翌日の昼。俺は学校を休み、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。
ゆっくりと片手を上げ、広げた手のひらをじっと見つめる。何も感じない。ただ、昨日のことが頭を離れなかった。
千秋が男と手を繋いで歩いていた。
仲良さそうに並ぶ姿。
暗がりでよく見えなかったが、相手のシルエットは浅間に似ていた。
「……っ」
胸がじんと痛む。そんなはずはない、と思いたい。だけど……。
俺は昨日の夜、千秋の後を追った。
あの時、気づけば店を飛び出していた。千秋が誰かと手を繋いでいた。その光景だけが頭に焼き付いて、他のことなんて考えられなかった。しかし、人混みに紛れてしまい、あっという間に姿を見失った。
どこに行ったのか、どこへ向かったのか。焦って探したけれど、千秋の姿はどこにもなかった。
仕方なく店へ戻ったけど、胸のざわつきは収まらない。真珠や北斗、美弥には「ちょっと体調が悪い」とだけ伝え、打ち上げを抜けた。
帰宅しても、頭の中はぐるぐると同じ考えを巡らせるばかり。あの男は誰だったのか。本当に浅間だったのか。千秋は……俺に隠れて、いつからあんなことを?
問いを何度も繰り返す。でも、答えは出ない。
「なんか……俺ってバカだな」
あの時追いかけて、俺はどうしたかったのか。
そんなことを考えていると、部屋のドアを軽くノックする音がした。
「優斗……」
母さんの声が、少し不安げに聞こえる。
「ん……?」
ぼんやりとしたまま上半身を起こし、ドアを開けると、困ったような表情の母さんが立っていた。
「どうしたの?」
俺が尋ねると、母さんは少し言い淀んでから、申し訳なさそうに言う。
「ねえ優斗、北斗君って……妹かお姉さんっているの?」
「……は?」
唐突な質問に、思考が追いつかない。
母さんは続ける。
「今、北斗君の顔をした女の子が家に来てるのよ……それに、もう一人知らない女の子もいたわね。二人とも優斗に会いたいって言ってるけど、どうする?」
「……え?」
一瞬で眠気が吹き飛んだ。
状況が理解できないまま、慌てて布団を跳ねのけ、勢いよく部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる途中、危うく足を踏み外しそうになりながら、なんとか玄関に辿り着く。
そして、息を切らしながら顔を上げると——
そこには、ブレザーの制服にスカートを履いた北斗と、セーラー服姿の美弥が立っていた。
「よっ!」
北斗は片手を上げ、軽く挨拶をした。
え……?
北斗が……スカート?
しかも、ちゃんと……。
「胸がある……?」
思わず口にしてしまった、その瞬間。
美弥が後ろからスッと手を回し、北斗の胸を持ち上げた。
「しかも北斗のくせに、けっこうでかい……」
「ミャー子てめえ!!」
北斗が激しく抗議する。
「ちょ、ちょっとここで騒がないで! 玄関で暴れるのはさすがにまずいって!」
俺は二人を必死になだめながら、慌てて外へ出た。
「と、とりあえずさ、ここじゃ落ち着かないし、公園にでも行こう? ね? 」
俺は困惑しながらも、二人をなんとか落ち着かせ、公園へ向かうことにした。道中、北斗と美弥は軽口を叩き合いながらも、俺はため息をつきながら歩いた。
それにしても……なんかこの二人、もう馴染んでないか? 昨日初めて会ったばかりのはずなのに、そういえば北斗って、うちの母さんともすぐに仲良くなってたし、人懐っこいんだよな……。
公園に着くと、ちょうどいい場所にベンチがあった。俺は自販機で買ったジュースを手に戻ると、二人に手渡す。
「お、ありがとな優斗」
「ありがとう、優P」
北斗はジュースをキャッチしながら蓋を開け、一気に飲み干す。美弥は手元の缶をじっと見つめた後、ゆっくりと口をつけた。二人が素直に礼を言うのを聞いて、俺は少し安心しながらベンチに腰を下ろす。
