目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第31話:路上に転がる絶望との再会①

 その時、初めて男は信仰を呪った。


 誰よりも深く『聖星ハピポリス』を崇拝していた自分が、なぜ邪教の徒に組み伏せられ、縄にかけられ、こんな辱めを受けねばならないのか。

 納得できない不可解さが疑念を生み、男はたった一度だけ、自分の信仰を


 しかし、そんなふしだらな男ですら、慈悲深き『聖星』は見捨てなかった。


 護送中、臨時で男の監視を任されたあどけない青年は、小銃の扱い方すらわかってい無能だった。だから男は、容易に彼を殺すことが出来た。


 聖星に授けられし僥倖。


 宵闇に紛れながら、勝利の拳を振り上げたその先に、男が信じる『聖星ハピポリス』が輝く。『聖星』の慈悲に感極まり、男は涙を流した。


 涙が聖星をぼやけさせる。

 そして男は、自分のおこなってしまった不義理を思い出した。


 あさましくも、自分は信仰を呪ってしまった身だ。


 清く真っ白だった自分の信仰は、母胎のクズどもから受けた辱めによって、赤黒い染みが滲んでしまった。


 燦然さんぜんと輝いていた『聖星』は、いつしか薄雲にその身を隠していた。


 目の前に広がるのは、光を無くした暗澹の荒野。


 あてもなく荒野を彷徨った男は、罰として与えられた飢えと、渇きと、疲労の中で、この荒波のような感情の矛先を何処に向けるべきか、思い出した。


『あの女だ――』


『あのガキみたいな女が、俺の信仰に泥を塗った――』


『よくも


 男の中に、新たな星が生まれた。

 それは太陽のように灼熱の炎を纏った星だった。



   *   *   *



 絵筆を置いて、部屋の中をうろうろと歩き回り、アルミ製の調理台に置きっぱなしだったコーヒーに気付き、数時間前は温かかったそれを胃の中に流し込んだ。

 部屋の暖房と、外の冷気がせめぎ合う部屋の中で、そいつの冷たさは体温を0.5℃ほど奪っていき、俺は身震いした。


 温泉宿から一週間が経った。


 コーヒーカップを片手に『光の都』の絵の片隅に描いたアオイを見つめる。そして、その表情をより生き生きしたものに変えるためには、他に何が必要なのか――再び部屋の中をうろうろと歩き回りながら考える。


 静かな部屋。

 たまに遠くから聞こえる、せっかちな自動車のクラクション。


 それを打ち砕くように、携帯デバイスの着信音が鳴り響いた。


 俺は驚いて、音が鳴る場所を探して視線を泳がす。デバイスをどこに置いたか忘れてしまった。ここ数日はそれだけ集中して絵と向き合っていた。

 部屋の中を掻き回す。

 その間も、デバイスは鳴り続ける。

 スケッチブックの間に挟まった音源を引っ張り出し、俺は液晶画面を見た。


 知らない番号だった。


 無視しても良かったが、しつこいほどに呼び出し音が鳴り続けるため、根負けして通話ボタンを押した。どうでもいいイタズラ電話だったら、無言で通話を切ってしまえばいい。


『あの、もしもし?』


 電話口の声は若い男だった。どこかで聞いたことがあるけど、思い出せない。

 俺は何も言わず、相手の出方を伺う。


『ソラトさんのデバイスで間違いないですか? ジョシュアです。あの……創世の壁画の一件でご迷惑をおかけした……』


「あ、え、ジョシュアさん?」


 完全に予想していなかった相手に俺は首を傾げる。『創世の壁画』の調査で偶然行動を共にした、元『聖星ハピポリス』という宗教団体の青年だ。

 敵対する『大地の母胎』の女性フィーダと恋仲であり、その関係で俺とアオイは命を賭けた厄介ごとに巻き込まれた。


『すみません、急に電話してしまって。そちらは今、夕方ぐらいですよね? 少しお時間大丈夫ですか?」


 二人の通う大学がある地域とは、12時間ほどの時差がある。となれば向こうは今頃、日も出ていない早朝だろう。そんな時間に、何の用事だろうか。


「大丈夫ですけど……よくこのデバイスの番号がわかりましたね」


『二人がホメロスの調査員だって聞いてましたし、お名前もわかってましたから、その情報を頼りに色々あたって――やっとこの番号を教えてもらえました。本当は、もっと早くお伝えしたかったんですけど……』


 仕事用に支給されたデバイスとはいえ、個人の連絡先を他人に伝えてしまうのはどうなのだろう?

 会社にとって俺たち調査員ワースレスがどれだけ替えの効く無価値な存在なのか、改めて実感したような気がした。 


「いえいえ、ご苦労おかけしました。それで、お伝えしたい事って……?」


『あ、えっと……そこまで大事おおごとではないし、もしかしたら単なる杞憂かもしれないのですが、念のため伝えておこうと思いまして』


 なんとも謙虚というか遠回しな前置きだが、本当に大事おおごとじゃないのなら、向こうじゃ深夜の時間帯に、各所に電話を掛けまくる労力を賭すわけがないだろう。

 その前置きには、どこか願望のようなものが込められてるような気がした。


『あの、すみません、一週間前、あの男――親父が護送中に脱走しまして』


「は、はあ……」


 あの男とは、ジョシュアの父親であり、狂信的な『ハピポリス教』信者であり、信仰のためなら人殺しを厭わないイカれた男だ。

 俺とアオイはそいつの襲撃に巻き込まれたが、機転を効かせて撃退した経緯がある。


 そう、ただそれだけの関係だ。


『あの、杞憂ならそれでいいんです。今、国と大地の母胎が全力で捜索してますし、きっと、もうすぐ見つかるでしょう。この星の裏側で起こった、お二人には何も関係ない事……のはずです』


 そこでジョシュアは言葉を切った。続く言葉を探しているようだった。俺は無言でそれを待つ。


『でも、あの親父なら、何をするかわからないから……。俺たちには考えられないような理由で、簡単に人の命を奪うやつだから……。お二人のことを逆恨みして、危害を加えようとする可能性だってゼロじゃない』


 考えすぎじゃないか?

