光の都から帰ってから、俺は新しい絵を描き始めた。
風景画しか描いた事がない俺にとって、人物を画角の中心に据えて描く作業は、なんとも落ち着かない感情を生んだ。だから俺は、光と影が入り乱れる『光の都』の風景の右下に、極めてささやかに彼女の姿を描く事にした。
エスキースのアオイは穏やかに笑っている。
皮肉屋な彼女があまり見せた事のない、その優しい笑顔は、俺の脳裏へと鮮明に刻まれてる。
やがて薄れて、消えてしまう前に、俺はこいつを描き上げなければならない。自分の中に漂う美しい感情を、自分の中で押し留め、永久に消えないものとするために――
* * *
インターホンが押される。
俺の部屋に客人が訪れる事など稀だ。きっとカメさん宅の2人か、205号室のおばちゃんだろうとドアスコープを覗くと、案の定カメさんの彼女が立っていた。
「どうしました?」
俺はドアを開けて尋ねる。
肌寒い秋の日にも関わらず、カメさんの彼女は部屋着の半袖Tシャツのまま、鬼気迫る形相で俺を見ていた。
「ソラっち、今週末空いてるよね?」
「はい?」
「空いてるっしょ? ていうか空けろ」
頬に掛かったくしゃくしゃの金髪をかき上げる。香水なのかコンディショナーなのかよくわからない匂いを感じて、俺はちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
「調査は、入ってないですけど」
「おっけ! じゃあ決まりで。じゃあ、アオイちゃんにも連絡しといて!」
「あの、だから何がですか?」
要領を得ない一方的な物言いに俺は困惑する。何か面倒ごとに巻き込まれそうな、嫌な予感がする。
「ウチのダンナが当てたんだよ」
「当てた?」
「高級温泉旅館の4名さま無料招待券!」
「え? ああ、おめでとうございます……」
「ちゃんと話聞けよ! 4名なんだよ!」
「そうなんですか」
「ああもう、ソラっちはほんと鈍いよな! あたしら2人じゃ頭数が足りないから、お前らも行くの!」
「え、お、おう……」
お、おう、としか言いようがなかった。
* * *
カメさん宅にて、カメさんが事のあらましを語る。興奮してわけがわからなくなってる彼女さんと違って、カメさんはのほほんとした様子で、焼酎が入ったグラスを傾けている。まだ昼間なのに。
「焼酎に付いてるアンケートに答えたら、抽選一組に当たっちゃったよ」
カメさんは携帯デバイスの画面を見せる。そこにはデカデカと『当選』の文字が表示されている。
「当たるんですね、こういうの……」
俺は差し出されたあたりめを摘みながら言う。
「僕もそう思ってたよ。まあ、と言うわけで、僕たち二人だと定員割れで勿体無いし、だったらソラトくんとアオイちゃんも誘おうかと思ってね」
「俺は、まあ、いいですけど、アオイは……?」
正直、カメさんたちとアオイはそこまでの関係なのだろうか? なんか適当な数合わせは、お互いに申し訳なくないか? だったらいっそのこと、カメさんたちの別の友人でも誘えばいいんじゃないか?
