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第四十二話「Tears in the Snow」

 ──夜の帳が落ちた荒野に、ただ一人這いずる影があった。


 アレクシス・フォン・ルクセリア。


 かつて王太子と呼ばれ、誰よりも誇り高く、誰よりも"選ばれた者"であると信じていた男。


 だが、今の彼にその面影はない。


 泥に塗れた衣服はずたずたに裂け、血と汗にまみれた肌はあまりに惨めだった。

 その右手は血まみれのまま地面を這い、左腕は……もう、ない。


 痛みが、熱となって意識を蝕んでいく。

 鋭く、脳髄をえぐるような苦しみ。


 ──焼ける。

 ──壊れる。

 ──死ぬ。


 こんなところで、死ぬわけにはいかないのに。


「……何を……まさか……僕にトドメを刺しに来たのかっ!?この卑怯者!堂々と勝負しろ!今の僕を殺してどうするつもりだっ!恥ずかしいと思わないのかっ!?」


 声を振り絞り、罵倒を吐き捨てる。


 月明かりの下、ゆっくりとした足取りで近づく影。

 その男は、嘲るような微笑を浮かべていた。


「……あはは。それ貴方が言いますか」


 アスフィだった。


 淡々とした声音。

 軽く、柔らかく、だが冷たい言葉。


 その態度が、たまらなく癇に障る。


「くっそ……せっかくここまで無様を承知で逃げてきたというのに……ここまでか……っ!なんで僕の人生はこうも計画通りにいかないのだっクッッソ!!」


 唇を噛み、拳を地面に叩きつける。


 泥にまみれ、血が混じり、何度も何度も、手のひらが裂けようとも、痛みが消えることはない。


(全てあの女のせいだ……全てあの女のせいだ……全てあの女のせいだ……!)


 あいつが僕をここまで追い詰めた。

 あいつが、僕の未来を奪った。


 ──リリアナあああああああああああああああああああっ!!!


 彼女の名を叫ぶたびに、憎しみが身体の奥底から溢れ出る。

 その感情だけが、今の僕を繋ぎ止めている。


「……何か勘違いしているようなので、一応訂正しておきますね」


 アスフィが、淡々と語る。


「僕は、貴方が本当に死んだのか確認しにきた。それだけです」


「……なん……だと?どういうことだ」


 アレクシスは顔を上げる。

 思考がまとまらない。

 混乱する頭に、アスフィの言葉が引っかかる。


「そのままの意味です。僕はこの世界に干渉すべきじゃない。これ以上は」


 干渉すべきじゃない?

 何を言っている?

 お前は一体、何者なんだ?


 答えの出ない疑問が、絶え間なく脳を駆け巡る。


「さて、ではこれで失礼します」


 アスフィが踵を返す。

 まるで、もう僕に興味はないとでも言うように。


「──ま、待てっ!!」


 喉から叫びが飛び出る。

 無様だと分かっていても、言わずにはいられなかった。


 ──行くな。


 まだ、終われない。

 僕の復讐は、僕の執念は、まだ何も果たせていないのだから。


「……まだ僕に何か用ですか?」


 背を向けたまま、アスフィは冷ややかに問いかける。


「僕を……殺さないのか?」


 アレクシスの問いに、青年はわずかに首を傾げた。


「殺して欲しいんですか?」


「むしろ何故殺さない!?僕は君の仲間を──」


「仲間じゃありません」


 鋭い言葉が、アレクシスの言葉を断ち切った。


「それに僕はヒーラーです。癒すことは出来ても、殺しは僕の専門外です」


 ヒーラー……

 そうだったな、こいつはヒーラーだった。


 ならば、僕を助ければいいじゃないか。

 僕を癒し、生かし、力を取り戻させればいいじゃないか。


 だが、アスフィはその一言で、僕を見捨てた。


「ではお元気で……って、これは今の貴方に送る言葉ではないですかね」


「んぐぐぅ……っ」


 悔しい。惨めだ。


 僕は……こんなところで終わるべきじゃないのに……!


「ではこうしましょう」


 アスフィが微笑んだ。


 それは、慈悲でもなければ、憐れみでもない。

 ただ、冷酷な"事実"を突きつけるような微笑みだった。



 ──残酷な判決だった。


「……ロクな死に方はしないと思いますが」


 それだけ呟いて、アスフィは歩き去る。

 何の未練もないように、僕を置き去りにして。


 見捨てられた。


 リリアナに敗れ、

 アルフォードを失い、

 そして、今度はアスフィにすら見放された。


 ──僕は、誰からも見捨てられたのか?


 もう、僕に手を差し伸べる者はいないのか?


 指先が震える。

 地面に這いつくばり、手を伸ばす。


 だが、そこに掴めるものは何もない。


 やがて、アスフィの姿は闇の中に溶けて消えた。


 冷たい夜風が吹く。


 だが、心の中に渦巻く炎は、まだ消えはしない。


 リリアナ……

 お前を、絶対に許さない……


 必ず、お前を地獄へ引きずり込んでやる……


 僕はまだ……終わらない……


 絶対に……終わらせはしない……。



 ──夜の冷気が、街を包み込んでいた頃。


 宿での死闘が終わり、血の臭いもまだ微かに残るこの場所で、リリアナは息を吐いた。


 それは、安堵の吐息のはずだった。


 けれど、どうしてだろう。


 胸の奥が、ずっと重い。

 戦いが終わったはずなのに、何かが足りない。


「……お嬢様、その方はいましたか?」


 ミレーヌの声が聞こえた。

 リリアナは周囲を見渡す。


 しかし──


「……いえ、居ないわね」


 アスフィの姿は、どこにもなかった。

 この戦いの勝利に最も貢献した男の姿が、忽然と消えていた。


(おっかしいなぁ……どこへ行っちゃったんだろう)


 眉をひそめる。


 彼に礼を言いたかった。

 彼に、感謝を伝えたかった。


 それなのに──


 ──ぽつり、と。


 リリアナの頬を、一滴の冷たい感触が流れた。


 これは、涙……?


