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第22話 Fitchers Vogel……?

 城と言っても、そこに広がるのは豪奢な宮殿ではなかった。城門ブルクトーアを抜け、外郭、中庭を進むと、その先にあるのは城主の邸宅である本館パラスだった。三、四階建てほどの高さだろうか。重厚な煉瓦で造られた大きな建物は、風雨にさらされながらもその威厳を失わず、歴史の重みを静かに語っているように見える。日本の城で言えば御殿に相当するのだろう。


 その入り口は簡素な作りの木製の扉だった。だが、その大きさは人が二人並んで通れるほどで、両開きの扉が堂々と据えられている。


 九朗は双子と目で合図を交わすと、慎重にその扉へと手をかけた。冷たい感触が掌に伝わり、軽く力を入れるとゆっくりと扉が開いていく。その動きに合わせて扉の軋む音が響き渡り、その音は静寂に包まれた空間に重苦しく広がった。


 扉の先に広がっていたのは、広大な大広間だった。横にも縦にも開放的な空間は、二階の吹き抜けによって一層の広がりを見せていた。その前方には二階へと続く大きな階段があり、途中の踊り場で左右に分かれている。華美というよりも重厚で実用的な造りで、西洋建築で言う大階段を彷彿とさせる。その階段の手すりは黒光りする木材で作られており、長年使い込まれたことで角が丸くなり、手触りの良さを想像させる。


 その大階段の踊り場に、その男は立っていた。


 堂々たる体格に、厚い胸板と広い肩幅。その身長は二メートルを優に超えるだろうか。まるで圧力そのものを体現したかのような巨体は、一目見ただけで息を呑むほどの威圧感を放っていた。

青黒く光沢を帯びた髭は豊かに蓄えられ、その異様な色合いは、見る者に冷たい不安を抱かせる。鋭く光る眼光はまっすぐにこちらを射抜き、その一瞥には凍り付くような冷酷さが潜んでいる。威圧的な存在感と共に、その顔立ちには厳格さが刻まれ、中世の厳しい規律を背負った王者を思わせた。


 身に纏うのは豪奢な衣服。黒いベルベットの外套は高価な素材で仕立てられ、金糸がふんだんに施された刺繍が煌めいている。首元を飾る白いレースのシャツは細やかな技術が光り、その装いには一切の隙がなかった。腰に下げられた装飾剣もまた、華やかな彫刻と宝石があしらわれており、彼の権威をさらに際立たせている。


 この男こそが、この古城の主であることは誰の目にも明らかだった。その存在感と貴族然とした姿は、まるで中世の英雄譚からそのまま抜け出してきたような風貌だった。


 彼の立つ踊り場の中央で階段を睥睨へいげいするその姿には、ただの威厳だけではなく、ある種の冷徹さと、何かを見通すような眼差しが宿っている。九朗たちは、その圧倒的な存在感に思わず足を止め、息を飲んでしまった。


「おや……? これはこれは! ようこそ我が城へ、名もなき読み手マスターよ!」


 男が低く重々しい声で九朗に向けて言葉を放つ。その声は胸の奥にまで響くようで、ただ言葉を聞いただけでも威圧感が伝わってくるかのようだった。


 九朗は男の言葉に反応し、その巨体と異様な雰囲気をまとった姿を凝視した。まさか……これがグリムなのか? そう考えた瞬間、背筋を冷たくなるような感覚が彼を襲った。


「あなたがグリムなのか? 赤ずきんが来ていたはずだ、彼女は何処だ!」


 九朗は声を振り絞るように叫んだ。


「ほう……? そうか、汝が赤ずきんロートケップヒェン読み手マスターか!」


 男は九朗をまるで品定めするかのように見下ろし、ゆっくりとその口元を歪めた。


「こんな小僧であったとはな! くふははははははははは!」


 その笑い声は低く奇妙で、聞く者に底知れぬ不気味さを感じさせる。笑い声が広間の静寂を切り裂き、反響するたびに九朗の心に嫌な感情が湧き上がった。背筋を撫でるようなその異質な空気が、彼の全身を縛りつけるかのようだった。


「もう一度言う! 彼女は何処だ!」


 九朗はその場に釘付けになりながらも、必死に声を張り上げた。その目は鋭く相手を睨みつけ、わずかな恐怖を押し殺している。しかし男は動じる様子もなく、階段の踊り場に堂々と立ち続けていた。


「ふむ……。会いたいかね? まあ、いいだろう。会わせてやろう」


 男が低く響く声で言い放つと、床に黒い穴が開いたような空間が広がり始めた。その穴はまるで闇そのものが形を成したかのように不気味で、九朗たちの視線を引き寄せた。

 その闇の中から、鉄鎖に縛られた赤ずきんがゆっくりと姿を現した。彼女の衣服はところどころ裂け、血まみれの傷がその体を覆っている。意識を失っているようで、その顔には苦痛の痕跡が刻まれていた。床の黒い穴が閉じると、赤ずきんは力なく床へと崩れ落ちた。


