような沈黙の後、アオイは掠れた声で言った。


「どこに、いったの……?」


 その質問に対する答えを、セイシロウは何度も心の中で反芻していた。反芻し、擦り切れて、薄っぺらくなったその言葉を、セイシロウは苦虫を噛み潰したような表情で吐き出す。


「お前の恋人は、存在しない。あれは、俺たちがお前の脳内に刷り込んだ偽りの記憶だ。希望を失ったお前に、再び生きる希望を見出してもらうために――」


「そうじゃない」


 セイシロウの言葉を遮るように、アオイは言った。顔を上げたセイシロウは、真っ直ぐに自分を見つめる視線に気付く。


「わかってる。もう、理解してる。でも、そんな事はどうでもいい――」


 アオイはゆっくりと噛み締めるように言う。


「ソラトは、どこにいるの?」


 予想しなかった名前にセイシロウは言葉を失う。


「ソラトっていうのは、私のバディだよ。あいつ、弱いくせに無茶苦茶やって、めっちゃ怪我してた……。大丈夫か知らない? 教えて欲しい……」


「あ、ああ」


 セイシロウはポケットから加熱式タバコを取り出し、専用デバイスに差して、口に咥え――その無意識の行動に気付いて、慌ててタバコを抜き取る。


「お前のバディは、無事だと聞いている。怪我はしているが、命に別状はない。今は本部の研究所に併設した医療機関で治療を受けている」


「そっか……よかった」


 アオイは微笑んだ。

 彼女の本物の笑みを、セイシロウは初めて目の当たりにしたような気がした。


「心配、なんだな」


「まあ、そりゃね。私、来なくていいって言ったのにさ、勝手に駆けつけてボロボロになって。『私を殺させないために、絶対倒れない』とか、わけわかんない事言って……。こんな、私なんかのために、さ」


 悪態を吐きながらも、その目は輝いている。


「だいたいあいつ、バカなんだよ。弱いくせに、強い奴に無策で立ち向かおうとするし。でも、ムツキを前にすると、めっちゃビビってさ。ガクガクしながら『アオイー、助けてー』って……」


 声真似をした後、激しく咳き込む。

 さっきまで寝込んでいた身なのに、起き抜けで喋りすぎだ。セイシロウはそう注意しようとも思ったが、アオイ本人もその事に気付いたようで、バツが悪そうに笑った。


 言葉が途切れ、沈黙が訪れる。


 探るようなセイシロウの視線に気付き、アオイは先程とは違うゆっくりとした口調で言った。


「ここ、覚えてるよ。8年前、自殺しようとした自分を治療してくれた病院でしょ」そしてアオイは揶揄うような笑みを見せる。「あんたの事も覚えてる。ツツミ・セイシロウ先生……」


 セイシロウは頷き、次の言葉を促す。


「婚約者の事は――正直、どう受け止めていいのかわからない。でも、なんか不思議なんだよね。そんなに、悲しくはないんだ。なんでだろ? 歳を重ねて、鈍感になっちゃったのかな?」 


「それは、本当の自分の足に気付けたからだ」


「は? 自分の足?」


 意味がわからない返しに、アオイは首を傾げる。

 セイシロウは手の中のタバコを弄び、視線を天井へと向けた。埋め込みエアコンの吹き出し口で、小さな埃の塊が、ひょうきんに踊っている。


「婚約者に代わる、大切なものを見つけられたって事だろうな」


 その踊り狂う埃を見上げながら、言った。


 アオイはセイシロウの言葉を受け、視線を虚空に泳がせる。やがて、その顔がどんどん赤く染まっていく。


「ち、違う! ソラトはそんなんじゃないから! 勘違いしないでよ!」


 取り乱すアオイを見て、セイシロウは自分の読みが当たっていることに気付いた。


『些細なものでも構わない。小さな喜びの積み重ねが、大きな生き甲斐につながってく――』


 8年前、どこぞのカメラマンがそんな言葉を吐いていた。今まで忘れていたどうでもいい記憶が、少女のように取り乱す彼女の姿に呼応して、フラッシュバックする。


 そいつの言葉を借りるなら――彼女は、積み重ねていた。


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