明治の世。新政府を中心とした日本の中心を形作るのは士族から華族へと変化していた。その多くはただ肩書が変わっただけの者たちが多かったが、装いは急速に洋式化していく。
和装は洋装に取って代わり、籠は馬車へと代わる。
建物も例外ではない。とはいえ、本格的な洋式建築などは建築中の迎賓館が取り入れている程度のもので、大概は“ガワ”だけの建物がほとんどだ。
そんな中、数少ない本格的な西洋建築である緑小路屋敷の主である緑小路寛治は、書斎の揺り椅子に腰かけていた。
黒いジャケットをテーブルに放り投げ、肩を落とした彼の表情は、絶望と焦燥が綯い交ぜになっている。
魂が抜けたような虚ろな瞳をして、書斎に響くノックの音にも反応が無い。
ほどなく、緑小路の返答を待たずに一人の男が入ってきた。
「失礼いたします、旦那様」
「……佐崎か」
佐崎と呼ばれた執事服を纏う男は、一礼して勝手を詫びた。そのことを緑小路は咎めず、ただ視線だけを向ける。
「お嬢様の件ですが」
そう切り出した佐崎の言葉に、緑小路がぴくりと肩を震わせる。
「佐崎、やはり花が誘拐されたというのは、間違いないのだろうか」
話を遮るように口を開いた緑小路の言葉は、堰を切ったようにこぼれ出た。
「花はもう十五歳だ。一人でどこかに隠れているということは……いや、わかっている。これは逃避でしかない。無様を見せたな」
嘆息する緑小路に、佐崎は頭を振る。
「お嬢様がご友人と共に行方不明。お付きの者は死体で見つかり、天誅の書置き。平然としていられようはずがありません。発覚からすでに五時間。何らの要求もないこの状況。斯く言う私も、居ても立っても居られぬ心境でございます」
緑小路はどちらかと言えば穏健派で政治的なバランス感覚が良い。政敵がいないわけではないが、これほどの強硬策に出るような相手は当人にも佐崎にも思い当たらない。
「天誅などと……新政府に冷遇された連中の仕業やも知れぬ。だが、それだけではな」
このまま警察に任せるしかないのだろうか、とこぼす主人を相手に、佐崎は深々と一礼して「お願いがございます」と切り出した。
「お恥ずかしながら、若い頃に些か荒事の経験がございます。お許し頂ければ、警察連中とは別の伝手で捜索いたしたく」
佐崎の目には、鈍い光が灯っている。
「……荒事か。詳しくは聞かない方が良いのだろうな……許す。いや、頼む。後始末はわしがやる。だから……」
「御意。……旦那様、ありがとうございます。私は旦那様とお嬢様にお仕えできて、幸せでございました」
緑小路は慌てて佐崎を振り返った。その顔には焦りが。
「娘とお前を引き換えにしたいわけではない。二人で戻ってきてくれ」
「かしこまりました、旦那様。もう夜も遅い時間でございます。どうぞ少しでもお休みください。旦那様には旦那様にしかできないことがございます。今は体力を温存くださいませ」
「……わかった」
ふらりと立ち上がり、自室へと戻っていく緑小路を見送った佐崎の顔は、まるで研ぎ澄まされた刃のような、熱を帯びた冷徹さを帯びている。
佐崎の言葉には嘘があった。
無事に戻れずとも良いという覚悟があっての言葉であり、自身の命ごときで恩人の娘が助かるのであれば安いものだと心の底から思っている。
自室へと入った佐崎は、ゆっくりと三度の深呼吸を行う。
鼻からたっぷりと息を吸い込み、薄く開いた口からゆっくりと吐く。
「手引きした者が、屋敷の中にいる可能性がありますね」
行燈の薄暗い灯りの中で、簡素な寝台の下から一つの木箱を引きずり出した。
ぼろ布で箱に積もった埃を丁寧に拭い、金具を外して蓋を持ち上げる。
「当家のお嬢様であると知っての犯行であれば、必ずやその動向について調査をしたであろうことは明白でしょう。当家の者たちか先方の関係者か、いずれかに共犯がいるはずです」
箱の中身を一つ一つ取り出し、寝台の上に並べていく。
「外からの監視の可能性もありますが、警備の者からは特に怪しい者の報告はありませんし、それだけでお嬢様の予定がわかるはずもありません」
並べられたのは、刀身僅か二寸の、それも内反りの奇妙な短刀が五本。
「未練がましく手入れをしていたこれを、再び使うことになるとは……」
上着を脱ぎ、短刀と共に箱から取り出した革帯を身体に巻き付け、そこに短刀を一本ずつ差し込んで固定していく。
再び上着を羽織ると、短刀も帯もその存在が完全に隠れてしまう。
「一人、怪しい者がいますね。まずはそこから当たってみましょう」
佐崎は邸内の使用人の中で、一人だけ怪しいと感じていた人物を脳裏に浮かべていた。
自室を出て廊下を進む間、彼の中には下手人に対する激しい怒りと、これまでの数年過ごしていたこの屋敷と、そこに働く人々への感謝が渦巻いていた。
すれ違った侍女の会釈に応え、労をねぎらう姿は、彼の心境の激しさも、過去に荒んだものがあることも、微塵にも感じさせない。
歩きながら絹の手袋をつけ、身に着けた短刀の存在をさりげなく確認する。
それは使用人としてこの屋敷で働き始めたころまで、何度も繰り返してきた行動であった。そして緑小路から執事として自分たち家族を支えて欲しいと言われた日、武器を置くことを決めて以来、数年ぶりの行動でもある。