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第32話:路上に転がる絶望との再会②

 希望などなかった。


 痛みと飢えしか感じさせてくれない肉体なんて、もういらない。


 この重たい肉を捨ててしまえば、私はもう少しだけ、痛みも苦しみもない世界に近づけるのだろうか。


 だから私は、肉体を捨てようとした。


 赤く染まった右手が見える。地面に広がる血に浸された、熱く、鉄錆臭い右手だ。


 願いは叶わず、私は今でも、この重石に縛り付けられている。



   *   *   *



 懐かしい感覚だった。


 同じようなクズと徒党を組んで、別のベクトルのクズと争い合っていたあの時代。私を愛してくれる『婚約者』の彼に出会わなければ、今でも身を置いていたかも知れない生ゴミ臭いあの時代。

 そこで私は、誰かの暴力に脅かされ、また同様に誰かを暴力で脅かした。


 敵意を持つ者に行動を掌握される感覚。

 心地よい感覚ではないが、子供の頃の私を孤独から守ってくれた、皮脂と涎と涙で汚れたぬいぐるみの臭いみたいな、不可解な懐かしさを覚える自分もいる。


『……会社に、いや、け、警察に連絡しよう』


 電話口でソラトが言う。その声は震えているが、あからさまに怯えた態度がかえって私を冷静にさせた。


「しない。助けを求めたところで、役に立たないのはわかってるし、むしろ状況が悪くなる」


『そんなのわからない』


「『私、誰かに追われてる気がするの。そいつはたぶん世界の裏側で暗躍するハピポリス教のテロリストで、ぶん殴っちゃった私に恨みを持ってるの』なんて言ったって、病院を勧められるだけだよ」


『でも事実だろ?』


「事実が疑念をねじ伏せるには、それなりの信用と時間が必要なんだよ」


 それに今の状況は、ある意味好都合だ。

 追われる立場ではあるものの、こちらが追跡に気付いていることに、相手は気付いていない。

 こちらから裏をかく事だって出来る。


 もし警察に駆け込めば、こちらが追跡に気付いたことを、相手に悟らせてしまう。そうなると今度は『待ち伏せ』の方針を切り替えるかもしれない。現状よりも回避が厄介だ。


 それに――


『……なら、どこかに、店とかに隠れてやり過ごすとか……』


「自分でなんとかするよ」


『無茶な』


「私の住所が知れてるって事は、ソラトの住所だって知れてるんだよ?」


『そうだけど』


「私が逃げたり隠れたりしたら、次にあいつはソラトに接触するよ。ソラトは弱いってバレてんだから、人質にされるかも知れない」


 ソラトは何も言わない。

 きっと恐怖で引き攣った顔をしているのだろう。だから私は、声のトーンを落として、宥めるように言う。


「私は大丈夫。こういうシチュエーション、慣れてるから」


 そう、私は慣れている。

 栄養失調で痩せこけた身体でも、私はこういう修羅場を何度も潜り抜けてきた。

 今の、大人になった私なら、絶対に大丈夫。


「私のデバイスのGPSに注意して。一定の場所から動かなかったら、失敗したと思って欲しい。もし私からの連絡もなく、信号がソラトの家に向かっているようなら、あいつがデバイスを奪った可能性があるから、逃げて」


『なあ、アオイ――』 


「不平不満はあとで聞くよ。それじゃあね」


 そう言って私は強引に電話を切り、着信設定を消音に切り替えた。


 横目で後ろの様子を伺う。

 人混みに紛れながらも、明らかに異質な雰囲気が、私と一定の距離を保って着いてきている。


 繁華街もそろそろ外れに差し掛かり、人の数も疎になってきた。邪魔な人足が途絶えた時、おそらく猛獣は獲物を狩りに動くだろう。


 私が動くのは、その瞬間だ。


 繁華街から少し離れた幹線道路の高架下は、この時間でも歩く人などほとんどいない。街灯も道を満遍なく照らす気概はなく、かなり広く間隔を開けて立っている。


 私は太い橋脚に隠れるようにして曲がる。


 そして、追跡者から自分の姿が消えた瞬間、駆け足で次の橋脚に走り、身を隠した。

 その足音は、幹線道路を走る車の音がかき消してくれる。


 ここで、迎え撃つ。


 追跡者は橋脚へと近づき、私の曲がった先を見た。


 そこに私はいない。


 立ち止まった追跡者は首を傾げ、橋脚の影に私の姿を探す。


 その間に私は、自動車の走行音に紛れて、追跡者の背後に走り寄る。


 そして、その後頭部に蹴りを――


 しかし蹴り上げた右足は空を切った。


 それと同時に、腹部への強い衝撃。


 わけもわからぬまま、私はアスファルトの地面を転がる。


「出し抜いたと思ったか?」


 背後から聞こえたその声には、やはり聞き覚えがあった。


「俺が二度も騙されるわけないだろ? 知ってんだよ。てめえが狡賢い女だって事は」


 私は腹部を押さえながら立ち上がる。内臓が暴れ回っているが、ここで吐いてしまえば、相手に隙を与える事になる。


 追跡者は被っていたキャップを脱いだ。鍔の影になっていた顔が露わになる。紛れもなく、あの夜の『ハピポリス』の男だった。


 男はいくらか痩せていて、白髪混じりの短髪は剃り上げられていた。浮浪者のような薄汚れた衣服を纏っているが、醸し出す雰囲気には獲物を前にした捕食者の昂りが感じられた。


