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Episode_9 窮鼠猫を噛む その1

 大陸には大小合わせて数十の国が存在していて、皆それぞれ民族も言語も異なる中で独自の文化を形成していた。そして、そのほとんど全ての国の精神的支柱として頂点に位置するのが教皇庁である。

 どの国も教皇庁の教義を独自に解釈し、教会は王家と並び国家の屋台骨を形成していた。もちろんレバンテスにも国教会というものが存在していて、その意向は王といえども無視すべからざる力を有していた。


 レバンテスの民は特に信心深いことで世に知られている。皆、苦しい生活の中でも常に教会への寄進を怠らず、それゆえ教会は新鮮な農作物や石鹸、蝋燭などに不自由することはあまりない。フィオレンティーナが臨時病院の運営にさほど苦労することなく、ジグムントの問いにも食事は修道院で用意してくれるので困っていないと答えられたのはそのおかげである。


 実はフィオレンティーナが王宮の一角を病院にして重症患者を受け入れて、王都での流行病の蔓延を最小限に食い止めたことは、教会にとってもかなりありがたいことだった。王都は地方に比べて格段に人口が多い。ひとたび流行病の患者が出たら、あっという間に広がってしまう。それに人の流れも激しいから、どうしても地方への流行が広まることは避けようがない。そして地方の住民のほとんどは農民だ。流行病で死者が出れば農家の働き手が減る。それはすなわち、食料供給が不安定になる事態に直結する。特に都市の住民にとっては食料の確保は死活問題で、それが機能不全をおこせばいずれ王家や教会への忠誠心に影を落とすようになるだろう。だからなんとしても疫病の流行を最小限に、王都の内部だけで食い止める必要があった。


 今回、まだ十八歳の若さでありながらその重要な任務を一手に引き受けて、きっちりとやり遂げたことにより、王妃フィオレンティーナは修道院長のシスター・テレジアからの多大な信頼と賞賛を得ることになった。女子修道院の院長と言う肩書のためあまり世間に知られていないが、実はシスター・テレジアはレバンテスの国教会組織の中で五本の指に入る重要人物だ。そのシスター・テレジアと国教会にいわば大きな貸しを作ったことにより、フィオレンティーナは知らず知らずのうちに王族として相当に強固な後ろ盾を手に入れていたのである。……もっとも、フィオレンティーナ自身がその意味を理解するようになるのはまだかなり先の話なのだが。


(チッ、よりにもよって一番会いたくない男と鉢合わせしちまったわ)


 腕に籠を下げて王妃の間に戻ろうとしていたマージョリーは、回廊の向こう側に立っていたトマスの姿を見つけて思わず舌打ちした。


 王宮に設営された病院は閉鎖されたが、シスター・ミラは共に働く中でフィオレンティーナに心酔するようになった。今日は諸々の後片付けが落ち着いたので挨拶に来るついでに、ちょうど食べごろの杏をぜひ王妃様に召し上がって頂きたくてと持ってきてくれた。これなら食欲のない王妃様でも口に入れられるかもしれないと、昨日から熱を出して寝込んでいるフィオレンティーナが心配でならないマージョリーにはそのさりげない優しさが心に沁みた。だがそんな時に不俱戴天の仇であるトマスに出会ってしまったせいで、せっかく凪いだ心にまたしても怒りが蘇ってきた。


 あれほどフィオレンティーナ様は具合が良くないので今夜ばかりは王のお渡りをお止め下さいと頼んだのに、追い打ちをかけるように辛い思いをさせた王の飼い犬の姿など、視界に入れるだけで腹が立つ。だが角を曲がって回り道をしようと決めた時に、タイミング悪く誰かを探すかのように周りを見回しながら歩いていたトマスと目が合ってしまった。咄嗟に横を向いて立ち去ろうとしたが、時既に遅しで、マージョリーは小走りで近づいてきたトマスにがっちりと手首を掴まれて動けなくなってしまった。振りほどこうと腕を振ったはずみで籠から杏が一つ飛び出して、廊下に落ちて転がった。


「待って下さい、マージョリー。貴女を探していたのです」

「……はい?」


 この人、気でも狂ったのかしら。マージョリーは文字通り、ぶったまげた。貴族の、しかも王の側近が侍女のことをマージョリーさん、などと呼ぶなど、普通ではあり得ないことだからだ。口を半開きにして固まっているマージョリーに向かって、トマスは続けた。


