人々の悲鳴が響き渡る。とりわけ、女子供の甲高い声が周囲の空気を震わせる。だが、それは悲痛な叫び声ではない。確かに恐怖の叫びではある。しかし、そこに血の匂いや硝煙の香りは存在しない。
色とりどりの原色が、視界いっぱいに広がっていた。中央には白亜の城が堂々とそびえ立ち、その背後には巨大な大車輪がゆっくりと回る。右手には高低差が計り知れないレールの山。そこを疾走する車両。悲鳴と歓声が交錯する。大人も子供も興奮に身を委ね、笑い、叫び、はしゃいでいた。
夢と幻想が交錯する魔法の国。そう、ここはとある遊園地。九朗たちはそんな世界に足を踏み入れていた。
「なぁ……? なんであたしはこんなとこにいんだ?」
白亜の城を一望できるテラス席。その景色の美しさとは裏腹に、赤ずきんの声色には露骨な不満が滲んでいた。彼女の手元にある、アイスコーヒーのストローの端が強く噛みしめられて歪んでいる。その様子が、彼女の機嫌の悪さを何よりも物語っていた。
「たまにはいいじゃないか」
静かに答えたのは、正面に座る九朗。彼も同じようにアイスコーヒーのストローに口をつけているが、こちらのは綺麗なままだった。飲み方ひとつとっても、二人の温度差がはっきりと浮き彫りになっていた。
「けっ……ガキじゃあるまいし……」
赤ずきんは苛立たしげに呟き、視線を横へとずらした。その先にあるのは、周囲がドン引きするほどの速度で回転するティーカップ。中ではしゃぎ回るヘンゼルとグレーテル。何が楽しいのか絶叫を上げながら、限界までティーカップを二人は回し続けていた。
赤ずきんはそれをしばし見つめ、「……馬鹿か、あいつら」と小さく呟いた。
「楽しくないかい?」
九朗の何気ない問いかけに、赤ずきんは面倒そうにため息をついた。
「
不機嫌な声が冷たい風のように零れる。しかし、九朗は変わらず穏やかだった。
「僕に言わせれば、キミの見た目はそういうので楽しむ年齢に見えるけどね」
その一言に、赤ずきんの目が鋭くなる。睨みつけるように九朗を見据えると「ちっ……」と、静かに舌打ちをし、アイスコーヒーのストローをまた乱暴に噛みしめた。
青髭との戦いから、ひと月ほどが経とうとしていた。
血生臭い非日常からようやく戻り、九朗は今の生活の穏やかさを実感する。万事平穏。それは尊いものだ。だがその平穏が長く続くかと言えば、話は別だった。九朗の部屋には、赤ずきん、ヘンゼル、グレーテルの三人が同居することになったからだ。
赤ずきんとの生活は、決して楽ではないものの、そこまで落ち着かないということもなかった。少々難のある性格ではあるが、彼女は基本的には問題を起こすようなことはない。ヘンゼルとグレーテルも、決して喧しい子たちではない。九朗の言葉をよく聞くし素直でもある。
しかし、この二冊の
だが、その想いは双子にとっても同じだった。ヘンゼルとグレーテルにとって、九朗の役割は
特にグレーテルとは女同士、思うところがあるのか、毎日のように激しい舌戦が繰り広げられた。時折、物理的な手が出ることもある。だが、それをすれば九朗が本気で怒る。そのため、互いに自重し合いながらも、空気は悪化の一途を辿っていた。一触即発の様相。火種を抱えたギスギスした同居生活がそこにはあった。
これには九朗も困り果てていた。どちらか一方を立てれば、もう一方の顰蹙を買う。特に赤ずきんが銃を取り出した時などは、気が気ではなかった。このままでは、狭いながらの我が家が戦場と化すのは時間の問題。そこで九朗は思い至る。喧嘩をするのは、お互いをよく知らないからではないか、と。ならば、友好関係を築くには、共に遊びに出かけるのが得策。よし、じゃあ遊園地だ!