 私は背負っていたリュックを下ろして、身軽になる。せっかく買ってきた食材は、さっき転がった拍子にぐちゃぐちゃになっているに違いない。


「俺は、ずっとハピポリスを崇め続けてきた。その信仰には一片の曇りもなかった」


 男はゆっくりと近づいてくる。


 私は両手を顔の前で構える。


「どんな屈強な異教徒だろうと、俺は始末してきた。そんな俺が、お前みたいなガキにやられて、屈辱を受けるなんてな……。見捨てられたと思ったよ。ほんの一瞬だけ、俺はハピポリスを憎んでしまった」


「……それが私のせいだっていうなら、壮絶な八つ当たりじゃん」


 吐き気を抑えながらも、ちゃんと声が出た事に安堵する。


「これは試練なんだ。俺が、俺自身の未熟さを乗り越えるために、聖星が俺に与えた――」


「単なる憎しみの押し付けに、たいそうな大義名分をつけるんじゃねーよ」


「俺は乱されない。ただ純粋に、俺は試練を乗り越えるだけだ」


「救えないおっさんだ」


「今からお前を聖星の元に送る。そこで裁きを受けろ」


 それって、殺すって事だろ――


 そう返そうとした瞬間、男の右手が私の頬を掠めた。一瞬遅れて、自分が拳を避けた事に気づく。

 反射的に身体が動いてくれた。

 私はまだ、まともに動ける。


 男が繰り出す二発目の拳を左前腕で受け流し、引いた右手で相手の腹部を殴りつける。


 微動だにしない。


 浅い。


 その勢いのまま、引き脚で相手の軸足を狙う。


 よろめく。


 続け様、右足で相手の側頭部を蹴りつける。


 しかし即座に反応した男は、構えた前腕でその蹴りを受ける。


 ダメだ、軽い。


 そのまま右足を掴まれ、地面に叩きつけられる。


 踏みつけようとした足を両手で防いで、相手の腹を蹴って離脱する。


 息が切れる。


 全力の打撃が、通じない。


「体重の軽い女のガキが、曲芸師みたいに繰り出す手脚なんて、本来なら暴力になり得ないんだよ。あの時の俺は油断していた。油断していたから、負けたんだ」


「……負け惜しみだろ」


「今のこの状況を見て、本当にそう思うか?」


 もっともだった。


 再び顔の前で構えた両手が震えている。

 やばい、勝てないかもしれない。


「今の俺は、一片の油断もない」


 そう言って男は、ポケットからナイフを取り出した。小さな刃物だが、確実に命を奪う事が出来る。


「死ね」


 死ぬかよ。


 繰り出されたナイフの一撃を交わし、私は男の股間を潰そうと蹴り上げる。


 しかしその足は膝で受けられ――


 振り上げられたナイフが、私の首に向けて振り下ろされる。


 とっさに出した右手の甲にナイフが突き刺さる。


 肉が裂かれる感覚の直後に、激しい痛み。


 悲鳴を押し殺した口の端から唾液が滴る。


 乱暴にナイフが引き抜かれると同時に、私は男に背を向けて走り出した。


 ――勝てない。


 ――殺される。


 ――死にたくない。


 赤熱する頭に、婚約者の顔が浮かんだ。

 相変わらずもやのかかった顔だけど、優しい微笑みを浮かべている事だけはわかった。


 絶対に生き延びなくちゃならない。


 もう一度、彼に会うために。



   *   *   *



 アオイとの電話が一方的に切られ、掛け直しても繋がらなかった。


 さっきまで聞こえていた車のクラクションも、時計の音も、ヒーターの送風音も、全てが止まる。止まった時間の中で、俺は次に何をすべきか考える。


 アオイは俺に助けを求めなかった。


 自分でなんとかすると言った。


 確かに俺が駆けつけたところで、足手纏いが増えるだけだ。俺は弱い。そんなこと、わかってる。俺は暴力なんて出来ない、ただ絵を描くしか能のない、弱っちい人間だ。


 でも、電話口のアオイの声は、震えていなかったか?


 動揺する俺を落ちるかせるため、トーンを落としたアオイの声は、掠れていなかったか?


 俺は立ち上がりコートを羽織る。


 調査で持参する回転式拳銃は、調査外では会社に保管されているため、手元にない。

 武器になるものを探して、先の尖ったペインティングナイフを手に取り、ポケットへと突っ込む。


 俺は馬鹿だ。


 こんな事して何になる。


 溺れた友人を助けるために、泳げない男が海に飛び込み、結果として死体が二つになる。俺が今やろうとしているのは、そういう事だ。


 でも――


『自分が出来る事をして、出来ない事は相手に任せる。それがバディが持つ強さだよ』


 アオイの言葉が蘇る。


 お前が言ったんだ。

 2人揃って、バディなんだろ、アオイ。


 ドアを開けた。

 冷たい風が吹き込むが、不思議と寒さは感じなかった。


 振り返ると、部屋の隅に描きかけの絵。

 初めて描いたアオイの絵が、何か言いたそうな目でこちらを見ている。


 もう二度と戻れないかもしれない。  


 そんな不安を押し込めて、俺はドアを閉めた。


 デバイスでGPSを確認する。アオイのデバイスはゆっくり移動を続けている。場所は、そう遠くない。


 俺は走った。

 氷点下の冷たい空気が、肺に突き刺さった。


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