「赤ずきん……!」


 九朗はその姿を見て息を呑み、目の前の男を睨みつけた。


「あなたは! 赤ずきんに何をした!」

「何もしておらんよ」


 男は冷ややかに答えた。その声には一片の感情もなく、ただ淡々と事実を述べるだけだった。


「向かってきたから返り討ちにしたまでのこと。赤ずきんロートケップヒェンには少し痛い目を見てもらったがね。我に逆らうとは、まったく躾のなっていない娘よ」


 そう言いながら、男は立派に蓄えられた髭をなぞるように撫でた。その仕草には余裕と冷酷さが漂い、九朗の怒りをさらに煽るようだった。


「……赤ずきんを返してもらおうか!」


 九朗の声には怒りが滲み、広間の静けさを鋭く切り裂いた。その視線は目の前の男に突き刺さるようだったが、男はその言葉に微動だにしない。


「それは困る。我にも都合というものがあるのでな」


 男は低い声で、堂々と応じた。その口元には冷たい笑みが浮かび、わずかな余裕さえ感じさせる。


「そのために魔導書グリモワール共をけしかけ、ようやく手にすることができたのだ。おいそれと渡すわけにはいかんよ」


 九朗は歯を食いしばりながら一歩前へ踏み出す。その目には怒りと焦りが交じり、言葉を重ねた。


「……では、あなたがシンデレラやラプンツェルを! 何のために!」


 その質問に、男は不気味な笑いを漏らした。


「さあて、何のためであろうかなあ?」


 そう言いながら男はその立派な髭をなぞりつつ、低く響く笑い声を広間に轟かせた。


「ふはははははははは!」


 その笑い声は広間を支配し、九朗の心をさらに不安で染め上げていく。目の前の得体の知れない男……彼の存在はただならぬ気配を漂わせ、九朗の怒りを煽りながらも、その視線には抗い難い威圧感がある。段々とその感情が混じり合い、九朗の表情には焦りが浮かび始めていた。


「グリム! 魔導書はあなたが生み出した、いわば子供のようなものだろう! それをまるで捨て駒のように! あなたは……!」


 九朗の声は鋭く響き、目の前の男を激しく問い詰めた。


 しかしその時、九朗の服の裾をグレーテルがそっと引っ張った。彼女の表情には冷静さが宿り、その瞳にはわずかに焦りの色が見える。


「落ち着いて、お父さんマスター。あれはお父様グリムではないわ」


 グレーテルは低い声で静かに告げた。その言葉に九朗は一瞬動きを止め、戸惑いを見せた。


「グリム……ではない? では、あれは……?」


 九朗は呆然とした表情で問い返す。彼の視線は男に釘付けになり、その謎に満ちた存在を見定めようとしていた。


「僕らにも確かなことはわからないけど、おそらく魔導書グリモワールだよ」


 ヘンゼルが低い声で続け、九朗を庇うかのように一歩前に出た。その動きには警戒心が滲み、彼の目は男を鋭く睨みつけていた。


「でも、僕らも知らない魔導書グリモワールだ」


 九朗は彼らの言葉を反芻しながら、男を再び凝視した。目の前に立つその得体の知れない存在……グリムではなく、見知らぬ魔導書であるという事実が、彼の心に新たな疑念をもたらした。


 ヘンゼルとグレーテルの背後に立つ九朗は、自分が見守られている感覚を覚えながらも、内心では胸に渦巻く不安を抑え込もうとしていた。その男が何者なのか、そして彼の目的が何であるのか。その答えを追求する必要があるのは間違いなかった。


「ふはははははは! ヘンゼルとグレーテルヘンゼル・ウント・グレーテルか! さすがに魔導書グリモワールの目は欺けぬか!」


 男は声高に笑い飛ばすと、優雅な仕草で右手を胸元に当て、一礼をする。その動きには不気味なほどの堂々とした余裕が漂っていた。


「名乗らせて頂こう。我はグリム童話第四六編……フィッチャーの小鳥フィッチャース・フォーゲル!」


 男はまるで彼らを嘲笑うかのように口元を歪め、冷たい笑みを浮かべる。その言葉には威圧感が込められており、周囲の空気を重々しく染め上げた。


「嘘だわ」

「嘘だね」


 双子は声を揃え、顔を見合わせることなく断言した。その声には疑念ではなく、確信が宿っていた。


フィッチャーの小鳥フィッチャース・フォーゲルは『女』よ」


 グレーテルの目は鋭く光り、男を見据える。彼女の言葉には冷静さと挑戦的な色が混じっている。


「あの物語の主人公は魔術師の三番目の妻となった女。魔術師のほうではないわ」

「お前は誰だ」


 ヘンゼルが一歩前へ進み、強い視線を男へ向ける。その瞳には疑問だけでなく鋭い警戒心が込められていた。


フィッチャーの小鳥フィッチャース・フォーゲルを喰ったのか。それとも単なる嘘つきか」

「ぐふふふふふ……。ふはははははははははは!」


 双子の問い詰めにも男は応じることなく、不気味な笑い声を広間に轟かせ続ける。その笑い声はあまりにも異様で、九朗はその場に凍りついたように感じた。恐怖が知らぬ間に彼の心を覆い尽くし、その異常な存在感に圧倒されていた。

 この男の正体……グリムでもなく、フィッチャーの小鳥フィッチャース・フォーゲルでもない得体の知れない存在。それを知る術は今のところない。


「さあて? 我は誰なんだろうなあ?」


 男はそう嘯きながら、再び声高に笑い出した。その不気味な笑い声だけが広間に響き渡り、周囲を支配していた。


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