 そんな逆恨みだけで、方々に追われる身でありながら、世界の裏側に住む俺たちのところに現れるか?

 そんな発想、論理的じゃない。


 でも果たしてあの男に、俺たちと同じ論理が通用するだろうか。常識に囚われた結果、それが足枷になって厄災から逃げ遅れる可能性だって、ありえる。


『なにか進展があったら連絡します。念のため、あの男が捕まるまでは警戒された方がいいって、その……アオイさんにも伝えておいていただけると――』


 俺は頷き、電話を切った。


 再び静寂が夕暮れの部屋を包む。

 物悲しくも、緊張感を含んだ、氷のむろみたいな静寂だった。


 ファンヒーターの送風音だけが低く響く。


「脱走したとはいえ、ね……」


 口をついて出た言葉が不自然に空気を震わせた。

 そう、脱走したとはいえ、デバイスの番号ならまだしも、俺たちの住んでいる場所までわかる訳がない。

 この広い世界で、顔だけで人を探せるか?

 そんなの不可能だ。


 冷めて酸化したコーヒーの味が、舌にこびりついている。それを洗い流すために、再び温かなコーヒーを淹れよう。インスタントのコーヒーだけど、味は嫌いじゃない。


 電気ケトルに水を入れ、注ぎ口から蒸気が上り始めるまでの間、ぼーっとそれを眺める。


 俺たちの住所を知っているのは、それこそ会社くらいだろう。さすがに会社が個人情報を他人に洩らすはずがないし、不用意に流出でもさせたらそれこそ大問題だろう。会社の信用にも関わる。


 いや、でも――


 一つの仮説が頭をよぎる。


 俺たちが調査に赴く際、その対象がいわゆる組織に管理された物であれば、管理組織に対して俺たちの情報が共有されているはずだ。相手側も、素性の知れない人間の訪問を許可するわけにはいかないのだから、当然だろう。


 そして、あの『創世の壁画』調査の際は、そういった情報のやり取りが、会社と、壁画を管理する『大地の母胎』の間で交わされたはずだ。

 その情報は、俺達と直接やり取りする人達――壁画の件で言えば、調査前に挨拶に行った『壁画近隣の町の聖堂』にも共有されているはずで――


 俺はデバイスを操作し、直近一週間のニュースを遡る。ハピポリスと大地の母胎の紛争は、調査に訪れた日以降も断続的に勃発し、多くの死者が出ているらしい。

 二人の異教徒が愛を叫び、三人の過激派が拘留されたところで、この宗教同士の思想のねじれが解消するわけない。


 そして、4日前の記事でスワイプを止める。


『都市キュリティの聖堂がハピポリスと思われる武装集団の襲撃に合う』


 俺たちが行った、あの聖堂だ。


 まさか――


 まさかね――


 俺はデバイスを操作し、アオイの番号を表示した。調査の打ち合わせ以外では、ほとんど掛けたことのないその番号の、発信ボタンを押す。


 呼び出し音が鳴り続ける。


 それに呼応するかのように、心の中に潜んでいた不安が膨らんでいく。


 10回目のコールでアオイが出た。電話向こうの喧騒から推察するに、どうやら屋外にいるようだ。


『なに? 今取り込み中なんだけど』


「ごめんごめん。ただ、早めに伝えとくべき事があってさ」


『手短に言って』


 アオイの声はいつも以上に不機嫌だった。言葉の端々に、緊張感のようなものが漂っているような気がした。


「さっきジョシュア――あの『創世の壁画』で会った若い男の人いたでしょ? 彼から電話があって、ジョシュアの父親が一週間前に脱走にげたって」


 アオイは何も言わない。


「まあ、だから何だ、ってわけじゃないし、そこまで気にしなくていいと思うけど……ちょっとは警戒した方がいいと思う。アオイ、あのおっさんの事をぶん殴ってるからさ」


 デバイスのスピーカーから、風の音が聞こえる。


『ああ、そういうこと……』


 風の音に紛れるほどに小さく、アオイは呟いた。


「今外なら、早く帰った方がいいぞ」


『今の言葉を聞いて、帰れなくなったよ。私の家のあたり、この時間帯は人通りが少ないからなぁ』


「は? どういう――」


『つけられてる』


「え?」


『昼間に家を出た時から、妙な違和感があったんだよ。だからあえて人混みを選んで歩いてたんだけど、そういうことか。ずっと、粘ついた息づかいが聞こえてる気がしたんだ。あのオヤジに拘束されてた時に感じたのと、同じ息づかいだ』


「アオイ――」


 俺は何を言えばいいのか分からず、ただ意味もなく名前を呼ぶ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?