「王妃様のお加減はいかがですか」

「……あなた、王妃様の護衛なのにご存じないのですか?」

「申し訳ありませんでした、私がもっと強く陛下をお止めしていればこんなことにはならなかった」


 トマスの謝罪に、マージョリーは思わずフンと鼻を鳴らした。


「今さら何を。大方管理不行き届きだと国王陛下からお叱りを受けたのでしょう。だから今度は王妃様に取り入るために気遣うふりをなさっておられるのですか? ハァ……あなた、いいご身分ですわね、国王陛下と王妃様の両方に尻尾を振って。野良犬だってもう少しあるじと決めた相手には忠誠を尽くすのではございませんこと?」


 早口でまくしたてながらマージョリーは、自分が貴族の男性に向かってこんなにも辛辣な口がきけることに驚いたが、もう止められなかった。だが同じようにカッとなって言い返してくるかと思っていたトマスが何も言わずうなだれたままでいることに気づいて、ふと口をつぐんだ。マージョリーが黙るのを待って、トマスが顔を上げた。


「あなたの言う通りです、マージョリーさん。面目ない。お怒りはごもっともだ。だが頼むから、私の提案を聞いてもらえないだろうか」

「何ですか」

「国王陛下に、一矢報いてやりたいとは思いませんか」

「……なんですって?」


 ちょうどその時、数人の貴族がこちらをじろじろと見ながら通り過ぎようとしていることに気づいて、二人はぱっと手を離し、体裁を取り繕った。一団が回廊の向こうに消えてゆくのを待って、マージョリーが声を潜めながら訊いた。


「どういうことですか?」


 トマスはゆっくりと身をかがめて廊下に落ちた杏を拾い、マージョリーに渡しながら答えた。


「国王陛下とあなたがじかにお話しできる機会を作ります。そこで思っておられることを全て伝えて下さい」

「な……っ、わたくしが国王陛下に? そんなこと、できるわけがないわ。陛下はわたくしの言葉など聞く耳をお持ちにならないでしょうし、お聞きになったらなったで烈火のごとくお怒りになるのが目に見えています。そしたら王妃様がまた辛い思いをなさるだけだとお分かりになりませんこと? 危険すぎですわ。あんまり突拍子もないことばかり仰らないで下さいまし」

「いや、私は真剣です。もちろん私も同席して、あなたの安全は責任を持って保証します。ただし、チャンスは一回きりだ。だから、絶対に失敗は許されない。陛下のお心を動かす方法はもう他にありません。それに……あなたも色々と腹に据えかねていることがあるでしょう?」


 もちろんマージョリーのはらわたはとうの昔に煮えくり返っていた。できることならジグムント簒奪王……いや、暴虐王と刺し違えてやりたいとまで思っている。それができない自分が歯がゆくて悔しくて、何度、王妃の間の扉の前で不寝番を務めながら涙を拭ったことか。だが、今になってこの人からこんな提案を持ちかけられるのは何故だろう。国王陛下の側近という、側の人間であるはずのこの男が。


 どうにもトマスの意図を測りかねたマージョリーが、胡散臭さの残る目でトマスを見つめた。


「なぜあなたがそんなことを仰るのですか? あなたは王に忠誠を誓っておられるのでしょう?」

「それは違う」


 トマスは即座に否定した。その勢いに、マージョリーが一瞬、うっと息を呑んだ。


「私はジグムントが王だから忠誠を誓っているのではありません。彼が王たるに相応しい人間だから忠誠を誓っているのです」

「であれば、尚更あなたが王妃様を気遣う必要などないでしょうに」

「だからこそ、ですよ」


 トマスの言葉に力がこもった。


「?」

「私はフィオレンティーナ様も、王妃に相応しいお人だと思っています。初めてお会いした時からそう思っていたかと訊かれれば……ですが、少なくとも今では本心からそう思っている。フィオレンティーナ様は、貴族達の間で囁かれているような稀代の悪妃などではない。あのお方が稀代の悪妃だと言うのなら、レバンテスの歴史において、良き王妃など存在しないことになってしまう」

「……」


 マージョリーの表情からふっと力が抜けたのを即座に読み取って、トマスは畳みかけた。


「でも残念ながら、今の国王陛下はご自身の心に固く積もった憎しみと過去の因縁に囚われて、正しいご判断ができなくなっておられる。だから、荒療治が必要だ。フィオレンティーナ様がどういうお方なのか、真実を伝える必要があるのです。そして、それができるのは、あなたしかいない。幼い頃から常にそばにいて全てを見て来られた、あなたにしか」

「真実を……」


 二人の視線が交錯した。一人は熱意をこめて、もう一人は真意を測りかねて。


 しばらく考えてから、マージョリーは落ち着いた声で言った。


「……私にどうしろと?」

「聞かせて下さい、何もかも。フィオレンティーナ様がここで……いや、ロリニュスの宮廷にいらした頃から、どう生きてこられたのか、全てを」


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