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第30話:温泉郷②

 廃ビルの割れたガラスから吹き込む風は、いつだって冷たかった。


 食料を仕入れて来たリョウスケは、コンビニ袋に入ったパンを仲間達に配ると、空になった袋を丸めて私に投げ付けた。白い塊は座り込む私の左腕にぶつかり、明後日の方向へと転がっていく。私はそれを一瞥すると、リョウスケを睨みつけた。


「なんだよ」


「私の、パンは?」


 尋ねる私を無視して、リョウスケはソーセージパンの袋を開けると、一口で三分の一を詰め込み、大袈裟に咀嚼する。私の口の中に唾液が溢れ、胃が唸りを上げる。


「食料は山わけって、そう言ったよね!?」


 耐え難い空腹。食料を目にした事で、胃が大声で喚き散らしている。うねる胃壁が喉を押し除けて、食べ物に手を伸ばそうとしているようだ。私は耐え難い吐き気に口を押さえる。


「俺たち男はなぁ、敵からお前ら女共を守らにゃならねぇんだよ。だからちゃんと食わなきゃなならねぇ」


 離れたところから誰かが嘲る。


「私は、戦った! 私だって守られてばかりじゃない! だから、食べさせてよ!」


「お前はまだガキだろ。俺たちとは必要なカロリーってやつが違うんだ。わかるか? デカい男はいっぱい必要で、チビな女はちょっとしか必要ない、それを考慮するのが、真の平等ってやつなのよ」


 また誰かが訳知り顔でほざく。

 何を言っているのか? 空腹で思考がまとまらない。


「だって私、昨日だって何も――」


 ――ブヘッ


 粘ついた音がした。

 音のした方を見ると、リョウスケの足元に白いどろどろの物体が落ちていた。

 リョウスケは口の中を舌でなぞり、再びブヘッと鳴らす。口からボトリと落ちたぐちゃぐちゃのパンが、足元のドロドロに重なった。


「食えよ」


 リョウスケは低い声で言う。


「喚くから分け与えてやったぞ。食えよ」


 私は首を振ろうとした。しかし飢えによる死を予見した身体は食べ物を求め、勝手にドロドロの汚物へと向かう。

 リョウスケの前にひざまずき、ドロドロを掬い取ろうとしたところで、頭を乱暴に踏みつけられた。

 ドロドロの中に顔が沈む。


「わかってるよな? アオイ」


 頭を踏みつけたままリョウスケは言う。


「ここにいる為には、何かを差し出さなきゃならねぇの。ここを守るための暴力を差し出すか、他の何か……他の女共みたいに快楽を差し出すか。チビでガリガリのお前に何が出来る? この床を舐めとって、掃除するくらいは出来るよな?」