そう返すと「だったら、ソラトくんと、205号室のおばちゃんにする?」と笑う。
『温泉はねぇ! 最低でも5回入るんだよ! もったいないからねぇ! 酒は飲みすぎちゃダメだよ! 知ってるかい!? 酒のんで風呂に入ると血圧が上がってぶっ倒れるんだよ!!』
がちゃがちゃお節介を焼いてくるおばちゃんを想像して、俺は胸焼けがしてきた。
「友人って言うなら、アオイちゃんだって一度酒を飲んだ仲なんだから、もう立派な友人だよ。それに温泉旅館だよ? きっと彼女も喜んでくれるよ」
「は、はあ」
「楽しんでもらおうよ、ささやかな贅沢を、さ」
カメさんは一瞬遠い目をした。
その目が何を捉えているのか、俺にはわからない。俺はただ、調査ではなくプライベートでアオイと出掛けられる事に、戸惑いを覚えていた。
アオイへ向けた俺の感情は、先日の光の都を経て、明らかに変わってしまった。
自分の気持ちをはっきりと意識し、そしてそれが叶わぬものであると痛感し、自分の中にある日陰の画廊へと封じ込めようとしている。
それは、なんとも痛痒い感覚だった。
* * *
旅行当日。
近所のファミレス前で待ち合わせる。
アオイは、いつものぶかぶかのパーカーに、大きなリュックを背負って現れた。俺達3人の姿を見つけると、ムスッとした表情になり歩調を緩める。その表情が不機嫌ではなく、初めてのシチュエーションに対する戸惑いと緊張からきてるのは、なんとなく理解できる。
でも、バスでカメさんの彼女と隣同士に座ると、また性懲りもなく俺の失敗談で盛り上がり始めた。
正直やめて欲しかったけど、楽しそうな空気に水を差すのも憚られて、じっと堪える。
「アオイちゃんって、うちのと波長が合うみたいだよね」
「俺っていう共通のおもちゃがあるからですよ」
「はは、たしかに」
二人の前の席に座った俺達は、外の景色を眺めながらポツポツと言葉を交わす。カメさんは無言を心地よく感じさせてくれる。そんなところが、俺は好きだ。
バスは主幹道路に入る。自動運転に切り替わり、景色を撫でるようにゆっくりと走る。
思えば、調査以外で街を出た事など、片手で数えられるほどしかない。調査に赴く時とは異なる、心地よい高揚感が湧き起こった。命の危険に身を震わせる必要もなければ、
たまには、こんな日があったってバチは当たらないだろう。
主幹道路を降りたバスは、田園風景が広がるバス停で停車する。そこでしばらく待つと、旅館の送迎用バスがやって来る。
同車した他の宿泊客は、すでに酒に酔ってベロベロになっていた。さて自分も飲むか、とビールを取り出したカメさんと、それを取り上げて「すぐ寝ちゃうんだからちょっと止めとき」と制すカメさんの彼女。
俺は小型バスの固いシートにもたれる。そして、窓の外を眺めているアオイの横顔を見た。
「来てくれてありがとな。疲れてない?」
なんとなくの、労いの言葉。
「別にソラトじゃなくて、その『温泉旅館』ってのに行ってみたかっただけだから。それに、後ろの二人にもちょっと興味があったし」
そっけなく返すその言葉は、高揚感の裏返しに見えた。その証拠に、アオイがチラチラ眺める携帯デバイスの画面には『温泉を楽しむテクニック!』と言う文字がデカデカと踊っている。
「温泉旅館、行った事ある?」
「山の中に沸いてる温泉なら入ったことあるもん」
「それって、調査の時に入ったやつだろ。俺あん時、森ん中で待たされてめっちゃ蚊に刺されたんだけどね」
「他にも入った事あるし! まあ調査の時だけど……ていうか、人のデバイス覗き見ないでよ! 変態!」
「見たんじゃない。見えたの」
「そういう時は、意図的に目を逸らしますよね」
「はいはい、すいません」
俺はいつも通り接する事ができているだろうか。
このモヤモヤした感情が、閉じた唇の端から漏れ出していないだろうか。
* * *
「おお、趣があるねぇ」
小型バスに揺られる事30分。やっと到着した温泉旅館の外観を見て、カメさんが呟く。
年季を感じると言えば聞こえはいいが――サビが目立つ鉄骨に支えられた黒ずんだ木造のその建物は、されるべきリフォームもされないまま、ただ静かに死期を待っているようにも見えた。
この業界も、今では最盛期の20分の1の規模まで落ち込んだらしい。
キカイが台頭し、VRを筆頭とした動的なアミューズメントが浸透すると、旅行や観光のような静的なアミューズメントは徐々に下火となった。
部屋にいながら刺激的な体験が出来るのだから、生で感じる素朴な体験に昔ほどの価値はない。ましてや旅行なんていう金や時間を無駄に費やす娯楽を楽しめるのは、その金と時間を持て余している者達に限られる。
とは言え、富む人は富む人で、外に繰り出すよりは自室のVRを如何に快適にしていくかに尽力する時代だ。
訴求する層を失ったツアー業界は縮小を続け、今では金持ちの中でも特に奇特な者達が嗜むものになっていた。
アオイにはああ言ったけど、俺だって温泉旅館なんて来た事がない。
この古びた風貌は、維持と崩壊の間の姿なのかもしれないな。
カメさんのオブラートまみれの言葉に頷いた俺は、時代の波に取り残され、浜辺に打ち上げられた流木のような建屋を眺めた。