走る。
高架下を抜けてしばらく走ると、大きな川の河川敷に出た。
陽が落ちてすぐの時間帯だというのに、辺りを歩く人はない。街灯の少なさがそうさせているのだろうか。遠くに見える繁華街の灯りが、幻のように霞んでいる。
後ろを振り返ると、あの男。
薄暗い森の中で狩りを楽しむハンターのように、一定距離を保って私の跡を追っている。
がむしゃらに逃げていたように思えて、もしかしたらこの男に、人気のない場所へと誘導されていたのかもしれない。
この周辺の地形を調べ尽くしている。
こちらは完全な不意打ちだけど、向こうは入念な計画の上で、この襲撃を実行しているみたいだ。
追い詰められるのは、当然なのかもしれない。
血液を滴らせないため、パーカーのポケットに突っ込んだ右手が熱い。多少動きはするものの、満足に拳を握れないだろう。
やっぱり何処かに、助けを求めるか?
会社と連絡をとって――いや、それもきっと無意味だ。私たち
私なんかの命を守るために、会社が警察組織に進言してくれるか? それとも、武力を行使した問題解決部署と噂に聞く『保証部』を動かしてくれるか? そんなはずがない。私たちは会社にとって、換えの効く歯車でしかないのだから。
河川敷の土手を滑り降り、寂れた工業団地に立ち入る。休日で一般的な定時も過ぎているため、ほとんどの工場は閉まっていて、人の気配はない。
完全に孤立してしまった。
ここは、泣こうが叫ぼうが誰の目にも留まらない、忘れられたような場所だ。
やはり自分で戦う以外に打開策はない。体力が尽きる前に、血を失いすぎる前に、自分自身の力で活路を切り開くしかない。
背後に男の姿が見えないのを確認して、私は工場の屋外コンテナ倉庫の影に身を隠した。動きっぱなしで上がった息を整えながら、作戦を立てる。
軽い打撃は決定打にならない。
あいつを行動不能にするためには、何か武器が必要だろう。このコンテナ倉庫の中に、レンチやバールのようなものが置いていないだろうか。金属製でそこそこ重量のあるやつ。
いや、そもそも、倉庫の鍵が開いているかさえ定かじゃない。でも、試してみないとわからない。慎重に、音を立てずにレバーを動かして――
立ちあがろうとして、違和感に気付く。
ズボンの右太ももに何かが張り付いている。
背筋が凍る。
発信機……?
くそっ、どこまで用意周到なんだよ!
引きちぎって放り投げるが、既にあとの祭りなのは明白だった。
「――俺はな、今まで色んな奴を聖星へ送ってきた」
コンテナの向こう側から声がする。
「そいつらは全員、今際の際まで自分の信念のために戦い、散っていった。まあ、その信念が間違ってたから、俺に送られたわけだが――」
私はゆっくりと立ち上がる。
疲れを癒す暇も、武器を探す暇もなかった。そんなもの、こいつが与えてくれるわけがなかった。
「それに比べてお前は、醜いよ。無様に逃げ回って、そんなに自分の命が惜しいのか?」
コンテナの影から男が現れる。
「誰だって、命は惜しいよ」
「大した命でもないだろう」
「私には、叶えたい夢がある」
「それは、俺たちハピポリスの崇高な信念にも勝るものなのか? 多くの人を救うに足るものなのか?」
工場内の屋外照明に照らされ、男は黄色い歯を剥き出しにして笑う。
「息子の恋人を平気で殺そうとするようなやつに、私の気持ちがわかるわけない」
息を整えながら答える。この瞬間を体力の回復に充てるため、あくまでも冷静に、だ。
「ああ、あの軟弱な男か?」
男はナイフ側面を自分の頬に当てながら、空を見上げる。星はない。
違う。でも……
軟弱な男――その言葉で私の脳裏に、ソラトの顔が浮かぶ。怯える顔や、呆れた顔、焚き火の向こうで笑う顔。人質になった私を助けるため、泣きそうになりながら目の前の男を挑発する、情けない顔。
一瞬、心が揺らぎそうになった。
助けを求めたくなった。
でも、ダメだ。これは私が一人で乗り越えなければならない問題だ。弱虫で繊細なソラトには、少々荷が重い。私たちはバディなんだ。だから私が担うべきところは、私がなんとかしないといけない。
あの頃の私は、ずっと一人だった。
一人で戦ってこれた。
同じだよ。
右を前にして半身に構え、後ろ足に重心を置く。『猫足立ち』だったか、小さい頃になんか武術の本で読んで、見様見真似のまま実践の中で磨いていった。
動きで翻弄して、男のナイフを奪う。
それが私の攻撃力を上げる、最もシンプルな方法。
刺された右手はポケットから出し、でも掌はダボダボのパーカーの袖の中に隠した。相手は手の状態を把握していない。あれだけの傷だ、もう動かないと思ってるに違いない。その油断が命取りだ。
右手の袖をフラフラと揺らす。そういや深海魚で、頭についた光るヒラヒラで相手を誘き寄せて捕食する奴がいたよな。このヒラヒラはそれとおんなじだよ。ほら、早く食いついてきやがれ。
「逃げ回るのはやめたのか?」
