☆ ここまでのあらすじ ☆
高校生になった伊川一博は、釈光寺組組長である、実父釈光寺琢己の屋敷を訪ねる。
琢己の屋敷で暮らし始めた一博は、ある晩、奥座敷で、龍と麒麟がむつみ合う姿を目撃し、自分がゲイだと自覚する。
翌夕、若頭補佐の日向潤と引き合わされるが、麒麟の入れ墨を背負った男だった。
一博は、軽い気持ちで潤を誘うが、拒絶され、激怒する。
潤は「わたしは、オヤジさんに若のことを任せられた以上、命を投げ出してでもお守りします。それだけはわかってやってください」との言葉を残して立ち去る。
大学を卒業した一博は、琢己不在時に、カチコミを決行して重傷を負う。
退院した一博は「一度だけ」という約束で、琢己と関係を持つ。
一博と張り合う長男祐樹が、関西の組織と手を結び、一博は罠に落ちるが、潤に救われる。
再び潤に拒絶され、潤の琢己への思いを再確認する。
英二が、一博をかばって刺される。
琢己と再び関係を持ってしまった一博は、琢己を疎ましく思うようになる。
義父に呼び出された一博は、義父伊川正雄が中国マフィアのボスミスター・Kで、潤はその配下だったと知る。
潤の手で琢己が暗殺され、一博は組長の座に納まる。
☆ 本文 ☆
潤との距離は縮まらなかった。
いつも冷静で感情を表さず、一博に献身的に仕え続け、言葉遣いのバカ丁寧さも決して崩さない。
セックスさえ、ノルマをこなしているだけに感じられた。
一博の中に、悔しさが募った。
憎しみさえ抱きながらも、自分から求めてしまう悔しさ。
必ず応じてくれるものの、一博はさらなる虚しさを抱いて夜明けを迎えるばかりだった。
釈光寺組組長として、そして釈光会会長としての仕事にも身が入らず、潤のスケジュール管理の上で踊らされる『人形』だった。
それでも万事順調で、釈光寺組は関東において着々と勢力を拡大していった。
その裏には潤のずば抜けた知略があり、潤の後ろには『神龍』という組織の力があった。
上がりの一部は、潤が帳簿を改ざんして『神龍』に流している。
そして『神龍』を通してやってくる武器や覚せい剤によって、釈光寺組も大いに潤うという図式である。
両者は、密かに情報を交換しあいながら、多大な利益を貪り、勢力を拡大させていった。
巨大組織のボスであるミスター・Kは非常に多忙だった。
そのため、呼び出しは、せいぜい月に一度ほど。
一博にとって幸いでもあり、待ち遠しくもあった。
心では拒否しつつも、体はあの甘美な日々を記憶している。
例のドラッグの魔力は絶大だった。
それはどうあがけば良いのかすら分からぬ泥沼だった。
六月四日、一博のもとに、英二の意識が回復したとの朗報がもたらされた。
つい先ごろ、自由診療を行っている私立病院に転院させた効果が出た。
一博はそう信じて疑わなかった。
「いくら金がかかったっていい。なんだって試してくれ」
一博は病院の院長の目の前に札束を積み上げてみせた。
おかげで、保険でまかなえぬ未承認の高価な輸入薬から、効果がおよそありそうとは思えぬ、非科学的でさえある療法まで、ありとあらゆる方法が試みられた。
それが功を奏したのか、覚醒すべき時期にあったものか。
ともかく英二は意識を取り戻し、脳へのダメージも全く無かった。
身動きが取れない境遇なだけに、この朗報が嬉しかった。
回復した英二はまた善人街道まっしぐらな人生に戻って行くはずだったが……。
「組長。英二さんのことだから、自宅に戻れば、すぐに復職して、無理なさるに決まっています。うちでゆっくり静養していただいたらどうです」
潤の言葉は、そのままミスター・Kの言葉だったから、一博は抗えなかった。
六月も半ばのある晩、湯上りに浴衣を着て離れでくつろいでいた。
かつての琢己がそうだったように、この離れで孤独を楽しむことが習慣になっている。
潤と密かに愛し合う場でもあった。
日が暮れて、涼しい風が吹き渡ってくる。
田丸章次が置いていった蚊取り線香の微かな匂いが、夏の訪れを主張していた。
縁側に腰をかけ、子供のように足をぶらぶらさせながらビールを飲んでいると、こちらに向かってくる人影があった。
