廃ビルの割れたガラスから吹き込む風は、いつだって冷たかった。
食料を仕入れて来たリョウスケは、コンビニ袋に入ったパンを仲間達に配ると、空になった袋を丸めて私に投げ付けた。白い塊は座り込む私の左腕にぶつかり、明後日の方向へと転がっていく。私はそれを一瞥すると、リョウスケを睨みつけた。
「なんだよ」
「私の、パンは?」
尋ねる私を無視して、リョウスケはソーセージパンの袋を開けると、一口で三分の一を詰め込み、大袈裟に咀嚼する。私の口の中に唾液が溢れ、胃が唸りを上げる。
「食料は山わけって、そう言ったよね!?」
耐え難い空腹。食料を目にした事で、胃が大声で喚き散らしている。うねる胃壁が喉を押し除けて、食べ物に手を伸ばそうとしているようだ。私は耐え難い吐き気に口を押さえる。
「俺たち男はなぁ、敵からお前ら女共を守らにゃならねぇんだよ。だからちゃんと食わなきゃなならねぇ」
離れたところから誰かが嘲る。
「私は、戦った! 私だって守られてばかりじゃない! だから、食べさせてよ!」
「お前はまだガキだろ。俺たちとは必要なカロリーってやつが違うんだ。わかるか? デカい男はいっぱい必要で、チビな女はちょっとしか必要ない、それを考慮するのが、真の平等ってやつなのよ」
また誰かが訳知り顔でほざく。
何を言っているのか? 空腹で思考がまとまらない。
「だって私、昨日だって何も――」
――ブヘッ
粘ついた音がした。
音のした方を見ると、リョウスケの足元に白いどろどろの物体が落ちていた。
リョウスケは口の中を舌でなぞり、再びブヘッと鳴らす。口からボトリと落ちたぐちゃぐちゃのパンが、足元のドロドロに重なった。
「食えよ」
リョウスケは低い声で言う。
「喚くから分け与えてやったぞ。食えよ」
私は首を振ろうとした。しかし飢えによる死を予見した身体は食べ物を求め、勝手にドロドロの汚物へと向かう。
リョウスケの前に
ドロドロの中に顔が沈む。
「わかってるよな? アオイ」
頭を踏みつけたままリョウスケは言う。
「ここにいる為には、何かを差し出さなきゃならねぇの。ここを守るための暴力を差し出すか、他の何か……他の女共みたいに快楽を差し出すか。チビでガリガリのお前に何が出来る? この床を舐めとって、掃除するくらいは出来るよな?」
頭の上から浴びせられるリョウスケの言葉を無視して、私は生きるために吐き出された汚物を舐め取った。
パンと、唾液と、タバコの味がした。
* * *
ーーそんな陰惨な過去との対比が、私の現実感を狂わせる。
今、私の目の前に並べられた料理は、まるで輝く宝石のようだ。
「アオイ、ここは宝島かい……?」
隣に座ったソラトが涎を垂らしながら呟いた。
鮮やかで大胆な模様が刻まれた、大小様々な陶器の皿に、上品に座る見たこともない料理達。一つ一つが個性的で、一つ一つが自身の存在感を主張してくる。
薄く霜のふった牛肉、艶やかに並ぶ刺身、彩り豊かな小鉢と、とろけるような茶碗蒸し、出汁の香りを湛えた汁物。おひつを開けると、炊き立てご飯の甘い匂いが広がった。
調査の時に食べる大雑把な料理も美味しい。
ファミレスで食べるジャンクな料理だってもちろん美味しい。
でもこの料理には、また違った美味しさがある。丁寧に磨き上げられた氷の彫刻みたいな、美しくも繊細な味の芸術だ。
宝石のひとつひとつを舌全体で味わいながら、私はそんな事をぽつりと呟く。
「それは、おもてなし、ってやつだねぇ」
グラスのビールを流し込み、低い声で唸った後、カメヤマさんが恍惚の表情で言った。
「おもてなし……」
「訪れた人達に、くつろいでもらいたい、楽しんでもらいたいって気持ちから生まれる、親愛の行為だよ」
「ふうん」
私は曖昧に頷き、夕食会場となっている広い宴会場を見回した。
