生まれて初めて行った遊園地は、山道の先で廃城のように佇んでいた。
俺は5歳かそこらで、母さんはまだ元気だった。朝昼晩の1日三本しかない直通バスに乗って、俺と母さんは人生で数回目の小旅行へと赴いていた。
今になって思えば、あの廃城のような寂れた遊園地ですら、母さんにとっては手痛い出費だったに違いない。都会の方に行けばもっと盛大で、もっと華やかな遊園地は山ほどあった。しかしそれは俺たちにとってあまりにも遠く、小舟で大海を渡るよりも心許ないものだった。
園内の人はまばらだった。
節約のためなのか、工事中の看板が貼られて稼働していないアトラクションがいくつもあった。
取手の部分が錆びついているメリーゴーランドの木馬に跨ったが、それっきりだ。母さんには申し訳なかったが、俺はその遊園地を楽しむ感情が湧き起こらなかった。
そこは、自分の住んでいる集合住宅とも、暇を潰している公園とも、たまに買い物に行くスーパーとも、たいして変わらなかった。
緩やかに死んでいくもの特有の、すえたような死の香りが漂っている気がした。
遠くから園のマスコットキャラが歩いてくる。
ひどく気だるい歩調だった。
プラスチックで出来たその目はくすんでいて、薄い日の光を吸い込むほど暗く澱んで見えた。
歩き疲れた俺と母さんは、公園の外れのベンチに腰を下ろして、死にゆくものの陽炎を眺めながら、持参したおにぎりを食べた。
俺はもう帰りたかった。
でも、俺のためを思ってここに連れてきてくれた母さんの事を思うと、そんな薄情な事を言えるわけがなかった。
具のないおにぎりは、いつもより味がしなかった。
一陣の風が吹く。
寂しくて、悲しくて、涙を誘うような風だ。
俺は目に砂埃が入らないように、俯く。
『ソラト、顔を上げて』母さんが言った『すごいよ、これは――』
最初、母さんの言ってる意味がわからなかった。でも俺は母さんの言葉だったらなんだって信じた。あの頃の俺にとって、母さんが世界の全てだった。
俺は顔を上げる。
その視界の端を、白い雪のようなものが掠める。
目を見開いた俺の前に、壮大な花びらの雨が舞い落ちていた。
死にかけの遊園地の、鈍色の景色を塗りつぶすような、白く鮮やかな花の死骸たち。まるで死に際を彩ろうとするかのような、命の最後の輝き。
俺はその花びら一つ一つを目で追おうとしたけど、その壮大さに平伏し、諦めた。そして自分の後ろにある俯瞰の視線でもって、この壮絶な景色を一つのフレームに収めようとした。
涙が出た。
なぜだかわからないけど、俺は泣きながら笑っていた。
美しいものを見ると、人は壊れてしまうのかもしれない。感情のメーターが振り切って、全ての感情が暴露され、泣きながら笑ってしまうのかもしれない。
幼い俺はそんな事を思った。
風が止む。
風上の方には、大きく育ちすぎた桜の木が、穴だらけの骸骨のような肢体を空へと向けていた。その指先には、剥がれかけの花びらがこびりついている。
死にかけの花。
死にかけの遊園地。
儚く散っていくものほど、すぐに消えてしまうものほど、なにより美しいのかもしれない。
だったら、この世界はなんて悲しいのだろう。
帰り道のバスの中でも、さっき見た花吹雪が俺の脳裏を埋め尽くしていた。このまま徐々に薄れてしまうのが悲しくて、俺はそのシーンを何度も何度も何度も、頭の中で繰り返していた。
その事を告げると、母さんは優しい笑みを浮かべて言った。
『そんな時、昔の人は、絵を描いたんだと思うよ』
絵?
絵本のこと?
そう尋ねると、母さんは困ったように笑った。今はキカイが描いてくれるけど、昔は絵を人の手で描いていたらしい。
俺は母さんの言葉を信じて、チラシの裏に鉛筆で桜吹雪を描く。今思えば、それはただのぐしゃぐしゃの落書きでしかない。
でもそれが、今の俺へとつながっている。
* * *
「寂しいよぅ……」
へたり込んだアオイが、ウルウルした目で俺を見る。
さっき渡された小皿一杯程度のお神酒で、こんな状態になってしまうなんて……。俺はため息を吐いて、風に乗って波打つように揺れる提灯を見上げた。
光の都と称される古びた神社の境内は、その名の通り温かく揺れる灯で満たされていた。
神社を囲う杉林から何本もの綱が縦横無尽に張り巡らされていて、そこに何百もの提灯が吊り下げられている。暖色の光は、温かくもどこか扇情的なヴェールで境内を包み込んでいる。
そこに立つ男女は、姿も心も、濃い影で縁取られるような気がした。
女性の着ているあからさまにひだの多い衣服は、影という装飾が加わることでより豪奢に見える。この効果まで考慮しているのなら、確かに素晴らしい衣装に違いない。
「みんなしていちゃつきやがって……ムカつくよぅ」
アオイがまたぼやいた。
光の都に通された俺達は、そこで朝まで思い思いの時間を過ごす事になる。本来はここで……まあ色々とやっていたのだろうが、今となっては単なるデモンストレーションに他ならない。
しかしこのムーディーな雰囲気に触発されて、怪しげに視線を絡ませあうカップルもちらほら現れ始めている。
俺はお神酒の入った瓶子を傾けて、もう一杯酒を飲んだ。
「うわ、キスしてるよソラト、ほら見て、あの木の影……」
「いいじゃん、俺たちと違って、恋人同士なんだし」
「でもさ、なんかエロい感じだよ! ダメだよ! ズルいよ!」
ダメなのかズルいのか、どっちなんだろうか。ちょっとのお酒で完全に理性を失ってしまったアオイは、眼を瞬かせながら地団駄を踏んでいる。
何をそんなに騒ぐことがあるのか。
婚約者がいる身なんだから、キスくらい息を吐くように しているもんなんじゃないのか……?