「潤?」
甘い声をあげかけて、潤とは似ても似つかない歩き方だと気付いた。
潤は音も無く静かにやってくる。
身のこなしが豹のようにしなやかで、しかも落ち着きが感じられた。
大股で歩み寄って来る人影は、スポーツマン的なシャキシャキとした動きで、粗野さを感じさせた。
一博の脇に腰をおろした英二は、一博のグラスを受け取って、ビールに少し口をつけた。
「兄ちゃん。オレ、これからは自分のために生きることにしたんだ」
相変わらずの明るい笑みを浮かべてこう宣言した。
「ところでさ」
無邪気な笑顔で、子供の頃の思い出話を饒舌に話し始めた。
「兄ちゃんに木田川までウナギ捕りに連れて行ってもらったことがあっただろ。そのときさあ。オレが溺れそうになって。助けてくれた兄ちゃんって、すっごくカッコ良かったよな」
英二の記憶の中の一博は、全てにおいて美化され、兄らしい兄だった。
だが、一博の記憶は最初のところから違っていた。
一人で遠くの川まで遊びに行こうとすると、英二が勝手について来た。
夢中になって、ウナギをヤスで突いていると、英二が深みにはまって溺れた。
救ってやった後、慌てて元の場所に戻ったものの、ウナギはいなくなっていた。
『どうしてくれるんだ!』と、英二に二、三発くらわして大泣きさせた……はずだった。
邪険に扱い、苛めた記憶しかなかったので、懐かしいどころか面映かった。
「兄ちゃんってさ……」
英二は、一博との思い出を次々に話し続けた。
今夜くらいは、このつまらない話に付き合ってやるか。
たわいのない話をするうちに、脇に置かれていた籐籠の中の大ビン四本は、たちまちカラになっていった。
「飲み足りないな」
一博は廊下の隅にある小型の冷蔵庫に向かった。
しゃがんで冷蔵庫の中の缶チューハイを取り出し、適当なつまみはないか、ごそごそと庫内をあさっていたとき。
「う」
背後から薬品のしみたハンカチを押し当てられた。
「兄ちゃん。一度だけ。一度だけでいいんだ」
英二が耳元でささやいた。
「んん」
へなへなと力が抜けた一博のからだは、そのまま英二のたくましい腕の中にすっぽりと収まった。
「兄ちゃん。今までのオレは死んだ。オレは好きなように生きてやるんだ」
英二は、一博の体を軽々と抱き上げた。
「オレは今まで、おふくろの期待に応えようといい子をやってきた。けどもういいんだ」
一博は薄れてゆく意識のなかで英二の心の叫びを聞いた。
「オレは、あのご立派な奉仕精神のおふくろの息子だけど……。あのオヤジの血も引いてるんだ」
英二も知っていた。
伊川正雄という父の正体を。
一博は激しい頭痛で目を覚ました。
英二の姿は無く、布団に寝かされ、浴衣はきちんと着せなおされている。
悔しさがこみ上げてきた。
英二は伊川正雄の正体を知っていた。
英二にまで、だまされ続けていたことが悔しかった。
今度会ったらぶっ殺す。
ふらふらと立ち上がった一博は、怒りに任せて、室内にあった物を片っ端から破壊し始めた。
「くそ。くそー!」
床の間に置かれていた、江戸中期の古伊万里の大きな壺――それは琢己がことのほか珍重していた逸品だった。
両腕で抱え上げ、庭に放り投げた。
カシャーンという小気味良い音とともに、木っ端微塵に砕け散り、一博はようやく我に帰った。
頭痛は消えていた。
そうだ。
英二を利用してやろう。
一博は、家に戻った英二を再び屋敷に呼び寄せた。
甘い言葉とともに。
潤を誘うことをピタリと止めた。
今まで一度も潤のほうから誘ってくることはなかったから、それは二人の関係に終止符を打つことに他ならなかった。
一博は、英二との仲を他の人間に決して気取られぬよう細心の注意を払い、潤には露骨に誇示してみせた。
潤はしばらくのあいだ、そういう話を無視していた。
だがそのうち、
「組長。ほどほどになさらないと……。若い衆が気付くようになります。そうなっては示しが……」などと、動揺の色を見せるようになった。
潤の気を引くことができた一博は、少しばかり溜飲を下げることができた。