──夜の帳が落ちた荒野に、ただ一人這いずる影があった。
アレクシス・フォン・ルクセリア。
かつて王太子と呼ばれ、誰よりも誇り高く、誰よりも"選ばれた者"であると信じていた男。
だが、今の彼にその面影はない。
泥に塗れた衣服はずたずたに裂け、血と汗にまみれた肌はあまりに惨めだった。
その右手は血まみれのまま地面を這い、左腕は……もう、ない。
痛みが、熱となって意識を蝕んでいく。
鋭く、脳髄をえぐるような苦しみ。
──焼ける。
──壊れる。
──死ぬ。
こんなところで、死ぬわけにはいかないのに。
「……何を……まさか……僕にトドメを刺しに来たのかっ!?この卑怯者!堂々と勝負しろ!今の僕を殺してどうするつもりだっ!恥ずかしいと思わないのかっ!?」
声を振り絞り、罵倒を吐き捨てる。
月明かりの下、ゆっくりとした足取りで近づく影。
その男は、嘲るような微笑を浮かべていた。
「……あはは。それ貴方が言いますか」
アスフィだった。
淡々とした声音。
軽く、柔らかく、だが冷たい言葉。
その態度が、たまらなく癇に障る。
「くっそ……せっかくここまで無様を承知で逃げてきたというのに……ここまでか……っ!なんで僕の人生はこうも計画通りにいかないのだっクッッソ!!」
唇を噛み、拳を地面に叩きつける。
泥にまみれ、血が混じり、何度も何度も、手のひらが裂けようとも、痛みが消えることはない。
(全てあの女のせいだ……全てあの女のせいだ……全てあの女のせいだ……!)
あいつが僕をここまで追い詰めた。
あいつが、僕の未来を奪った。
──リリアナあああああああああああああああああああっ!!!
彼女の名を叫ぶたびに、憎しみが身体の奥底から溢れ出る。
その感情だけが、今の僕を繋ぎ止めている。
「……何か勘違いしているようなので、一応訂正しておきますね」
アスフィが、淡々と語る。
「僕は、貴方が本当に死んだのか確認しにきた。それだけです」
「……なん……だと?どういうことだ」
アレクシスは顔を上げる。
思考がまとまらない。
混乱する頭に、アスフィの言葉が引っかかる。
「そのままの意味です。僕はこの世界に干渉すべきじゃない。これ以上は」
干渉すべきじゃない?
何を言っている?
お前は一体、何者なんだ?
答えの出ない疑問が、絶え間なく脳を駆け巡る。
「さて、ではこれで失礼します」
アスフィが踵を返す。
まるで、もう僕に興味はないとでも言うように。
「──ま、待てっ!!」
喉から叫びが飛び出る。
無様だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
──行くな。
まだ、終われない。
僕の復讐は、僕の執念は、まだ何も果たせていないのだから。
「……まだ僕に何か用ですか?」
背を向けたまま、アスフィは冷ややかに問いかける。
「僕を……殺さないのか?」
アレクシスの問いに、青年はわずかに首を傾げた。
「殺して欲しいんですか?」
「むしろ何故殺さない!?僕は君の仲間を──」
「仲間じゃありません」
鋭い言葉が、アレクシスの言葉を断ち切った。
「それに僕はヒーラーです。癒すことは出来ても、殺しは僕の専門外です」
ヒーラー……
そうだったな、こいつはヒーラーだった。
ならば、僕を助ければいいじゃないか。
僕を癒し、生かし、力を取り戻させればいいじゃないか。
だが、アスフィはその一言で、僕を見捨てた。
「ではお元気で……って、これは今の貴方に送る言葉ではないですかね」
「んぐぐぅ……っ」
悔しい。惨めだ。
僕は……こんなところで終わるべきじゃないのに……!
「ではこうしましょう」
アスフィが微笑んだ。
それは、慈悲でもなければ、憐れみでもない。
ただ、冷酷な"事実"を突きつけるような微笑みだった。
「
──残酷な判決だった。
「……ロクな死に方はしないと思いますが」
それだけ呟いて、アスフィは歩き去る。
何の未練もないように、僕を置き去りにして。
見捨てられた。
リリアナに敗れ、
アルフォードを失い、
そして、今度はアスフィにすら見放された。
──僕は、誰からも見捨てられたのか?
もう、僕に手を差し伸べる者はいないのか?
指先が震える。
地面に這いつくばり、手を伸ばす。
だが、そこに掴めるものは何もない。
やがて、アスフィの姿は闇の中に溶けて消えた。
冷たい夜風が吹く。
だが、心の中に渦巻く炎は、まだ消えはしない。
リリアナ……
お前を、絶対に許さない……
必ず、お前を地獄へ引きずり込んでやる……
僕はまだ……終わらない……
絶対に……終わらせはしない……。
──夜の冷気が、街を包み込んでいた頃。
宿での死闘が終わり、血の臭いもまだ微かに残るこの場所で、リリアナは息を吐いた。
それは、安堵の吐息のはずだった。
けれど、どうしてだろう。
胸の奥が、ずっと重い。
戦いが終わったはずなのに、何かが足りない。
「……お嬢様、その方はいましたか?」
ミレーヌの声が聞こえた。
リリアナは周囲を見渡す。
しかし──
「……いえ、居ないわね」
アスフィの姿は、どこにもなかった。
この戦いの勝利に最も貢献した男の姿が、忽然と消えていた。
(おっかしいなぁ……どこへ行っちゃったんだろう)
眉をひそめる。
彼に礼を言いたかった。
彼に、感謝を伝えたかった。
それなのに──
──ぽつり、と。
リリアナの頬を、一滴の冷たい感触が流れた。
これは、涙……?
