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Episode_10 稀代の悪妃に敬意を払え その5

 ジグムントはいつも通りの厳しい表情を保ったまま、一瞬だけフィオレンティーナの目をまっすぐに見つめた。その眼差しには曇りがなかった。フィオレンティーナはほっと胸を撫で下ろした。どうやらジグムントもフィオレンティーナの選択を尊重してくれるようだ。そこでジグムントに向かって軽くお辞儀をしてから、口を開いた。


「このように、陛下」

「そうか」


 短く答えると、ジグムントは会場全体を見回し、よく通る声で貴族たちを牽制した。


「皆、異存はないか」

「ございません、陛下。王妃様、寛大なお心に感謝いたします。そして、これまでの無礼、改めてお詫び申し上げます」


 全く、変わり身の早い人たちだこと……。揃って頭を下げる貴族たちを前にして、フィオレンティーナは白けた気分になった。だが、とにかく今この場の空気はフィオレンティーナが支配したと言っていいだろう。まあ、腹の中ではどう思っているかは分からないが。彼らに恩を売りつつ同時に睨みをきかせることはできたし、ヴァーデン侯爵夫人の面子めんつも保つことはできた。彼女なら、きっと後から少々侍女にきちんとお説教を食らわせてくれるだろう。フィオレンティーナはそっと目を伏せた。するとジグムントが再び口を開いた。


「では、今宵の件はこれにて手打ちといたす。それから一つ言っておくが、王室は貴殿ら貴族と袂を分かち合いたい訳ではない。皆それぞれに現状を憂い、国の行く末を案じるが故の行動であることは私も王妃も承知している。だがしかし、忠誠心とお節介を履き違えることのないよう、くれぐれも肝に銘じられよ」


 貴族と袂を分かち合いたい訳ではない……その言葉がどうにか場をまとめ、広間は少しづつ夜会の華やいだ雰囲気を取り戻し始めた。フィオレンティーナが席に戻ろうとして体の向きを変えた時に偶然、ジグムントの手に自分の手が触れた。その瞬間、ジグムントの顔にはっとしたような表情が浮かぶと、すぐにフィオレンティーナの腕を掴んで広間から出て行こうとしたので、不意を突かれたフィオレンティーナは少しよろめいた。


「陛下、どちらへ?」

「今日はこれで下がらせてもらう。皆、存分に楽しんでくれ」

「あ、へ、陛下!」


 今夜の夜会は国王夫妻の出席が慣例となっているのに、大丈夫なのだろうか。焦る侍従長の言葉を無視して廊下に出て行くジグムントに、フィオレンティーナは声をかけた。


「あの、ジグムント様、よろしいのですか、夜会は……」

「手が熱い。熱があるのだろう。夜会などに出ている場合か。部屋へ戻って休め」

「あ」


 ここへ来てフィオレンティーナは、今日もずっと体が熱っぽく、広間の灯りと熱気のせいで息苦しくてたまらなかったことを思い出した。とまどうフィオレンティーナをよそに、ジグムントは廊下をどんどん進んで行く。やがて王妃の間の前まで来ると、ようやくフィオレンティーナは腕を掴んでいた手を解かれて自由になった。ジグムントが扉を乱暴にノックすると、すぐに中で待っていたマージョリーが扉を開けて、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で目の前の二人を代わる代わる見た。


「あの、陛下、これは……」

「熱がある。休ませてやってくれ」

「……かしこまりました」


 いつものように無表情でぶっきらぼうに言い捨てると、ジグムントはそのまま踵を返して去って行ってしまった。フィオレンティーナには、何がなんだかさっぱり分からなかった。ジグムントが自分を庇ってくれたことも、三人の貴婦人への処分を委ねてくれたことも、貴族たちに王妃に敬意を払うよう命じたことも、そして、体調を気遣ってくれたことも……。今までのジグムントのフィオレンティーナへの憎しみと侮蔑に満ちた態度からは、到底考えられないほどの変貌ぶりだ。一体この数日で、彼に何があったというのだろう。妻に平手打ちされたぐらいで、人間そうやすやすと変われるものだろうか? それにマージョリーの態度も何かおかしい。今まではジグムントに威圧されていつも目を合わすこともできないほど萎縮していたのに、今日は受け答えも心なしか堂々としていたような気がした。何が二人を変えたのだろう? 心当たりが全くない。


(さっぱり分からないわ)


 マージョリーに手伝ってもらって重い絹のドレスを脱ぎ、こめかみを締め付ける水晶と金で造られたピンを外して髪をほどくと、ようやくフィオレンティーナは一息つくことができたが、その間もずっとジグムントのあまりの変わりようが心にひっかかっていた。だがマージョリーにとにかく少し眠るようにと言われ、持って来てくれたカモミールのお茶を飲むと、ほどなくして眠気に襲われ、そのまま眠り込んでしまった。

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