 頭の上から浴びせられるリョウスケの言葉を無視して、私は生きるために吐き出された汚物を舐め取った。


 パンと、唾液と、タバコの味がした。



   *   *   *



 ーーそんな陰惨な過去との対比が、私の現実感を狂わせる。

 今、私の目の前に並べられた料理は、まるで輝く宝石のようだ。


「アオイ、ここは宝島かい……?」


 隣に座ったソラトが涎を垂らしながら呟いた。


 鮮やかで大胆な模様が刻まれた、大小様々な陶器の皿に、上品に座る見たこともない料理達。一つ一つが個性的で、一つ一つが自身の存在感を主張してくる。

 薄く霜のふった牛肉、艶やかに並ぶ刺身、彩り豊かな小鉢と、とろけるような茶碗蒸し、出汁の香りを湛えた汁物。おひつを開けると、炊き立てご飯の甘い匂いが広がった。


 調査の時に食べる大雑把な料理も美味しい。

 ファミレスで食べるジャンクな料理だってもちろん美味しい。


 でもこの料理には、また違った美味しさがある。丁寧に磨き上げられた氷の彫刻みたいな、美しくも繊細な味の芸術だ。


 宝石のひとつひとつを舌全体で味わいながら、私はそんな事をぽつりと呟く。


「それは、おもてなし、ってやつだねぇ」


 グラスのビールを流し込み、低い声で唸った後、カメヤマさんが恍惚の表情で言った。


「おもてなし……」


「訪れた人達に、くつろいでもらいたい、楽しんでもらいたいって気持ちから生まれる、親愛の行為だよ」


「ふうん」


 私は曖昧に頷き、夕食会場となっている広い宴会場を見回した。


 正直、この建物の外観を見た時は、反乱にあって打ち捨てられた田舎の権力者の豪邸みたいな、悲惨な印象を持った。

 でも一歩中に入れば、隅々まで手入れが行き届いている事がわかる。この古臭さが、逆に不思議な安心感を生んでさえいる。


「たしかに、なんか居心地がいいね」


 和やかな空間で、私はご飯を3杯おかわりした。



   *   *   *



 夕食の後。


 一緒の部屋になった彼女さんが「アオイちゃん、温泉行こ温泉!」とうるさい。


 ソラトが『カメさんの彼女』『彼女さん』と呼んでいたので深く考えてなかったけど、彼女さんにもちゃんと『ハルカ』という名前があるらしい。


「ハルちゃん、って呼んでねー」


 白い歯を出して笑いながら、そう繰り返す彼女に根負けし「ハルちゃん」と呼んであげると、彼女は嬉しそうに「アオちゃん」と呼び返した。


「お風呂は……私は部屋にある風呂でいいよ」


「なんでよ? 温泉じゃないし、狭いじゃん」


「いや」


 理由も言わず、無理矢理に突っぱねる事も出来た。

 でもそれをしなかったのは、ちょっとだけ飲んだお酒のせいかもしれないし、私の事を「アオちゃん」と呼んで笑う、その人懐っこさにほだされてしまったからかもしれない。


 私は服の袖を捲り、傷跡を見せる。

 同性とはいえ、あまり自分の身体を見せたくはなかったが、これが一番手っ取り早かった


「ありゃー、痛そう」


 ハルカは顔をしかめる。


「もう痛くないよ、古傷だし。でもこの傷を人目に晒すのが、なんとなくヤダ。背中の方なんてもっとヤバいし――」


 無価値者ワースレスとして、人に後ろ指をさされるのには慣れているし、嫌味や嘲りだって何度も受けている。

 でも今この傷を誰かに嘲笑されたら、光の都でソラトが言ってくれた言葉も、一緒に馬鹿にされたような気分になるだろう。


 それは、なんだか嫌だった。


 私の身体に刻まれた、不様で不恰好な落書き。この落書きを自分の一部として受け入れるには、まだ時間がかかりそうだ。


「これ、なんで出来た傷なん?」


 しばらくの沈黙のあと、二の腕の傷を指さしてハルカが問う。


「昔、荒んでた頃にね、年下の子を庇おうとしてナイフでズバって」


「これは?」


「捕まりそうになって、抵抗した時の」


 ハルカは腕を組んで、頷いた。金色の髪が波みたいに揺れた。


「おお、ちゃんと、覚えてんだ」


 明るい声だった。憂鬱を吹き消すみたいに。


「そりゃ、まあ――」


「だったらさ、それってもはや勲章じゃん。アオちゃんが頑張ってきた証じゃん」


 そう言って、白い歯をみせる。


「勲章、か」


 そんな事、考えた事が無かった。

 でも確かに、私の身体の傷一つ一つには、忘れられない思い出がある。悪いものもあれば、良いものだって――


「そうだ!」唐突にハルカが手を叩く。「温泉の中でさ、勲章の見せ合いっこしよーぜ! 今のところアオちゃんの一歩リードだけどな!」


 ハルカはそう言って私の背中をパンパンと叩いた。


 私は苦笑いする。

 そんな考え方も、あるのかもしれない。


 私の身体の落書きが、幼い頃に描いた愛しい人の似顔絵のように――ほんの少しだけ、誇らしいもののように感じられた。



   *   *   *



 風呂上がり、卓球とかいうちょっとした謎スポーツの台を発見し、ソラトと対戦した。

 私にとってはいいクールダウンだったけど、ソラトはドタバタ走り回った挙句、ストレート負けした。


「ソラっちマジ弱い!」


 ハルカが手を叩いて笑う。そして片手を上げて「アオちゃん、いえーい」と曰う。


「は?」


「は、じゃなくて、片手同士でこう『ぱちーん』ってやんの! ほら、いえーい」


「いえーい……」


 合わせた手は小さく鳴る。

 その音は、茶色く変色した壁板の隙間へと、吸い込まれていく。


 現実とは思えない、不思議な時間が過ぎていく。


 無価値者ワースレスとして生きる自分とはまた別の、なんだか価値のある温かなものが、自分の中に生まれつつあるような――そんな妙な錯覚に惑わされそうになる。


 そして、私は気付いた。


 ここに来てから今まで、一度として婚約者のことを思い出していない。


 常に頭の片隅に存在していて、私の生きる方向を示し続けるあの声が、この数時間だけは遥か遠くに感じられた。


 不安が、心に手を伸ばす。


 本当にいいのか?