いや、違う。
「……あれ?」
リリアナが空を仰ぐと、暗い雲の隙間から、ひとひらと白い何かが舞い降りるのが見えた。
雪。
戦いの終わりと共に、空から舞い降りた、静かな雪。
何故だろう。
妙に、胸が締めつけられる。
アスフィはどこへ行ったのだろう。
彼は、何者だったのだろう。
どうして、ここに来て、そしていなくなったのだろう──
思考が絡まり、答えが出ない。
そんな時──
「……あの、お嬢様」
ふと、ミレーヌが言葉を詰まらせた。
「……なぁに?」
リリアナは、ミレーヌの顔を見つめる。
彼女は少し俯いて、手をぎゅっと握りしめていた。
「一つ……お聞きしてもよろしいですか?」
「え?」
ミレーヌは、まっすぐリリアナを見つめた。
その瞳には、少しの不安と、迷いが宿っていた。
「お嬢様はその……リリアナお嬢様……で、いいのですよね?」
「え……?」
一瞬、呼吸が止まり、鼓動が早くなる。
(あ……しまった)
先ほどまでの自分の口調を思い返し、リリアナは内心で焦った。
無意識に、前世のような話し方に戻っていたのだ。
「あ、いえ? そうですわよ? どうかしましたか、ミレーヌ?」
慌てて取り繕う。
だが、ミレーヌは俯いたまま、手をぎゅっと握りしめたままだった。
「私、正直状況が掴めませんでした。でも、話は聞いていました。お嬢様とアレクシス王太子殿下の話を……」
「……それで、どう思ったの?」
リリアナは、無意識に息を呑んでいた。
喉が渇く。
彼女は、何を言うのだろう。
ミレーヌは──以前の"リリアナ"の方が良かったと思うのだろうか?
「……ミレーヌは、以前のわたしの方がいい?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
もし「はい」と言われたら。
もし「以前のお嬢様の方が良かった」と言われたら──
そんな思いが込み上げてくる。
「い、いえっ! そういうわけでは!!」
ミレーヌは、慌てて顔を上げる。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「むしろ、私は……今のリリアナお嬢様の方が好きです!」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
きっと、予想していた答えと違ったからかもしれない。
「私は以前のメイドが辞めたと聞いて、それで代わりにお世話することになったんです。でも……お嬢様は、最初から私に優しかった。気遣ってくださった。お嬢様に仕えるのが、誇りでした……!」
ミレーヌは、胸の前で手を握りしめる。
その肩が、小刻みに震えていた。
「私は、メイド学校を卒業し、勤め先を探していました。そこで声を掛けてくださったのが、帽子を深く被った方でした」
「帽子を?」
リリアナは首を傾げる。
(顔でも隠したかったのかな?)
「はい。その方がリリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢に仕えなさいと言ってきたのです」
「……なんで、指定?」
「私にも分かりません。でも……あの時の私は、何もかも不安でした。未来も、希望もなくて……ただ、どこかで必要とされたいと、そう思っていました」
ミレーヌは目を伏せる。
その声には、ほんの少しの震えがあった。
「だから、エルフェルト公爵家を尋ねてみました。……そして、お嬢様に出会いました」
彼女は、ゆっくりとリリアナを見つめる。
その瞳には、確かな"想い"が宿っていた。
「つまり、私は今のリリアナお嬢様しか知りません。ですので……その……」
ミレーヌは、一歩、リリアナに近づいた。
そして、迷いながらも意を決したように──
「引き続き、お嬢様のメイドとしてお仕えしてもよろしい……でしょうか?」
──涙が、頬を伝う。
こんなにも、まっすぐに、真剣に、自分を見てくれる人がいる。
こんなにも、自分を想ってくれる人がいる。
前世では無かった経験だ。
「……っ!」
リリアナは、堪えきれなかった。
気づけば、ミレーヌの身体を、強く、強く抱きしめていた。
「もっっっっちろんっ!! これからもよろしくね、ミレーヌ!!」
震える声で、何度も、何度も叫ぶように。
「はいっ!! これからもよろしくお願いします、お嬢様!!」
ミレーヌの目にも、大粒の涙が溢れていた。
けれど、それは悲しみの涙ではない。
温かくて、優しくて、"居場所"を感じられる涙だ。
──もう、二度と離れない。
もう、二度と独りにさせない。
この絆は、決して、壊れない。
そう、二人は誓った。
凍える夜の中、舞い落ちる雪が、二人の肩を優しく包み込む。
世界は静かに、祝福を送っていた──。