「それで……二人とも、どうして家に?」
俺が気になっていたことを尋ねると、美弥がさりげなく答えた。
「学校休んでる優斗が心配だから、見舞いに行くからついて来いって」
「おい!あっさりバラしてんじゃねえよ!」
耳元で怒鳴られ、美弥は無表情のまま両耳をふさぐ。
……二人とも、俺のこと心配してくれてたんだ。
「そっか……もう大丈夫だよ。明日はちゃんと学校に行くから。真珠に聞いたの?」
「ん?ああ、まあな。そっか……ならいいんだけどよ……」
北斗はジュースを飲みながら、照れくさそうに視線を逸らす。その仕草がなんとなく可笑しくて、ふと気になったことがあった。
「そういえば、その制服……」
見覚えのあるブレザーとセーラー服。北斗のブレザーは三萩野女子高校、美弥のは青葉台女子学園。どちらも……。
「二人とも女子高だったの?」
驚きの声を上げると、北斗が眉をひそめながらジロリと俺を睨む。
「んだよ……悪いか?」
「い、いや、別に……」
俺が引き気味に言うと、美弥がジュースの缶を傾けながら、唐突に俺をじっと見つめた。
「優P、私は?」
「え?」
不意に美弥が俺を見上げた。
「セーラー服、似合ってる?」
静かに問いかける声に、俺は一瞬戸惑う。
「あ、う、うん、似合ってるよ」
「そう……照れる……」
ほんのり顔を俯かせながら、小さく缶を回す美弥。そのわりに、無表情のままだ。
……いや、表情筋が一切動いてないんだけど。
「それにしても、セーラー服って新鮮だね……なんか、昨日よりも女子っぽい感じがする」
つい、そんなことを口にしてしまった。
「女子だけど?」
「いや、それはそうなんだけど……!」
俺が言葉に詰まると、美弥はわずかに首を傾げた。
「優P、私が女子であること、ちゃんと認識してる?」
「認識してる!してるから!」
「そう……ならよかった……」
美弥は静かに缶を傾ける。そのわりに、さっきよりさらにじっと俺を見てくる。
「でも……もっと可愛い服のほうがよかった?」
「え?」
「メイド服とか?」
「ちょ、待て!」
「ナース服は?」
「何の話になってるの!!」
「お前、美弥に何やらせる気だよ……」
俺の動揺をよそに、北斗が冷静にツッコむ。
ほんのり顔を俯かせながら、小さく缶を回す美弥。
「んで、昨日のあれは何だったんだ?」
ジュースを飲みながら、北斗が唐突に話を振ってくる。
「あ、あれって……?」
俺は思わず缶を握りしめる。
「優、お前昨日ファミレス出た後、あの女の後追いかけてったよな?」
「そ、それは……!」
「で? 結局見つけたのか?」
「……」
「なんだよ、その黙り方」
北斗の視線が鋭くなる。美弥はジュースの缶をそっと置き、俺の方をまっすぐ見つめてきた。
「……お前、まさか泣きながら帰ったんじゃねえだろうな?」
「そ、そんなわけないだろ!」
「怪しいなぁ~」
北斗がニヤニヤしながら俺を見てくる。俺は適当にジュースを飲んで誤魔化そうとした、その瞬間——。
「大丈夫、優P」
「え?」
「私は、妻として浮気の一つや二つ、気にしない」
「ゴフッ!!」
不意打ちの一言に、思いきりジュースを吹き出す俺。
「後からしゃしゃり出てきた奴が、なんでちゃっかり正妻面してんだよ」
北斗が的確なツッコミを入れるが、美弥は首を軽く傾げるだけ。
「じゃあ、昨日の子はやっぱり優Pの彼女?」
「直球だなお前……」
思わず咳込みながらも、俺は言葉に詰まる。
「でもまあ、そういうことだよな?」
北斗が改めて尋ねる。俺は口を開こうとしたが、どう言えばいいのか分からず、ジュースを握りしめたまま沈黙するしかなかった——。
「俺さ……」
不意に、北斗の口から躊躇うような声が漏れた。
「……小さい頃、母親に虐待されてたんだよ」
北斗の突然の告白に、俺は思わずジュースを持つ手を止めた。
「自己愛性パーソナリティ障害って知ってるか?」
「自己愛性……?」