 いや、違う。


「……あれ?」


 リリアナが空を仰ぐと、暗い雲の隙間から、ひとひらと白い何かが舞い降りるのが見えた。


 雪。


 戦いの終わりと共に、空から舞い降りた、静かな雪。


 何故だろう。


 妙に、胸が締めつけられる。


 アスフィはどこへ行ったのだろう。

 彼は、何者だったのだろう。

 どうして、ここに来て、そしていなくなったのだろう──


 思考が絡まり、答えが出ない。


 そんな時──


「……あの、お嬢様」


 ふと、ミレーヌが言葉を詰まらせた。


「……なぁに?」


 リリアナは、ミレーヌの顔を見つめる。

 彼女は少し俯いて、手をぎゅっと握りしめていた。


「一つ……お聞きしてもよろしいですか?」


「え?」


 ミレーヌは、まっすぐリリアナを見つめた。

 その瞳には、少しの不安と、迷いが宿っていた。


「お嬢様はその……リリアナお嬢様……で、いいのですよね?」


「え……?」


 一瞬、呼吸が止まり、鼓動が早くなる。


(あ……しまった)


 先ほどまでの自分の口調を思い返し、リリアナは内心で焦った。


 無意識に、前世のような話し方に戻っていたのだ。


「あ、いえ? そうですわよ? どうかしましたか、ミレーヌ?」


 慌てて取り繕う。


 だが、ミレーヌは俯いたまま、手をぎゅっと握りしめたままだった。


「私、正直状況が掴めませんでした。でも、話は聞いていました。お嬢様とアレクシス王太子殿下の話を……」


「……それで、どう思ったの?」


 リリアナは、無意識に息を呑んでいた。


 喉が渇く。


 彼女は、何を言うのだろう。

 ミレーヌは──以前の"リリアナ"の方が良かったと思うのだろうか?


「……ミレーヌは、以前のわたしの方がいい?」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


 もし「はい」と言われたら。

 もし「以前のお嬢様の方が良かった」と言われたら──


 そんな思いが込み上げてくる。


「い、いえっ! そういうわけでは!!」


 ミレーヌは、慌てて顔を上げる。


 その瞳には、強い意志が宿っていた。


「むしろ、私は……今のリリアナお嬢様の方が好きです!」


「……え?」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


 きっと、予想していた答えと違ったからかもしれない。


「私は以前のメイドが辞めたと聞いて、それで代わりにお世話することになったんです。でも……お嬢様は、最初から私に優しかった。気遣ってくださった。お嬢様に仕えるのが、誇りでした……!」


 ミレーヌは、胸の前で手を握りしめる。


 その肩が、小刻みに震えていた。


「私は、メイド学校を卒業し、勤め先を探していました。そこで声を掛けてくださったのが、帽子を深く被った方でした」


「帽子を?」


 リリアナは首を傾げる。


(顔でも隠したかったのかな?)


「はい。その方がリリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢に仕えなさいと言ってきたのです」


「……なんで、指定?」


「私にも分かりません。でも……あの時の私は、何もかも不安でした。未来も、希望もなくて……ただ、どこかで必要とされたいと、そう思っていました」


 ミレーヌは目を伏せる。


 その声には、ほんの少しの震えがあった。


「だから、エルフェルト公爵家を尋ねてみました。……そして、お嬢様に出会いました」


 彼女は、ゆっくりとリリアナを見つめる。


 その瞳には、確かな"想い"が宿っていた。


「つまり、私は今のリリアナお嬢様しか知りません。ですので……その……」


 ミレーヌは、一歩、リリアナに近づいた。


 そして、迷いながらも意を決したように──


「引き続き、お嬢様のメイドとしてお仕えしてもよろしい……でしょうか?」


 ──涙が、頬を伝う。


 こんなにも、まっすぐに、真剣に、自分を見てくれる人がいる。

 こんなにも、自分を想ってくれる人がいる。


 前世では無かった経験だ。


「……っ!」


 リリアナは、堪えきれなかった。


 気づけば、ミレーヌの身体を、強く、強く抱きしめていた。


「もっっっっちろんっ!! これからもよろしくね、ミレーヌ!!」


 震える声で、何度も、何度も叫ぶように。


「はいっ!! これからもよろしくお願いします、お嬢様!!」


 ミレーヌの目にも、大粒の涙が溢れていた。


 けれど、それは悲しみの涙ではない。


 温かくて、優しくて、"居場所"を感じられる涙だ。


 ──もう、二度と離れない。

 もう、二度と独りにさせない。


 この絆は、決して、壊れない。


 そう、二人は誓った。


 凍える夜の中、舞い落ちる雪が、二人の肩を優しく包み込む。


 世界は静かに、祝福を送っていた──。

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