男は自分の頬に当てていたナイフを構える。ナイフに付着していた私の血が、男の頬に不気味な模様を作っていた。
切先を私に向ける。
そして、ゆっくりと間合いを詰める。
私は、乾いた口の中に僅かに残った唾液を集め、舌の先で絡めて、飲み込む。
この切先が繰り出された瞬間だ――
繰り出された瞬間に――
男の手が動く。
ナイフは最短距離で左の脇腹へ。
右手で下に払いながら、掴む。
パーカーの布地がナイフの刃を包み込む。
男の眉がピクリと動く。
その顔面に右膝をぶつける。怯んだ隙にすかさず握ったナイフを引っ張り、伸び切った男の右腕に両足を絡ませる。
腕ひしぎ十字固めとかいうやつ。
全体重をかけると、男は地面に倒れ込んだ。ナイフを持った右手を必死に振り解こうとするけど、離すわけがないだろ。
キレイに決まった。
やった。
男の関節を逆方向に引き曲げながら、その手をこじ開けてナイフを奪おうとする。ナイフを奪って、相手の脚にでも突き刺してやればいい。
そうすれば、私は生き延びられる。
確信した瞬間――
乾いた音がした。
最初、何の音かわからなかった。
しかしすぐに、左足の激痛でその正体がわかる。
わかった瞬間に、もうひとつ。
それは私の左腕の肉を引きちぎった。
痛みで身体が痙攣し、力が入らない。男はそんな私を持ち上げると、力任せに叩きつけた。
地面に転がった私は男を見上げる。
視界が狭い。
男の手には小型の自動拳銃。
「……なんだよ、それ……」
「奥の手はいくつも持っとくべきだと思うんだよ。特に、お前みたいな小狡いやつを相手にする時は」
「何が、試練だよ。チートじゃないか……」
「手段は関係ない。目的を達成する事が全てだ」
私はうつ伏せになって、肘で地面を擦る。
右手のひらには風穴が空いてるし、左腕は肉が千切れていて、左足の太ももには弾丸がめり込んでいる。
ああ、ヤバい……
ヤバい……
這いつくばる私の背中に、衝撃。男の脚が私の背中を踏みつけていた。
「おお、これは……あの時と、立場が逆になったな」
そう言って男はひとしきり笑った。そして私の後頭部に熱いものを押し当てる。それが銃口なのは、察しがつく。
「このまましばらく、恐怖と戦ってみろ。あの時、俺が感じたのと同じような、自分が自分でなくなる恐怖とな」
逃げられない。
完全に万策尽きた。
私は、こんなふうに死んでいくんだ。
愛する人との再会も叶わず、無力感に苛まれながら――
目の前に投げ出された自分の右手を見た。
不気味な、既視感。
『赤く染まった右手が見える。地面に広がる血に浸された、熱く、鉄錆臭い右手だ』
この記憶はなんなのだろう。
錆びて剥がれかけのペンキみたいに、私の脳裏にしがみついているこの絶望の記憶はなんなのだろう。
冷たいアスファルト。
細く長い吐息の音。
血の味。
そうじゃない。
路上に転がる絶望に足を掬われるような、そんな生活の中で私は『あの人』と出会い、救われた。
自分が生きる意味を見つけ、幸せを知った。
『婚約者』として、私に永遠の幸せを誓ってくれた。
あの人は私の全て。
最後はせめて、その想いに浸りながら、眠りたい。
なのに、なんで――
心臓が大きく波打つ。
顔が熱く、汗だけはとめどなく流れるのに、口の中は乾燥で粘つき、息苦しい。
おかしい。
なにかがおかしい。
脳を揺さぶるあの痛みはなんだ?
記憶の中にある病院の風景はなんだ?
そこで死んだように生きている、私の姿はなんだ?
あの頃の私には希望があったはずだ。
あの人がいつもそばにいてくれたはずだ。
辻褄が合わない。
何で私はあの日、自ら命を断とうとしたんだ?
二つの記憶がごちゃ混ぜになる。
白い記憶が、黒い記憶で汚れていく。
嘘だ。
そんなはずない。
思い出すんだ。
婚約者と過ごした、幸せな日々を。
どんな些細な事でもいい。
日常の中に幸せな記憶を――
なんで思い出せない?
なんで……!?
「どうした? 急に震え出したと思ったら、ひでえ面だな。たっぷり恐怖を堪能したか? それじゃ、聖星で裁きを受けるんだな――」
* * *
GPSが指し示す場所はすぐそこだ。
すでに寝静まった工業団地を、俺は走った。わき腹に吐き気を催すような痛みを覚えるが、そんな事にかまっている場合じゃない。
銃声が響く。
続け様に二つ。
地面を蹴る脚に力がこもる。
早く、早く!!
小さな工場の敷地、その端に見えるコンテナ倉庫。屋外照明に照らされた二つの人影。大きな影が小さな影を踏みつけ、その頭に指先を向けている。指先? いや、銃だ。
「おいサル野郎!」
しゃがれた声で、俺は叫ぶ。
大きな影はこちらを見て、笑った。
「ああ、お前も来たのか。お前のような弱者は、俺の試練には含まれてないんだが……」
俺は男の足元を見る。
血だらけで倒れるアオイ。
その目には生気がない。
――まさか、死んでいる?
瞬間、俺の口から声が漏れた。
どんな感情に塗れた声なのかは、自分でもよくわからなかった。