 だって、この道標を失ってしまったら、私は――


 その夜、なんだか眠れなくて、私は部屋を出た。

 エレベーターのところに自販機があったから、そこで何か飲み物を買おう。酒をいっぱい飲めば、昏倒するように眠れる気がする。


 誰もいない廊下は薄暗く、等間隔で設置されたオレンジ色の照明と、誘導灯の緑色の光だけが、ポツポツと黒ずんだ壁を照らしている。


 初めて着た『浴衣』とやらの心許なさに、隙間風のような不安を感じながら、私はエレベーターホールの灯りを目指す。


「お、アオイちゃん」


 名前を呼ばれる。声のした方を見ると、ホールの隅の喫煙スペースで、カメヤマさんがタバコを吸っていた。


「あ、ども」


 ペコリと頭を下げて、浴衣の胸元がはだけていないか念のため確認する。


「なんだか、部屋の暖房が効き過ぎて、寝苦しくて」


「はあ」


「アオイちゃんも眠れないの?」


「だから、お酒でも買おうかな、って――」


 私はチューハイのスイッチを押して、デバイスをリーダーにかざす。無粋なほど大きな音を立てて、重いアルミ缶が取り出し口に落下した。

 しゃがみ込んで、引っ掛かった缶を丁寧に取り出す。


「ねえ、アオイちゃん」


 再び名前を呼ばれ、私はカメヤマさんの方を見る。

 さっきまでタバコの先端に向けられていた彼の視線は、私の方に向いていた。


「今日は、楽しいかったかい?」


「はあ、まあ」


 心が躍り、饒舌になり、大事な事さえ忘れそうになる。これが楽しいという感情なら、私は確かに今日の日を楽しんでいたのだろう。


「なんだろうね……喜びを、積み上げていこうよ」


 カメヤマさんは再び視線をタバコの先端に移す。薄暗い喫煙スペースで、赤い火が異世界への入り口のように燃える。


「些細なものでも構わない。小さな喜びの積み重ねが、大きな『生き甲斐』につながってくんだよ。僕たちも、君もね」


「そうですね」


 よくわからなくて、私は曖昧に頷く。


「あー、説教くさくてごめん! 今日は僕も楽しかった。うちのも、ソラトくんも、楽しんでたと思うよ」


「ですかね」


 その言葉は私の心を揺さぶり、自分らしくもない楽しげな音色を鳴らす。その音色に戸惑いながら、私は曖昧に頷いた。


「それじゃ、私は寝ますんで」


 私は踵を返す。

 手のひらのチューハイの缶が冷たい。


 そして、妙なデジャブを感じ、私は振り返った。

 カメヤマさんはタバコを吸いながら、ホールの窓から見える夜の雑木林を眺めている。


 今のは、なんだろう。


 ――その唐突な既視感は、あっという間に闇の底に沈んでいった。



   *   *   *



 時を同じくして、異国の地の二人の男女に一本の電話が入る。


 裸のまま毛布にくるまっていた二人だったが、男の方が大儀そうに枕元の携帯デバイスを耳に当てる。


「はい、はい……はい……え、あのどういう事ですか?……はい、ああ、はい。そうですね。はい――」


 横になっていた男だったが、途中から上体を起こし、真剣な顔で電話口の声に聞き入っていた。


 そして、電話を切る。


「どうしたのジョシュア、険しい顔して」


「いや、えっと……」男は少し言い淀むが、意を決して口を開く。「『母胎』からの電話だったんだけど」


「『大地の母胎』から?」


 こんな時間に、『母胎』から元『ハピポリス』である恋人への電話。その内容が喜ばしいものではない事は、フィーダにも予想できた。


「すでに捜索を開始してて、俺たちには影響ないという話だったけど、念のため、って事らしい」


「どういうこと?」


 ジョシュアは苦虫を噛み潰したような顔で答える。


「あいつが――親父が脱走したらしい」



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