まるで天啓を受けたかのようにそう決断し、当の原因の一助となる自覚のない愚鈍な男は、明後日の方角の解決策へと突っ走った。
その結果が、今の状況である。
「ところで、
赤ずきんは不満げな表情を浮かべ、白い格子状の背もたれのついたテラス席の椅子に体重を預ける。気怠げに、しかし確かに鋭く食い込むような視線を九朗へと向ける。
「……なんのことだ?」
九朗は曖昧に答える。気のない声。だが、それはあえての意図的なものだった。
「とぼけんなよ。お前の話だ」
赤ずきんは容赦なく言葉を切り込む。逃がす気はない、その態度は明確だった。
この話題には、あまり触れて欲しくはなかった……。
それは、青髭との戦いが終わった時、エーミールと交わした言葉。九朗は静かにその記憶へと沈んでいった。
◇
「そうだな……まずはクロウくんのことから話そうか」
エーミールの声音は穏やかだったが、その響きには確かな重みがあった。青髭の城を後にした九朗たちは、
「もうわかっているとは思うが、クロウくんが狼化するのは
赤ずきんは低く舌打ちしながら、鋭く睨み付ける。
「解せねぇな、
苛立ちを隠そうともせず、言葉を叩きつける。
「あたしの
この赤ずきんの話は他の赤ずきんの話とは違う。彼女の物語において、狼は謂わば他の作品の
「そりゃ獣なんだから狂暴性はあるだろうが、暴走して自我を失うようなもんじゃねぇ」
彼女は唇を噛んだ。
「そんな記述はねぇ。なら何故、
沈黙が落ちる。だが、エーミールはすぐに答えを導き出した。
「簡単な話だ、
赤ずきんの眉がピクリと動く。
「
赤ずきんは低く息を吐く。
「おい、あいつが喰ったのは
エーミールは「ふむ……」と呟くと、ゆっくりと口を開いた。
「まだわからんかね」
エーミールは静かに言葉を紡ぐ。
「
赤ずきんは息を詰まらせた。未だ納得のいかない様子で、ゆっくりと視線を逸らす。その視線の先には、ただ静かに話を聞いている九朗の姿。思わず目を合わせる。しかし、次の瞬間、赤ずきんはふいに視線を外した。
「つまりは……あたしのせいだってことだろ……」
かすかな声が響く。
「赤ずきん……」
九朗は、彼女の伏せた視線の奥にあるものをただ黙って見つめていた。その表情は、痛みを押し殺したような悲痛な色を帯びていた。
「そう悲観的になるな。解決する方法はある」
エーミールは静かに言いながら、懐から筆を取り出した。次の瞬間、筆先から光が溢れ、空へと輝く線を描いていく。紡がれる魔法の軌跡。その神秘的な輝きの中、エーミールはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「
その言葉に、赤ずきんは眉をひそめる。そして低く舌打ちしながら言い放った。
「待てよ、
声にはわずかな苛立ちが滲んでいる。
「なんでそれで暴走が治る? どれもこれも
エーミールは一度筆を止める。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「それは違う。
エーミールの言葉に、九朗は難色を示した。その戸惑いは、表情にありありと浮かんでいた。
「……エーミールさん、それはできません。それは、何の罪もない魔導書を赤ずきんに襲わせるということですよね?」
唇を噛みしめる。
「僕のために、赤ずきんにそんなことはさせられません」
赤ずきんは、ゆっくりと息を吐いた。
「……別に、他の
その言葉に、九朗の表情が険しくなる。
「赤ずきん!」
彼は赤ずきんの方を向く。しかし、赤ずきんは、視線を逸らしたままだった。沈黙が落ちる。
エーミールは、そんな二人を見つめながら筆を指で回した。
「まあ、待ちたまえ」
淡々とした口調で次の言葉を紡ぐ。
「何も吸収しなくても、クロウくんがその
「当然だな」
すると、赤ずきんはわずかに口元を歪め邪な微笑を浮かべた。
「寝首を掻いて、喰い散らかしてやるだろうよ」
その言葉に、九朗は苦々しい表情を浮かべる。
「キミに他の
重い沈黙。その中で……
「……あたしが嫌なんだよ」
赤ずきんの小さな声が響く。それはひどく淡く、そしてどこか震えていた。