正直、この建物の外観を見た時は、反乱にあって打ち捨てられた田舎の権力者の豪邸みたいな、悲惨な印象を持った。
でも一歩中に入れば、隅々まで手入れが行き届いている事がわかる。この古臭さが、逆に不思議な安心感を生んでさえいる。
「たしかに、なんか居心地がいいね」
和やかな空間で、私はご飯を3杯おかわりした。
* * *
夕食の後。
一緒の部屋になった彼女さんが「アオイちゃん、温泉行こ温泉!」とうるさい。
ソラトが『カメさんの彼女』『彼女さん』と呼んでいたので深く考えてなかったけど、彼女さんにもちゃんと『ハルカ』という名前があるらしい。
「ハルちゃん、って呼んでねー」
白い歯を出して笑いながら、そう繰り返す彼女に根負けし「ハルちゃん」と呼んであげると、彼女は嬉しそうに「アオちゃん」と呼び返した。
「お風呂は……私は部屋にある風呂でいいよ」
「なんでよ? 温泉じゃないし、狭いじゃん」
「いや」
理由も言わず、無理矢理に突っぱねる事も出来た。
でもそれをしなかったのは、ちょっとだけ飲んだお酒のせいかもしれないし、私の事を「アオちゃん」と呼んで笑う、その人懐っこさにほだされてしまったからかもしれない。
私は服の袖を捲り、傷跡を見せる。
同性とはいえ、あまり自分の身体を見せたくはなかったが、これが一番手っ取り早かった
「ありゃー、痛そう」
ハルカは顔をしかめる。
「もう痛くないよ、古傷だし。でもこの傷を人目に晒すのが、なんとなくヤダ。背中の方なんてもっとヤバいし――」
でも今この傷を誰かに嘲笑されたら、光の都でソラトが言ってくれた言葉も、一緒に馬鹿にされたような気分になるだろう。
それは、なんだか嫌だった。
私の身体に刻まれた、不様で不恰好な落書き。この落書きを自分の一部として受け入れるには、まだ時間がかかりそうだ。
「これ、なんで出来た傷なん?」
しばらくの沈黙のあと、二の腕の傷を指さしてハルカが問う。
「昔、荒んでた頃にね、年下の子を庇おうとしてナイフでズバって」
「これは?」
「捕まりそうになって、抵抗した時の」
ハルカは腕を組んで、頷いた。金色の髪が波みたいに揺れた。
「おお、ちゃんと、覚えてんだ」
明るい声だった。憂鬱を吹き消すみたいに。
「そりゃ、まあ――」
「だったらさ、それってもはや勲章じゃん。アオちゃんが頑張ってきた証じゃん」
そう言って、白い歯をみせる。
「勲章、か」
そんな事、考えた事が無かった。
でも確かに、私の身体の傷一つ一つには、忘れられない思い出がある。悪いものもあれば、良いものだって――
「そうだ!」唐突にハルカが手を叩く。「温泉の中でさ、勲章の見せ合いっこしよーぜ! 今のところアオちゃんの一歩リードだけどな!」
ハルカはそう言って私の背中をパンパンと叩いた。
私は苦笑いする。
そんな考え方も、あるのかもしれない。
私の身体の落書きが、幼い頃に描いた愛しい人の似顔絵のように――ほんの少しだけ、誇らしいもののように感じられた。
* * *
風呂上がり、卓球とかいうちょっとした謎スポーツの台を発見し、ソラトと対戦した。
私にとってはいいクールダウンだったけど、ソラトはドタバタ走り回った挙句、ストレート負けした。
「ソラっちマジ弱い!」
ハルカが手を叩いて笑う。そして片手を上げて「アオちゃん、いえーい」と曰う。
「は?」
「は、じゃなくて、片手同士でこう『ぱちーん』ってやんの! ほら、いえーい」
「いえーい……」
合わせた手は小さく鳴る。
その音は、茶色く変色した壁板の隙間へと、吸い込まれていく。
現実とは思えない、不思議な時間が過ぎていく。
そして、私は気付いた。
ここに来てから今まで、一度として婚約者のことを思い出していない。
常に頭の片隅に存在していて、私の生きる方向を示し続けるあの声が、この数時間だけは遥か遠くに感じられた。
不安が、心に手を伸ばす。
本当にいいのか?
