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第34話:路上に転がる絶望との再会④

 右足が勝手に地面を蹴っていた。


 前のめりになり、転びそうになりながら、俺は目の前の悪魔へと走り、拳を振り下ろした。


 しかし、その拳は空を切る。


 背中に衝撃を感じた瞬間、下顎からアスファルトの地面に叩きつけられた。奥歯が軋み、顎の関節が振動する。

 俺は伸ばした手で男の脚を掴み、アオイから引き離そうとする。その手は一蹴され、側頭部に衝撃を受けて転がる。


「あのなぁ……」男は溜め息を吐く。「バカな獣みたいに、無策に突っ込んでくるんじゃねぇよ。興が削がれる……」


「うるせぇ! よくもアオイを殺したな!」


「まだ殺しちゃいねぇよ。まあ、虫の息だろうけどな」


 男はつま先でアオイの脇腹を小突く。アオイは何の反応も示さず、人形のようにされるがまま受け入れている。


 近くで見ると、胸が微かに上下しているのがわかった。しかし、虚に開かれた目からは、生気というものが一切感じられなかった。

 決して死を受け入れず、いつだって強い意志をたたえていたアオイの目。それが今は、死のプールの底を漂う死にかけの魚のように、輝きを失い濁り切っていた。


「アオイに何をした……」


「腕に一発、脚に一発。ああ、右手にもナイフを突き刺してやったか」


 事もなげに男は言う。


「なんで、こんな事を?」


「あー、説明がめんどくせぇ。お前が納得しようがしまいが、どうでもいいんだよ。俺の試練にはたいして関係ないしな」


 俺は起き上がる。

 先程蹴られた左頬が熱をもって、鼓動みたいに嫌な痛みを主張している。


「お前は、アオイを、殺すのか?」


 頬に痺れを感じながら、俺は問う。


「ああ」


 悪びれる様子もなく、男は頷いた。


 俺はその憎らしい面に、握りしめた右手をぶつけようとする。しかしそれは想定していた軌道を外れ、再び空を切った。

 そしてその直後、腹部に男の膝がめり込んだ。


 俺は転がり、嘔吐した。


 息が出来ない。


 苦しい。


「なんだろうな。神聖な儀式の最中に、どっかの馬鹿な野良犬が乱入して暴れている。場違いで、滑稽。そんな、なんとも居た堪れない感情だ」


 男は汚物を見るような目で、俺を見下している。


「銃弾は限られてるからあまり使いたくないんだよな。それに、神聖な試練の血で染まったナイフを、お前みたいな弱者の血で汚すのも気が引ける」男はわざとらしく声をひそめる。「なあ、今は尻尾を巻いて逃げ出してくれないか? お前の事も、これが終わったらかまってやるから」


