治療を受けて随分とましになったらしいが、マイはあの一件以来、ストレスがかかると過呼吸の発作を起こすようになった。
「学校であんな感じになることがあるかもしれないから、その時はさっきやったみたいな感じでよろしくね」
おばさんに軽いノリで頼まれた。不安しかない。
玄関を上がると、マイはやっと手を離してくれた。ああとかふう〜とか言いながら、よろよろとリビングへと歩いていく。おばさんが「上がって。お茶入れるわ」というので、すみません、お邪魔しますとか言いながらついていった。
マイはリビングにたどり着くと、ソファーの前の絨毯に倒れ込むようにして突っ伏した。ソファーがあるから、そこに寝ればいいのに。だらんと両腕を体に添わせて、棒のように寝転がっている。息が止まったのではと心配になるくらい、微動だにしない。
しばらく見ていると腕だけ動かしてゴソゴソとブレザーをまくり上げ、後頭部からかぶった。隠れたつもりだろうか。スラックスに包まれた丸いお尻が丸出しで、頭隠して尻隠さずというやつを、今まさに目の前にしている。
隣に正座した。
こんな時、マイはどうしてくれたっけ?
僕はこういうダメージの受け方をしたことがない。帰宅して疲労し切って倒れるほど、苦しんだことがない。そうなる前に、学校から逃げ出していたから。
小学校の頃を思い出す。足がすくんで学校に行けないとき、マイはどうしてくれた?
頭を撫でてみることにした。ブレザー越しに後頭部に触れる。思ったより生地が厚いな。それでも、マイの髪の毛の感触があった。嫌がったらやめようと思っていたが、じっとしていて嫌がる様子はない。手を少し動かしてみてもされるがままだったので、後頭部のラインに沿って優しく撫でてみた。
なでなでなで……
そうだ。こうやって、頭を撫でてくれたっけ。僕の方が背が高くて手が届かないので、まあくん座ってと言って、よく頭を撫でて慰めてくれた。
撫でていると、マイは不意に僕の手を両手で捕まえた。一度離して眼鏡を外すと、うつ伏せになったまま、改めて僕の手を素早くキュッと捕まえて、自分の顔の方に持っていった。手のひらに、顔を埋める。マイの呼吸を感じる。手のひらが温かく、湿った。
すう、すう、すう
ちょっとこそばゆい。しばらくすると、息遣いがゆっくりになってきた。
「落ち着いた?」
しばらく間があってから「うん」と返事があった。
「まあくんの手、まめだらけ」
下を向いているので表情は読めない。だけど、ちょっといたずらっ子みたいな口ぶりだった。先ほどまでのような、切羽詰まった感じはしない。
「筋トレしてたら、そうなるねん」
マイは僕の手のひらにほおをすり付けた。
「ごめんね」
小さな声だったけど、しっかりと聞こえた。
「ええよ」
謝らんでもええよと付け加えた。
「こんなに疲れるとは思わへんかった」
僕の手のひらに顔をすりつけたままなので、声がくぐもってよく聞き取れない。
「あんまり大きな声では言われへんけど、無理して学校、行かんでもええよ」
僕は手のひらをむにむにと動かした。マイのほっぺたに当たって、気持ちいい。マイは起き上がると、僕の前で正座した。さっきの息が詰まって死にそうな顔を思えば、随分と気分が良くなったみたいだ。とはいえ、疲れていることは否定できない、少しやつれた表情をしていた。
「いやあ…。でも、学校には行かへんと」
なぜだ。なぜそこにこだわる。
もう一度言う。不登校歴の長い僕からすれば、そこにこだわるからストレスを受けるわけで、学校に行かないことを当たり前のこととして受け入れれば、一気に楽になる。
「しんどい思いをして学校に行っても、もっと辛くなるだけなんとちゃう?」
そうだ。黒沢や岩出のことを思い出して、嫌な気持ちになるのはマイなのだ。
「それはそうやけど」
マイは少し怒った顔をして、譲らなかった。
「これは、ウチが自分の力で乗り越えないとあかん問題やから」
昔からそうだ。マイがそうだというか、黄崎家の家風がそうなのだ。頑張って乗り越える。だけど、頑張ってもどうしようもないこともある。頑張れば頑張るほど、自分が傷つくこともあるだろう。
「学校に行かへんかったら、逃げたことになるやんか。いろんなことから」
マイは僕の目を見て、キッパリと言った。逃げて逃げて、逃げまくってきた僕からすれば、逃げることの何がいけないのかが、わからない。頑張りすぎないでくれと思う。頑張りたい思いも否定しないけど。
「わかったよ。だけど、絶対無理したらあかんで。息が止まったらどうすんの」
外した眼鏡をシャツの裾で拭いていたマイは、手を止めて少し驚いた顔をした。