だって、この道標を失ってしまったら、私は――
その夜、なんだか眠れなくて、私は部屋を出た。
エレベーターのところに自販機があったから、そこで何か飲み物を買おう。酒をいっぱい飲めば、昏倒するように眠れる気がする。
誰もいない廊下は薄暗く、等間隔で設置されたオレンジ色の照明と、誘導灯の緑色の光だけが、ポツポツと黒ずんだ壁を照らしている。
初めて着た『浴衣』とやらの心許なさに、隙間風のような不安を感じながら、私はエレベーターホールの灯りを目指す。
「お、アオイちゃん」
名前を呼ばれる。声のした方を見ると、ホールの隅の喫煙スペースで、カメヤマさんがタバコを吸っていた。
「あ、ども」
ペコリと頭を下げて、浴衣の胸元がはだけていないか念のため確認する。
「なんだか、部屋の暖房が効き過ぎて、寝苦しくて」
「はあ」
「アオイちゃんも眠れないの?」
「だから、お酒でも買おうかな、って――」
私はチューハイのスイッチを押して、デバイスをリーダーにかざす。無粋なほど大きな音を立てて、重いアルミ缶が取り出し口に落下した。
しゃがみ込んで、引っ掛かった缶を丁寧に取り出す。
「ねえ、アオイちゃん」
再び名前を呼ばれ、私はカメヤマさんの方を見る。
さっきまでタバコの先端に向けられていた彼の視線は、私の方に向いていた。
「今日は、楽しいかったかい?」
「はあ、まあ」
心が躍り、饒舌になり、大事な事さえ忘れそうになる。これが楽しいという感情なら、私は確かに今日の日を楽しんでいたのだろう。
「なんだろうね……喜びを、積み上げていこうよ」
カメヤマさんは再び視線をタバコの先端に移す。薄暗い喫煙スペースで、赤い火が異世界への入り口のように燃える。
「些細なものでも構わない。小さな喜びの積み重ねが、大きな『生き甲斐』につながってくんだよ。僕たちも、君もね」
「そうですね」
よくわからなくて、私は曖昧に頷く。
「あー、説教くさくてごめん! 今日は僕も楽しかった。うちのも、ソラトくんも、楽しんでたと思うよ」
「ですかね」
その言葉は私の心を揺さぶり、自分らしくもない楽しげな音色を鳴らす。その音色に戸惑いながら、私は曖昧に頷いた。
「それじゃ、私は寝ますんで」
私は踵を返す。
手のひらのチューハイの缶が冷たい。
そして、妙なデジャブを感じ、私は振り返った。
カメヤマさんはタバコを吸いながら、ホールの窓から見える夜の雑木林を眺めている。
今のは、なんだろう。
――その唐突な既視感は、あっという間に闇の底に沈んでいった。
* * *
時を同じくして、異国の地の二人の男女に一本の電話が入る。
裸のまま毛布にくるまっていた二人だったが、男の方が大儀そうに枕元の携帯デバイスを耳に当てる。
「はい、はい……はい……え、あのどういう事ですか?……はい、ああ、はい。そうですね。はい――」
横になっていた男だったが、途中から上体を起こし、真剣な顔で電話口の声に聞き入っていた。
そして、電話を切る。
「どうしたのジョシュア、険しい顔して」
「いや、えっと……」男は少し言い淀むが、意を決して口を開く。「『母胎』からの電話だったんだけど」
「『大地の母胎』から?」
こんな時間に、『母胎』から元『ハピポリス』である恋人への電話。その内容が喜ばしいものではない事は、フィーダにも予想できた。
「すでに捜索を開始してて、俺たちには影響ないという話だったけど、念のため、って事らしい」
「どういうこと?」
ジョシュアは苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「あいつが――親父が脱走したらしい」