「俺が逃げたらアオイを殺すんだろ!」


 叫んだ口から吐瀉物が飛沫となって弾ける。


「わめくな、さっきからそう言ってんだろ」


 男の足の裏が胸にめり込む。


 仰向けに倒れ込み、アスファルトで後頭部を打つ。


 意識が朦朧とする。


 痛い。


 痛い。


 このまま横になっていれば、俺はこの痛みから解放されるのだろうか。


 ぼやけた視界の先。

 男がアオイに向き直り、ナイフを構えている


 ダメだ。


 ここで休んでしまったら、アオイは――


「はあ? まだ起き上がるのかよ……」男の声がどこか遠くで聞こえる。「下衆な生き物ほど、しぶといんだよなあ」


 側頭部に衝撃。


 固いアスファルト。


 引っ張られる左腕。


 身体の芯から響く鈍い音


 そして肉が引き裂けるような痛み。


「左腕を外しといた。少し動くだけでも気が狂うほど痛いだろ? わかったらそこで寝ていてくれ。俺は今、忙しいんだ」


 視界がチカチカと明滅する。


 口の端から血なのか唾液なのかよくわからない液体が流れてくる。


 もう嫌だ。


 無理だ。


 アオイ――


 視線の先、アオイはまだ呆けた顔で虚空を眺めている。


 俺がどれほど身を捧げようとも、俺に与えられる称号は、単なる無価値者ワースレスのバディでしかない。


 わかってる。


 アオイの中にはいつだって『婚約者』がいて、その場所に俺が立つ事なんて、出来ない。


 わかってる。


 いずれアオイは婚約者と一緒になり、俺とのバディは解消されるだろう。そうなれば、俺との脆弱な繋がりなんて、跡形もなく消えてしまうに違いない。

 今までのバディだってそうだった。

 無価値者ワースレス同士の関係性なんて、その場限りの、かりそめのものだ


 その程度の相手のために、俺はなぜ意地を張っているんだろう。痛い思いも、怖い思いも、人一倍嫌いだったはずなのに。


 ここでずっと、痛みに怯えながら石ころみたいに転がってたって、きっとアオイは俺を恨まないだろう。 


 俺は……俺たち無価値者ワースレスは、死ぬ時はいつだって一人なんだ。


 そんなこと、わかってるんだ。


 でも――


 それでもアオイは、いつだって俺を助けてくれた。


 たまに暴走して、面倒ごとに巻き込まれることもあるけど……アオイはいつだって、バディである俺の隣に立ってくれた。


 痛みで頭がおかしくなりそうなはずなのに、なぜだか頬が緩む。アオイとの日々を思い返すと、なぜか笑いが込み上げてくる。


 俺が逃げたって、アオイは俺を恨まない。


 でも、逃げてしまった俺を、


 ああ、バカだ俺は。


 頭を打って、きっとおかしくなったんだ。


 たとえ、俺とお前の関係が、この一瞬だけのものだったとしても……


 俺は、アオイの――


「……とち狂ったか?」


 笑いながら、ゆっくりと立ち上がる俺を見て、男は苛立たし気に呟く。


「頼む、これ以上、俺の試練にハエみたいにたからないでくれよ。握りつぶしたくなってしまう」


 横っ面に衝撃。


 よろけ、踏みとどまる。


 すぐさま腹部への鈍い衝撃。


 のけぞりながらも、後ろ足で地面を踏む。


 そこへ関節を外された左肩への衝撃。


 脳天にナイフを突き刺されたかのような痛み。絶叫と一緒に吐き出されそうな弱音を、噛み殺す。


「……なんなんだ? おまえ」


 男が問う。軽薄だったその表情が、今は引き攣っている。


「もし、俺が、倒れたら、お前はアオイを、殺すんだろ?」


「ああ」


「だから、絶対に、倒れない」


「はあ? それが何の意味がある? このまま殴られ続ければ、遅かれ早かれお前は死んで、あの女も死ぬぞ?」


「そうかも、しれない」そんな事、わかってる。「でも、俺が立っている間は、しない、だろ」


「バカだろ」


「俺も、そう思う」


「クソが」


 男は地面に唾を吐き、足先でそれを擦った。


「お前は知らないだろうけどな、人ってのは案外簡単に死ぬんだよ。例えば俺がお前の首を片手で握り潰せば、簡単に息の根を止められる……」


 男の声は穏やかだった。


 しかし、抑えきれない苛立ちが、蒸気のように立ち上っている気がした。


 何が試練だ。


 怒りに支配され、てめーは何一つ成長しちゃいない。