聞き慣れない言葉に、反射的に聞き返すと、北斗は小さく頷いた。
「相手を貶したりして自己優越感に浸る……まあ、いわゆる毒親ってやつだよ」
毒親……言葉としては知っていたが、まさか北斗がそんな環境にいたなんて。
「昔から、『お前は女っぽくない』とか、『何やっても可愛くない』とか、『お前なんか誰にも愛されない、愛してやれるのは私ぐらいなもんだ』とか言われ続けてさ……気づいたら、親に反抗する形で、こんな格好ばっかするようになっちまった」
北斗は苦笑しながら、自分の髪を軽く引っ張る。
「でもさ、そんなふてくされてた時に出会ったのが真珠の奴でさ。あいつ、俺になんて言ったと思う?」
北斗が少し視線を落とし、缶を軽く揺らしながら、遠くを見るように言葉を続けた。
「何て言ったの?」
俺が聞き返すと、北斗は小さく息をつき、肩をすくめる。
「そんな風に悩んでる北斗が可愛いってさ」
「……何それ」
思わず吹き出すと、美弥までクスッと笑った。
「あの子なら言いそう」
「だろ?」
北斗は缶を指でトントンと叩きながら、ふっと息をついた。
「真珠は人を笑顔にする達人なんだよ……そんな真珠が珍しくふさぎ込んでたからさ、ついお節介焼いちまった」
「真珠が……?」
ふと、俺の中で真珠の笑顔が浮かぶ。
思い返せば、真珠はいつも俺のことを気にかけてくれていた。何気ない会話の中で、さりげなく支えてくれていたのに……俺は、それに気づくのが遅すぎたのかもしれない。
自分のことで精一杯で、真珠のことをちゃんと見ようとしていなかった。
ジュースの缶をぎゅっと握りしめ、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、北斗」
静かに、でもはっきりと伝える。
「良いよ、別に」
北斗はさらっと言いながら、ジュースを一口飲んだ。
「おっと、それよりさ、他にもお前に話さなきゃいけないことがあるんだった」
北斗がふと真剣な表情になり、ポケットからスマホを取り出して俺に差し出す。
「……ん?何?」
「これ、見ろよ」
言われるままに画面を覗き込むと、そこには駅前でのゲリラライブの動画が映っていた。俺と北斗、真珠、そして美弥が演奏している、あの日の映像。
「え……これって……」
再生回数を見て、息が詰まる。
「……500万再生!?」
思わず北斗のスマホを掴み、食い入るように画面を見つめた。
馬の覆面をかぶってピアノを弾く俺。真珠の美しい歌声。北斗のリズムを刻むビートボックス。美弥の流れるようなギター。
なんとも微妙な絵面だ。俺の心の中に、驚きと、若干の残念さが入り混じる。
「なんでこんなのが500万も再生されてるんだ……」
複雑な気持ちで呟く俺に、北斗がニヤリと笑いかける。
「そりゃあ、お前が思ってる以上にすげえ演奏だったってことだろ?」
「……いや、そういうことじゃなくて……」
正直、自分が馬の覆面をかぶってピアノを弾いている映像が、ここまでの注目を浴びるとは思ってもみなかった。
すると、動画に釘付けになっていた俺に、北斗が軽く肩を叩いて言った。
「でさ、この動画を見たコミックワールドの主催者が、俺たちにオファーしたいんだとよ」
「えっ!?コミックワールドって、あの国内最大の同人イベント!?」
興奮気味に聞き返すと、北斗は肩をすくめながら頷く。
「そう、そこの主催者が、この動画観て『ぜひ出演してほしい』ってな」
「すごい!出るの!?」
思わず身を乗り出して尋ねると、北斗は俺をじっと見て、ゆっくりと口を開いた。
「何他人事みたいに言ってんだよ」
「え?」
間の抜けた声が出る。
北斗がニヤリと笑う。
「俺たちで出るんだよ」
そう言いながら、美弥の首に腕を回して、強引に引き寄せた。
「ギ、ギブっ……」
無表情のまま、美弥が北斗の腕を激しくタップする。
俺はその光景を見ながら、事態をようやく理解し始めた。
「……俺も、出るの?」