そんな事を遠回しに尋ねると、アオイは酒で赤くなった顔をさらに赤くして、ブンブンと首を振った。
「してない! した記憶……ない!」
アオイの婚約者さんは、随分と清廉潔白で紳士的な男らしい。俺だったらどうだろう? そんな事を考えてたら、だんだんと薄暗い気持ちが膨らんできた。
カメさんのところで、アオイと飲んだ日の事を思い出す。二人きりの部屋で、俺を支配しようとした強い感情……。あれが邪なものであれば、俺の心は常に大魔王に支配されていると言えなくもない。
「別にね、そういう事がしたくないってわけじゃないんだよ。拒否してるとか、そんな事ない」
アオイは言い訳のように、そして独り言のように、ボソボソと呟く。
「私、肌、見せたくないんだ……」
「え、なんで?」
そう尋ねてから、触れるべきではない事に容易に触れてしまったと後悔した。
しかしアオイは不快な表情を見せる事なく、罪を懺悔するかのような口調で、揺れる提灯を見ながら言う。
「私の身体、傷だらけで汚いから――」
俺は何も言えなかった。
なんて言っていいのか、俺がわかるはずもなかった。
アオイは羽織っていたウインドブレーカーを脱ぎ、支給された衣装姿になる。そして肩に羽織っていたボレロをゆっくりと外した。調査の際はいつも長袖だから、俺は彼女の肘から上の肌を見た事がない事に気付く。
顕になったアオイの二の腕には、幾つものケロイド状の傷跡が見えた。火傷の跡かもしれないし、何か鋭利なもので何度も斬り付けられた跡かもしれない。
荒んでた、と表現された彼女の過去が、白い肌の上に赤黒い染みを作っている。
アオイがなぜこの衣装を嫌がったのか、本当の理由がわかった気がした。
見せたくもない過去の傷跡。提灯の灯りが作る陰影は、それをささやかながら覆い隠している。
生々しい傷跡から目を逸らすように、俺は顔を上げた。
そこでアオイと目が合う。
アオイは、今までにないほど、怯えた目で俺を見ていた。
アオイはなぜ、俺にこの傷を見せたのか。
その問いに対する答えを、彼女の目は語っている。
彼女はきっと『言葉』を求めていた。
だから俺は、偽りのない本心の言葉を、なんの知略も駆け引きもないまま、ただバカみたいに伝えた。
「汚くなんかない。綺麗だよ」
怯えていたアオイの目に、光が灯る。夜空を埋め尽くす提灯の灯りより明るい光だった。
「本当に?」
「ああ。婚約者さんも、絶対にそう思ってくれるはずだ。だから大丈夫」
俺は作り笑いを浮かべた。
「そう、かな」
「俺が嘘言った事ある?」
「ある」
「そうだっけ?」
「たまに、食料ないって嘘つくじゃん」
「あれはアオイが、あるもの見境なく食べようとするから……」
「そんな事ないし……」
「でもこれは、嘘じゃない。アオイは、汚くなんかない」
「そっか……よかった」
アオイは立ち上がり、顕になった二の腕を隠す事なく、両手を上げて大きく伸びをした。暗い空に輝く希望の光に手を伸ばしてるみたいだな――なんて、俺はそんなどうでもいい事を考えた。
そしてアオイは振り返る。
柔らかな薄桃色のスカートと、アオイの白い肌と、艶やかな黒髪が、俺の視界を奪っていく。
その光景を、俺は幼い頃、何処かで見たような気がしていた。
「ソラト、ありがとう」
そうだ、あれは俺が絵を描き始めるきっかけになった、あの桜吹雪だ。
視界いっぱいを覆い尽くす白い花びら。
死にゆくものの見せる、最後の彩り。
俺のこの感情は、いずれ消えていくのだろう。
アオイに対するこの気持ちは、きっと交わることはない。時間と共に弱まり、薄れ、霧散する事が宿命づけられているのだから。
だったら俺は、この景色を――
この感情を――
一枚の絵に閉じ込めてしまおうと思った。
子供の頃、絵を描こうと思ったあの日の俺が、そうしたように。
恋人達は肩を寄せ合いながら、提灯の作る光に照らされている。ある二人は語り合い、ある二人は手を繋ぎ、ある二人は口づけを交わしている。
そして、立ち上がったアオイは俺を見下ろしている。
光の都の後光を纏った彼女は、本当に綺麗だった。性懲りも無く俺は、また彼女に心を奪われていた。
消え去るべき想いほど、美しく見えるなんて――
この世界は、なぜこんなにも悲しいのだろう。