「やって、みろよ、サルが」


「いいだろう」


 言うが早いか、男の右手が俺の首を鷲掴みにした。まるで猛獣の牙だ。喉が締め付けられ、出したくもないのに掠れた声が漏れる。

 剥き出された眼球が、破裂しそうに痛い。


 視界が掠れる。


 アオイ。


 俺はアオイを見た。


 アオイの目に光が宿り……


 俺と、目があった。


 ――まだ死ねない。


 俺はコートのポケットに手をいれる。そこには、家を出る前に意味もなく突っ込んでいた、ペインティングナイフ。

 いや、意味がないかは、まだわからない。


 次の瞬間までわからない。


 俺はナイフの柄を握り、その貧弱な先端を、男の首に突き刺した。


 ナイフは何の抵抗もなく、男の首から胸にかけて、吸い込まれていった。


 あ゙


 男の口から変な声が漏れる。


 弱まった手を振り解き、俺は男の脇腹を蹴飛ばして、離れた。

 男は目を見開き、俺を睨みつけている。

 口からは血の泡が吹き出し、顎を伝って、地面に滴っている。


『もういい』


『今すぐお前を、殺してやる』


 男の目がそう語っていた。

 何の迷いもなく、銃口が向けられる。


 死へと誘う黒い穴が、俺を見つめている。


 逃げてくれ、アオイ――


 響く銃声。

 俺は痛みを覚悟して、目を瞑った。


 しかし痛みは訪れない。


 前方で重たい何かが擦れるような音がした。見ると、男は右腕を押さえ、地面に倒れ込んでいる。


 何が起こったのか全くわからない。


「大丈夫か、ソラトくん」


 背後から女性の声がした。その声には聞き覚えがあるはずなのに、この場所とのギャップによって、しばらくそれが誰なのかわからなかった。

 彼女はいつも、研究室の白い部屋で笑っている。こんな薄暗く汚れた場所には、なんだか不釣り合いなような気がしたからだ。


「サクラコ、先生……」


 研究所のヤマダ・サクラコ先生がそこにいた。

 不安げな顔で、俺の目を見ている。瞳孔の動きを観察しているのかもしれない。


 彼女の後ろには武装した3人の男。一人が持つ自動小銃の銃口から硝煙が上がっているところを見るに、この銃弾が男を襲ったのだろう。


「脳は……問題ないようだな。よかった……」立ちすくむ俺の頭を抱き、後頭部のソケットを撫でる。「もう大丈夫だ。どこか痛いところはないか?」


「だ、大丈夫です……」


 急展開による混乱の中で、俺はサクラコ先生の白い服が、俺の血や吐瀉物で汚れてしまう事がなぜかとても居た堪れなく感じた。


「すぐに、精密検査を受けよう」


「俺の事より、はやくアオイを――」


「わかってる」


 サクラコ先生は俺の頭をもう一度撫でると、倒れ込む男の方へと向かった。

 武装した一人がサクラコ先生を制止しようとするが、先生は首を振って拒否する。それならば、と一人が拳銃を手渡し、サクラコ先生はそれを受け取った。


 先生の細い手に、その銃はあまりにも大きく見えた。



   *   *   *



 私は、倒れ込む男の前に立った。


 口から血を流した男は、憎しみのこもった目で私を見上げている。


「話が違うじゃないか、とでも言いたげだな?」


 私は、男にだけ聞こえるほどの小さな声で囁く。男の目が更なる憎しみに染まるのを感じて、私は無意識に笑ってしまった。


「それはこっちの台詞だよ。女の方は好きにしろと言ったが、男の方はダメだ。そういう取引だったはずだが?」


 男の口から血が溢れる。


「やりすぎだよ」


 私は銃口を男の頭に押し付けて、引き金を引いた。


 血が飛び散って、私の頬にあたる。

 生温かくて不快だ。


「こいつ、まだ銃を隠し持ってたみたいで、私を狙ってた。だから撃った。すまない」


 後ろを振り返り、私は首を傾げる。保証部の三人は、少し戸惑ったようだったが、私が念を押すと小さく頷いた。


 そして、彼を見る。


 傷つき、恐れ、しかし愛のために勇気を奮った……


 私の――


 今その脳内には、どれほど美しい物語が生み出されているのだろう。


 早くその作品に触れたくて……


 顔に貼り付いてしまった笑顔が、どうしても剥がれなかった。


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