「なん、心配してくれてんの?」
「当たり前やんか」
僕の返事を聞くと、ニッと笑った。
あ、笑ってくれた。よかった。
「はい、あなたたち、ホットミルク入れたわよ。マイは激甘ね。まあくんは微糖」
おばちゃんがお盆にマグカップを乗せて運んでくる。甘い牛乳の香り。それをいただいてから、僕は改めて学校に行った。
◇
翌日も3人で登校しようとしたが、マイはまた階段の上で止まってしまって、前に進めなかった。また呼吸が浅くなって、奥歯をグッと噛み締めている。階段を降りて改札を出れば毎朝、黒沢と待ち合わせしていた柱がある。そこが怖いのではないかと推測した。
他の生徒がいっぱいいる時間に登校するのも、よくないのではないかと思った。前日、ドタキャンしたにも関わらず、この日の朝も「黄崎、おはよ」と声をかけてくれる女子生徒が何人かいた。マイは引きつった笑みを浮かべて、軽く手を振る。はっきりと声を出してあいさつすることができなかった。
みんな、自分が岩出にやられたことを知っているのではないか? もう大丈夫?とか心配されたら、どう返事をすればいいのか。そもそも、あの一件を知られているということ自体が耐え難いストレスのはずだ。
「あああ、あかん。ダメ。もうこれ以上、進めへん」
マイは顔を引きつらせて、僕の手を骨が折れるんじゃないかと思うくらい強く握りしめた。
「マイ、大丈夫よ。ゆっくりでええから、行ってみよ」
おばさん、余計なこと言うなあ。マイは膝が震えている。眉根を寄せて、明らかに怖がっていた。
「あかんって! 無理、無理!」
そのうち、叫び声に近い感じで「無理」を連呼し始めた。過呼吸の発作こそ起きなかったが、パニック寸前になったので、引き返した。またリビングでブレザーを頭からかぶって、突っ伏している。
「ソファー、使わへんの」
手をもぞもぞ動かしている。もしかして僕の手を探しているのかと思って差し出すと、昨日と同じように僕の手のひらに顔を埋めた。
「ソファーではこの体勢が取りづらい」
顔を埋めたまま、モゾモゾと言う。
「ああ、そうなんや」
はあ〜とため息をつく。僕の手のひらに、マイの吐息が溜まった。
「めちゃくちゃ疲れる…」
手のひらに潜り込んでしまうのではないかと思うくらい、ぐりぐりと顔をこすりつける。
「僕の手のひら、臭うない?」
「ないよ…。この体勢、落ち着くわ」
すん、すん、とマイの呼吸がリズミカルに僕の手のひらに当たっていた。牛乳を沸かす香りがしているので、きょうもホットミルクが出てくるのだろう。
「2カ月も入院してたし、仕方ないよ」
もう一方の手で、マイの後頭部を撫でる。
登校ルートを変えてみてはどうだろう。あの改札口を通らなければ、学校まで行けるのではないか。京阪電車ではなく地下鉄で行って、歩いてはどうだろう。少し遠回りになるけど。あるいは自転車で行くとか。
おばさんにそのアイデアを話してみた。
「そうねえ。確かにそうかもしれないわ」
「地下鉄は嫌や。乗りたくない」
ソファーに座ってホットミルクを飲んでいたマイが、即座に割り込んできた。
「え、なんで」
「なんででも」
不快な顔をして強硬に拒否するので、おばさんは困った顔をした。
「まだ自転車の方がマシ」
実は、僕らの家から清栄学院までは、自転車で行った方が早い。駅まで歩き、乗り換えて、さらに降りて歩くルートと比べると、玄関から教室までの時間は、自転車で行った方が短いのだ。ただ、自転車は雨が降ると一気に不便になるし、何より通学途上は交通量が多くて事故も怖いので、僕らは電車で通学していた。
「人が多いのがしんどい」
マイはポツリとつぶやいた。
「ああ、それはわかるわ」
自分を知っている人に会うのではないか。いじめっ子に会うのではないか。何か言われるのではないか。教室にたどり着き、授業が始まるまでは結構、そのストレスと戦わなければならない。
ふと、閃いた。
「そうや。おばちゃん」
僕はひと息つくと、意を決したように「明日はちょっと…学校に行くの、ひと休みしませんか」と提案した。
「ひと休みって、まだ一回も行ってないけど」
何を言い出すのかと、おばさんは困惑気味だ。
「もう2日間も頑張ったし」
僕はマイの方を振り向く。マイは怪訝な顔をして、こちらを見ていた。どう?と目で訴えかける。「ひと休み」という言葉が響いたのか、マイの目がきらりと光った。
「一度、マイを知らない人ばかりのところに連れて行って、外出することに慣れた方がいいんじゃないかなと思うんですよ」
そうだ。これはナイスアイデアかもしれない。ちょっと自分勝手だけど。